高橋君と猫 2
小さな頃から、お菓子の焼ける匂いが大好きだった。
お店ではいつも嗅ぎなれてる匂いなんだけど、お家にで嗅ぐお菓子の匂いはまた特別で。
お店の厨房には、私が大きくなるまで入らせてもらえなかったから、どうしても未だにそこは神聖な場所って感覚が抜けない。
だからかな。店でなくて、お家で焼くお菓子は、自分の為に作ってくれるんだ!って、わくわくしたのを覚えてる。
小さいときは、魔法を見てるみたいだった。
卵に砂糖、小麦粉。大きな泡たてき。
リズミカルな、ボウルの中身をかき混ぜる音。
どきどきして、テーブルにかじりついてお父さんの大きな手の中にあるボウルを覗き込んでたなぁ。
背が届かないから一生懸命背伸びして、ね。
いつもは許してもらえない行為も、お家では許してもらえたから。
それだけでもう、私の中では特別なことで、小さな胸を期待で膨らませるのに充分な出来事だったんだ。
とろりとした黄色いクリームが、ボウルからケーキの型に収まっていくのを見るのがすきだった。
だって、甘くていいにおいのするこのとろとろが、オーブンの中に入って、ふんわりとした美味しいケーキになるのが不思議でしょうがなかったから。
焼きあがるときの、あのあまい匂い。
もう、それだけで頬が緩みっぱなしになる。
それからほら、焼きあがってからのあの、待つ時間!
手を伸ばせばすぐそこにあるのに、生地が冷めるまでお預け。
ああ、よく我慢できずに「味見♪」とか言って一口ちぎっって食べちゃって怒られたっけ。そこだけ生地が凹んでしまって、すぐにバレてしまうんだよね。
なのに懲りずに、しょっちゅう味見したなあ。
昔はそれが、父さんだった。でも最近ではそれは、兄ちゃんに代わって、我が家では受け継がれてる。たまに私も参加したりね。
とまあ前置きが長かったけれど、要するに、お家に帰った私を待っていたのはそんな幸せな、お菓子の焼けるいい匂いだったんだ。
がちゃりと玄関の扉を開けると、ふんわり鼻先へと届く、イチゴの焼ける甘酸っぱい匂い。
私は思わずにんまりと頬を緩めながら、靴を脱いで、そのままキッチンへと直行した。
「兄ちゃん!」
「お。愛那、おかえり。いいタイミングだな」
迎えたのは、シャツを腕まくりしてキッチンに立ってる兄ちゃんだった。
柔和な顔立ちのうちの兄ちゃんは、へにゃりとその垂れ目を細めて、笑う。
そうすると、唯でさえ甘めの顔立ちが、さらに優しい顔になる。
妹の私が言うのもなんだけれども、結構男前な方だと思うんだ。けど、傍から見ると私と兄ちゃんは似ているらしい。
垂れ勝ちの瞳とか、ちょっと色素の薄い髪とか。
でも、私はそうは思わない。兄ちゃんのほうが顔立ち整ってると、そう思ってるんだけど、うん、突っ込まなくていいよ。
ブラコン気味なのは百も承知だから。
4つ年上の兄ちゃんは、年が離れているせいか結構私のことをかわいがってくれている、と思う。
小さなころからお店で忙しい両親に代わって、私の面倒をよく見てくれて、たくさん遊んでくれた。
基本私には甘い人なんだけれど、怒ると怖い。我が家では私の叱り役はほとんど兄ちゃんだった。
なので、ある意味私にとって両親より怖い存在だ。
だから、怒られても私が逆らうことはほとんどないので、喧嘩することは少ない。
名前は井上 夕哉といって、21歳。ただ今製菓学校でお菓子の勉強中の身の上だ。
「うん、いちごのいい匂い。なになに、今日は何作ったの?」
うきうきと私が訪ねると、兄ちゃんがふっと頬を緩めた。
「いちごが、もう終わりの時期で安かったから・・・タルトにでも使おうと思って、たくさん買ってきた。」
ほらと差し出された手元を覗き込むと、そこには甘酸っぱい香りいっぱいのいちごのタルト。
うわぁ、おいしそう~!!
タルト生地いっぱいに敷き詰められた、深みの増したのいちごちゃん達が私を誘惑する。
生いちごの瑞々しさとはまた違う、焼いたイチゴの香りは見た感じもいちごのジャムそのものだった。
「うわあ、美味しそう!ちょうだいちょうだい」
手を伸ばしたその甲を、ぺちん!と兄ちゃんにはたかれた。
「駄目だ。手、まだ洗ってないだろ?それに着替えてもない」
じろりと睨まれて、私は軽く肩をすくめた。
「はいはい、わかったよも~兄ちゃんってば細かいんだから」
「―――愛那?」
思わず洩らした言葉に反応した兄ちゃんの薄い唇から、低い声。
私はぎくりとした。
しまった、機嫌を損ねてしまったみたい。
慌てて逃げるべく身を翻した。
「着替えてきます!」
「こけんなよ」
すかさずそんな声が背後からかかって私は「はぁ~い!」と返事をして階段を駆けあがっていった。
うん、じつは最後の一段で足の膝を打ち付けたのは内緒という方向でお願いします。
でないとまた兄ちゃんに怒られる・・・
んで、打ち付けた膝を押さえて涙目になりながらも、速攻で長Tシャツとカーキのカーゴパンツに着替えると、洗面所で手を洗い、私はキッチンへと戻った。
うん、着替えるときに視界に入った膝に青タンが出来てたけど見ないふり見ないふり。
兄ちゃんは、出来上がったタルトに仕上げとして茶漉しで粉砂糖をふりかけていた。
細かい白色がいちごの上に散って、粉雪みたいでかわいい。
「早いな・・・」
苦笑しながら兄ちゃんは完成したばかりのタルトを私用に切り分けて、お皿に盛ってくれた。
ほら、と兄ちゃんからさしだされた皿を受け取ると、私はダイニングのテーブルに座って、うきうきとフォークを手に取る。
「いっただきま~す」
ぱくりと一口、兄ちゃん特製のいちごタルトを頬張った。
う。
「うんまい~!」
はむはむと噛むたびに、甘酸っぱいいちごの味が口いっぱい広がる。
うん、生で食べるいちごも美味しいけど、焼いたいちごはまた違った感じで、この独特のむにっとした触感がたまんない。いちごの実そのものが入ったジャムの味がする。
タルト生地との境目に、いちごの果汁がいい感じに染みてて、タルトのさくさく加減と一緒に食べると美味しい。
「これって・・・いちごだけしか入ってないんだね~!」
うまうまだ、これ。
幸せな気分でタルトを味わいながら、私は気づいたことを兄ちゃんに訊いた。
いちごタルトってカスタードクリームがつきもののイメージがあるけれども、兄ちゃんが作ったタルトにはいちごしか入ってない。
なんだか珍しい感じがした。
「そう。たまに、こういう素材だけのものが食べたくなるんだよな。
焼いたいちごってのも結構いけるだろ?」
兄ちゃんは、コポコポとコーヒーメイカーから自分用と私用のカップに、琥珀色のコーヒーを注いでくれながら答えてくれた。
白い湯気が立ち昇る。
「うん、おいしいよ。
カスタードもおいしいけど、いちごだけでも全然おいしい!」
うん、なんていうか、自然の甘酸っぱさが口の中に広がるんだよね。
熱を加えたことで甘みと酸味を増したいちごが、タルトの美味しさを引き立ててる感じがする。
「ちなみに作り方も超簡単だぞ。
タルト生地に、グラニュー糖と片栗粉で混ぜたいちごを並べて、一緒に焼いただけだ」
と兄ちゃんがことりと、テーブルにカップを置いてくれた。
ピンクの水玉が私のでミルクたっぷりのカフェオレ、青い水玉のブラックコーヒーがお兄ちゃんのだ。
ありがとう、とお礼を言いながら、兄ちゃんの言葉に私は目を丸くした。
「え、ほんとに?」
「ああ。外国の家庭料理のタルトだからな。そんな凝ったものじゃない。
この素朴なところがいいだろ」
私はうんうんと頷いた。
うん、だってうまうまなんだよ、このタルト。
いちごジャムみたいな味わいだけど、ちょっと違ういちごの触感が癖になる。
「おかわりは?」
「もちろん!」
あっという間に最後の一口まで食べてしまった私は、兄ちゃんの言葉に勢いよく首を縦にふった。
苦笑しながら、兄ちゃんはもう一切れ私にタルトをお皿に載せてくれる。
私はまた、嬉々としてイチゴのタルトにフォークを突き刺した。
「学校はどうだ?」
しばらくのおやつタイムの後、兄ちゃんがそう聞いてきた。
「新しいクラスにはもう慣れたか」
「うん!一年の時から仲良かった凛とも同じクラスだし、大丈夫だよ」
「そうか」
兄ちゃんがまたへにゃりと目尻を緩ませて、ぽんと私の頭に手を載せた。
お菓子つくりの繊細な動きのする骨ばった手。
「良かったな」
うん、これが私のブラコンの理由だわ。
私は心の中でしみじみとつぶやいた。
なにこの甘い笑顔。
こんな笑顔を向けられて、ブラコンにならないはずがないよね。
その分怒られたりもするけど、そんなものこの笑顔で帳消しだよ、帳消し。
そういえば兄ちゃんが店番に立つと女性客が増えるんだよねぇ、と私はタルトをまた頬張りながら思った。
「―――あ、それに、面白いこともあったよ」
手を下ろし、自分用のカップを手にとった兄ちゃんに、そういえば、と私は付け足した。
「へえ?」
キッチンにもたれ、一口カップに口をつけた兄ちゃんが私に訊きかえしてくる。
「どんなことだ?」
「あ、ええっとねぇ」
笑顔で私は、あの大きな身体つきの、目つきの悪い・・・隣のクラスの男の子のことを説明しようとして、ふいに言葉を止めた。
うん、だってなんだか一瞬恥ずかしくなったのよ。
「愛那?」
訝しげな兄ちゃんの声に私ははっとした。
慌てて兄ちゃんを見上げ、言う。
「えっとね、電車を降りようとして、ホームとの間に片足つっこんじゃった人がいた!」
「ええ?」
兄ちゃんが目を丸くした。
「どうやって?」
「なんか、ぼーっとしてて、ホームと電車の隙間を見ながら降りようとしたらそこに足入れちゃったんだって。
びっくりだよね?」
「なんて器用な・・・怪我とかはなかったのか、その人」
「うん、大丈夫だったよ」
話を誤魔化せたことにほっとしながら、私はカップに入ったカフェオレを一口飲んだ。
そうしながら思い浮かぶのは、兄ちゃんに話すのを止めた高橋君のこと、だった。
眉間に皺を寄せたあの表情を思い浮かべると、自然と口元が緩む。
実はあれから4日が経ってる。今日は、金曜日なんだ。
で。
あの黒猫さんに会った日から、私の日課がひとつ、増えた。
高橋君が黒猫さんにごはんをあげてた次の日、私はある予感を胸に抱いて、前の日と同じように校舎裏を歩いていった。率先してゴミ当番を引き受けて。
そして、その日も同じように、黒猫さんにパンをあげてる高橋君の姿を発見した。
高橋君は私の姿を認めると、一瞬驚いた顔をしていたけど、現れた私を拒む様子はなかった。
だから私も安心して、高橋君の隣にしゃがみこんだ。
まだ黒猫さんは私たちを警戒していたから、ちょっと離れたところで二人、黒猫さんが食べる姿を見守って。
食べ終わったら二人で玄関まで戻って別れる、そんな感じの日々を、この四日過ごしていた。
ちょっとずつ、ちょっとずつ心を許してくるのを感じる黒猫さんに会うのは、嬉しい。
「愛那?」
「―――なんでもない」
思い出し笑いをする私を怪訝そうに見る兄ちゃんに首をふりながら。
私には、もうひとつの予感が、あった。
ちょっとした悪戯めいた予感。
―――そしてそれは、当たっていたんだ。