少年、それは手ごわい 9
「さあって、と。こうだいくん。
お話、聞かせてもらおうかしらね?」
「・・・話し?」
それは、井上が帰った次の日、日曜日の夜のことだった。
父さんと母さんは二人で出かけてて今はいない。久しぶりに二人だけで外出中だ。
目ざとい姉達は冷蔵庫から井上の持ってきたロールケーキを見つけて、食後のデザートとしてリビングで座って食べていた。俺はもう自分の分は喰ってしまっていたので、代わりに井上から教えて貰った、焼いたトーストにキャラメルクリームを塗ったものを食っていたんだが・・・美味い。
こんがりと焼けたトーストの熱でクリームが溶けて、よくパンに馴染んでる。口の中にじゅわっと広がる香ばしいパンとキャラメルの風味が、なんとも言えず美味かった。
が、その寛いだ時間も詩織姉の言葉で終わりを告げた。膝丈まであるロングTシャツにジーンズ姿の詩織姉がにっこりと満面の笑みを浮かべて見つめてきたから、俺は眉を寄せて身構える。
言うまでもなく、嫌な予感満載の笑顔だ。
「そ。かわいいかわいい愛那ちゃんのこと」
「・・・・・」
「え?なになに?だれそれ?!」
同じく詩織姉と共に床に座り込んで寛いでいた茜姉が興味深々に身を乗り出してくる。休みの日でもきっちり私服に着替える詩織姉とは違ってこちらは楽なスェット姿だ。こういう所にも天真爛漫な長女、抜け目のないちゃっかりものの次女、という各々の性格がよく現れてるなと思う。ちなみに俺はジャージ姿だが、一応このまま外に出ても大丈夫なものを着ている。
俺は目をきらきらさせる茜姉の姿を見て頭を抱えたくなったが、堪えた。
とにかく落ち着け、このままじゃ奴らに言いように遊ばれるだけだ。
ふいと二対の面白いものみつけた~!と言わんばかりの視線を避け、俺はカップを手に持ったままソファに逃亡した。相手をしないというアピールだが、もちろんこの姉たちがそんなことを許してくれるはずがなかった。
「このロールケーキと、キャラメルクリームを持ってきてくれた女の子のこと」
「え。なに、この唐変木、いつの間にそんな彼女なんてこさえたのよ?!」
茜姉のテンションが上がるのを見て、俺は深いため息を吐きながら「彼女じゃない」と訂正したんだが、聞こえてる様子はなかった。含み笑いの詩織姉の言葉が更にそれを後押しする。
「そうよー女に興味ないって顔しながら、ちゃっかり自分の部屋に連れ込もうとするんだもの」
「―――連れ込んでな」
「ええっ部屋に?って、ここに来たの?!いつ!」
「昨日の昼間。忘れ物して帰ってきたら、かち合ったのよ。まったく、誰も居ないとき見計らうなんてねー」
否定の言葉は茜姉の声にかき消され、からかう詩織姉の言葉に俺は思い切り眉を寄せた。
というか、部屋に連れ込むのを阻止したのは誰だ。思いっきりひとのこと『ナチュラルすけべ』と罵ってくれたくせに。と思ったが下手に言い返すとさらにややこしいことになる予感がした俺は、気持ちを抑えるため手にもったカップに口につけたんだが。
井上を彼女だと勘違いしたままの茜姉が、満開の笑顔で俺を見上げて言った。
「で、その彼女とどこまですすんでるの?」
ぶっと思わずキャラメルラテを噴出しそうになった。げほごほと咳き込む。
「バカ言うな、髪を撫ぜただけで彼女じゃない!」
「「・・・・・・」」
しかし返ってきたのは沈黙で、床の上の二人は揃って顔を見合わせていた。
再び口を開いたのは茜姉の方で、なんだかぴくぴくと口元が笑いを堪えるように引きつっている。
「へぇー?髪を、ねえ・・・。
で、いったいなんで髪なんか撫ぜっちゃったのかなー?」
「なんでって・・・」
からかうような茜姉の言葉に、俺は詰まった。改めて突っ込まれると、意識してやったわけじゃないから答えが出ない。
どうして髪を撫ぜたか?
自問すると同時、脳裏に、ふにゃっと無防備に眉を下げて微笑む井上の姿が浮かんだ。
「井上の笑顔を見ていたら髪を撫ぜたくなった」
「「・・・・・」」
浮かんだ気持ちそのまま言葉にしたら、床の上の二人が再び沈黙した。
その後、急に茜姉がソファからクッションを引っつかんで胸元に抱き込んだかと思うと、ごろごろと床を転げまわった。
「ぎゃーなにこのむずがゆいっ、むずがゆいわよ鉱大っ」
悶える姉を眉を寄せてソファの上から見下ろしていると、もう一人の姉が生温かい視線を向けてきた。
なんだそのかわいそうなものを見る目は。
「で?」
「・・・・で?とは」
「なんで、撫ぜたくなったの?」
「―――わからん」
率直に首を振ると、目の前の二人がなにやら顔を寄せ合った。
「せ、青春小僧がいる・・・っ」
「うわー思春期まっさかり・・・」
「堪らん・・・!」
テンション高い茜姉がだんだんだんっと机を叩くのに俺はため息を吐いた。
「別に、髪を触っただけで他意はない」
それは俺の本心で、二人がはやし立てるようなものではないとその時の俺は思っていた。
茜姉が唖然として俺を見上げてくる。
「・・・いや、っていうか鉱大あんた・・・」
「絵に描いたような天然ね・・・」
詩織姉が呆れたように首を振り、それから姉達はひそひそと顔を寄せ合って何事か囁きあった。
再び俺の方に顔を向けた詩織姉の口元には笑みが浮かんでいた。
「わかったわー。でも、あんたから女の子の話聞くの珍しいし、また愛那ちゃんのこと教えてね」
「・・・なんでだ」
思わず憮然とそう答えると、詩織姉はくろすけを胸元に抱き上げて言い放つ。
「なんでも、よ。だいたい、貸し一つでしょ?なんでも言うこと訊くって言ったわよね?」
う。
心の底から嫌だったので思わず口ごもっていると「はいはーい、ちなみに私の分も残ってるのでよろしく♪」と茜姉からの追随に仕方なく俺は肩を落として「―――わかった」と答えた。
※※※
「―――視線を感じる」
「なに?」
それから週明けの月曜日の昼休み。いつもどおり、クラスメイトと思い思いの席に着いて飯を喰ったあと、ふいに呟いた橘の声を拾った俺は視線をヤツに向けた。俺の前の席で足を投げ出して横すわりしていた橘は、意味ありげに口角を上げる。
「ていうか、高橋感じねーの?」
「・・・だから、何のことだ」
「ううーん・・・相変わらず鈍いやつだなー・・・つうか、ありえねーと思い込んでるのか・・・」
苦笑いの橘の言葉に怪訝な顔を向けると、ばんばんっと橘は俺の肩を叩いた。
「ま、それがお前のいい処か。けど、ま、かわいそーなんでお手伝い」
だからなんの話をしてるんだ、と眉間に皺を寄せて追求しようとした俺の言葉をかわすように、ころりと橘が突然話を変えた。
「ところで、最近は昼休みどこかに行かないんだな?」
「・・・・・」
俺は思わず口を噤んだ。以前くろすけに会いに行っていたときのことだ、とわかってため息が出そうになる。橘の表情が、いつもの俺をからかうものに代わっていた。
まったく、俺の周りにはどうしてこう、俺で遊ぼうとする人間が集まるのか・・・
「・・・トイレに行ってくる」
「―――高橋君!」
橘の追求から逃げるため、教室から出て階段の方へと向かう俺は、昼休みの雑踏のなか自分を呼ぶ声を聞いて振り返った。
体育祭のとき怪我をした女子生徒が足を引きずりながら一生懸命俺の方に向かって歩いてくるのが目に入って思わず眉間に皺が寄った。痛々しいその姿に、立ち止まって相手が近寄るのを待つ。
「えっと・・・、あの・・・」
息を切らしながらたどり着いたその女子生徒はでも、しばらく言葉が出ないようだった。一体何の用があるのか、ちらりちらりと俺を見上げる姿に首を傾ける。
「・・・怪我は、大丈夫なのか?」
「あ・・・っ、うん」
口を開くと、ほっとしたようにその女子生徒の表情が和らいで、俺を伺うように上目遣いに見上げてきた。
「あの、この前はありがとう!ほ、保健室まで連れて行ってくれて」
「・・・ああ」
意を決したように一息に言ったクラスメイトに、俺はようやく合点が言った。
なるほど、この前の礼を言いに来たのか。
「そんなことのためにわざわざ追いかけてきたのか。あまり無理をしないほうがいい。治りが遅くなるぞ」
「う、ううん!だって、ちゃんと・・・お礼言いたかったから・・・」
クラスメイトの声は尻すぼりに小さくなっていき、何故だかその頬が赤くなったかと思うとそのまま俯いてしまった。
用件は終わりかと思った俺はそのおかげで立ち去るきっかけを失ってしまい、さてどうするかとなんとなく視線を彷徨わせたとき、少し離れた場所で見知った顔を見つけて思わず目元が和らいだ。
「―――井上」
戸惑ったような視線を向けていた井上がはっとした表情になり、なんだか苦笑いのようなものを浮かべてこちらに近づいてきた。
「あっ、じゃあ、私もう行くね!ほんとにありがとう、高橋君!」
「・・・ああ。気をつけてな」
女子生徒が慌てたようにここから立ち去っていくのを見送っていると、申し訳なさそうに井上が「良かったの?」と聞いてくるから俺は頷いた。というかむしろ、助かった。あのまま何を話したらいいかわからん。
そんなことを考えながら俺は井上を見下ろした。
身長の低い井上の場合旋毛がまず目に入ってくる。そこから肩先まで伸びる、緩やかに波打つ天然パーマの髪は、見かけと同じく柔らかくて手触りもいいことを知っていた。
円らな瞳はいつも屈託がなく、感情が豊かでいききとしている。小柄な井上は顔の大きさもそこに治まったパーツも全部が小さくて、何度も言ってるが、小動物みたいだ。
井上を見ていると、そこだけ空気がほわっとしていて、自然と目を惹いた。
井上はさっきのクラスメイトのことを気にしているらしく、話題はこの前の体育祭の時の話になった。
それからお姫様だっこ?の話になる。
まぁようするにどうしてああいう運び方だったかということを訊かれた訳なんだが、俺は正直に、
「保健室までおぶって行こうかと訊いても、肩を貸そうかと訊いても首を振るから、ああやって連れて行く方が早いし余計に足を痛めないかと思った」
と答えた。このまえ部員達に言ったみたいに、俺にとっては運び方なんてどうでもよかったわけだが、いつもは朗らかな井上の表情に、どんどんどんどん眉間に皺が寄っていった。
それを指摘するとさらにむむむっと皺が濃くなった。なんというか、俺が眉を寄せると怖いだけだろうが井上がやると、微笑ましい思いしか浮かばない。
あまり見たことのない井上の気難しそうな顔に、むくむくと悪戯心が湧き上がってくる。
というわけで、俺は人差し指を井上の眉間に向かって手を伸ばしてみた。あっけなく額に触れて、軽く皺をもみほぐしてみる。
「い、いたいいたいっ」
「お、とれた」
小さな悲鳴が上がり、俺の手のひらの下でじたばたと暴れる姿に口元を緩めた。いつかのお返しのつもりで、怖い顔になっていたぞ、と突っ込むと意地になった表情の井上が、俺の人差し指を掴んだまま背のびしてきた。
「高橋君だっていつも寄ってるじゃないっ」
反撃とばかりに俺の眉間に向かって自分の人差し指を突進してきた井上の手首を掴んで封じると、機嫌を損ねた顔が傍にあった。
その拗ねた表情に堪らず笑みが零れる。まるで猫にじゃれつかれたような気分だった。
すぐ近くに井上の体温を感じる俺の心は、とても満たされていた。
だがその後。そんな上機嫌な俺の気分を急降下させる人物が、登場した。
「何やってるんだ、おまえら」
階段から登ってきた、氷室だった。