少年、それは手ごわい 10
―――俺と話していた、井上の視線が氷室へと向けられる。
「なにこんなところでいちゃいちゃしてるんだよ」
「い、いちゃいちゃ?!」
捕まえていた、井上の手首が離れていく。
「お前らって付き合ってたっけ?」
「違うわよっ。こ、これはちょっと高橋君に渡すものがあったからっ」
親しげに交わされる、二人の会話。そのぽんぽん弾む会話の調子は俺と話すときにはないものだった。
二人がクラスメイトで、いつもこんな風に話しているとわかる様子に、以前も感じたことのある感情が湧き上がった。
「えっとこれ、はい」
それでも頬を真っ赤に染めて、井上が手渡してくれたカップケーキに一瞬気分は持ち直したが、「あれえ?これってさっきのカップケーキじゃん。」と再び割り込んできた氷室によってまた眉間に皺が寄ってしまった。
氷室に向かって目を吊り上げて怒る、井上の姿。その円らな瞳に、今は俺は移ってはいない・・・そんなことを認めると、ちらりと疎外感が胸を過ぎった。
おかしい。
俺と氷室は同じ中学校出身で、クラスは同じになったことがないが一度だけ同じ委員になったことがあった。
氷室は俺とは違った意味で女子生徒とは距離を置いていた様子だが、男子生徒に対しては割と気さくに話す奴だった。
あまり自分から進んで人と係わらない俺からすれば、(からかわれるのは別にして)好ましい方に位置する人物だったはずだ
それが、どうしてだか今は不愉快でしかたがなかった。以前はほんの少し感じていたものが、今それは大きく育っていた。
「高橋ー、それ、俺にちょうだい? おまえ、甘いもの食べる顔してないだろ。俺が食べてやるよ」
「・・・断る」
答える声も自然と低くなってしまう。
井上の作ってきたカップケーキが欲しいと、にやりと含み笑いする端整な顔にいらついて、気分を落ち着かせるために大きく息を吐いた。しかもそこから甘いもの好きまでばれてしまって、けたけたと笑う氷室の姿に不機嫌さMAXだ。
口の中に、なんとも言えない苦いものが広がっていく。
先ほどまで春の陽だまりの中に居るような気持ちだったのが、突然泥の中に放り込まれたような気分になる。
そしてそれが最高潮になったのは、ちらりとこちらに意味ありげな笑みを放った氷室が、俺と井上の間に入ってじりじりと井上に迫っていった時だった。
「だってそれって体育祭のことで鈴木に作ってきたんだろ?なら俺だって食べる権利あるはずだよな?」
「いや、だからそれ意味がわからないから。」
氷室も背が高く、目の前の井上がすごく小さく見えた。
言い争う中、憤慨する様子の井上の頭を宥めるようにぽんぽん、と氷室の長い指が叩く。それは何気なさを装いながらもちゃんと優しさを伴っていて、そのことがちり、と胸を焦がした。
「俺、井上の作るお菓子好きなんだよ、いいだろ?」
「嫌だ!なんでわざわざあんたに作って来ないといけないの」
「まぁまぁ、そう言うなって」
髪をぐしゃぐしゃにされて怒るその垂れ勝ちの瞳は氷室を見上げていて、また、井上の視界に俺は入っていない。
どうしようもない気分に襲われて、気がついたら俺は動いていた。
氷室の肩に手を伸ばして掴もうとしたその時。
「ばかばかそもそも逆なのよっ、高橋君に渡すために持ってきたからあんたの分はなかったのよ!」
井上の言葉に、俺の思考は一瞬止まった。
・・・なんだって?
慌てたように氷室の影からぴょこんっと飛び出してきた井上の顔は、首まで赤く染まっていた。
「ほ、ほら、土曜日、高橋君美味しいって言ってくれたし、また作ってくるって言ってたし、それで、作ってこようかと・・・と、友達にお詫びもしなくちゃだったし!」
言葉を頭が理解すると同時、緩やかに歓びが這い登ってくる。
自分のためにわざわざ作ってきてくれたのかと、手にした小さな紙袋からあたたかいものが伝わってくる気がした。
「土曜日って、お前ら一昨日も会ってたのかよ・・・」と氷室がなにやら呟いていたが俺の耳を綺麗に通りぬけていった。ただ、俺を見上げる井上の円らな瞳が涙目になっていくのを見つめていると、恥ずかしげにぱっと目が逸らされる。
「ということで、またね!」
「―――」
顔を伏せて逃げようとした井上の手首を握ったのは、反射的だった。
驚いて俺を見上げてくる、耳まで赤い井上に向かって、言葉を捜しながらゆっくりと自分の気持ちを伝える。
「・・・喰うの、楽しみにしてる」
「・・・うんっ」
嬉しそうに綻ぶその顔も瞳も、俺を見つめていることにゆるゆるとまた気持ちが満たされていく。
だから。
「つうかなんか俺あれじゃね。お邪魔虫」
「ばっ、何言ってんのよっ、ちょっとあんたは黙って―――」
氷室がまたぼそっと呟いて、それに反応した井上が顔をまた氷室に向けようとしたのがわかったとき、咄嗟にくいっと捕まえたままの手首を引いてそれを阻んでしまった。
「「・・・・」」
井上の意識がまたこちらに向いてほっとするのと同時、困惑した意識も伝わってきて俺ははっと我に返った。
―――俺はいったい、何をやっているんだ。
「・・・悪い」
「え、わ、と、ううん!」
手首を離すと、視線を逸らしたままの井上が頷いた。俺はそんな自分の手をしげしげと見つめる。自分でも、どうしてそんなことをしたのかわからなかった。
「・・・あーうん。悪かった。俺はもう行くから、好きなようにしてくれ」
「えっちょっ氷室っ」
ひらひらと手のひらを振って、呆れたような声を残して氷室の背中が遠ざかっていくのを俺は罪悪感を胸に見送った。
すまん、氷室。
客観的にみて俺の態度は褒められたものじゃないのはわかっていた。だが、無意識に手が動いてしまっていた。
俺はもう一度井上の旋毛を見下ろした。井上の生きいきとした瞳は、今は伏せられている。
自分の気持ちに戸惑いながらも、俺は改めてカップケーキの礼を言った。
こくりと頷く井上のふわふわの髪が揺れて、俯いた頬が上気しているのが目に入ったとき、どうしようもなく胸が疼いてたまらなくなった。
・・・髪に、触れたい。
手を伸ばせばそこに井上がいる。いつもなら何も考えずにしていたことが、何故だかその時は手を伸ばすことができなかった。