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    少年、それは手ごわい 8

 

 土曜日の午前中は、柔道部の練習だった。

 夏場の体育館というのは、死にそうに暑い。日差しは入ってこないが、ひといきれでむっとしてるし汗のにおいも充満している。

 6月でもこうなのだから、真夏日の練習なんて想像すると今からぞっとする。

 熱中症で倒れないように、体育館の片隅には常にお茶がいつでも自由に飲めるように用意してあるが、あとからあとから汗が噴出して補給に追いつかない。

 練習が終ったころには汗だくで、柔道着の下に着ていたTシャツはぼとぼとに濡れそぼっていた。

 

「先輩、今日急ぎ?」

 練習後、パンツ一丁の暑苦しい姿で死屍累々と部室に寝転がる部員たち。はっきり言って臭いわ全員から立ち上る熱気やらで部屋の環境は最悪だ。

 そんな奴らを尻目にひとり私服に着替える俺に話しかけてきたのは、一年生の如月だった。

 背は低いががっつがあって、小回りがきくこの後輩は、うちのクラブのムードメーカー的存在でもある。

「ああ。悪いが先に、帰る」

「珍しいなーデートか?」

 ジーンズを履き、Tシャツに着替えながらそう答えると、ぱたぱたと下敷きで仰ぎながら床に座り込んでる同い年の部員がからかうようにそう言って来た。俺は呆れた眼差しを送る。

「バカいうな、人が家に来るだけだ」

「えっまさか昨日の女の子だったりして?」

「・・・昨日の女の子?」

 と如月に顔を向けると、にかっと子犬のような笑顔が返ってきた。

「やだなー先輩、先輩が横抱っこして運んでた、あの怪我した女の子のことっすよ」

「そうそう、あの後恋が芽生えちゃったりして」

 悪ノリした部員たちがはやし立ててくるのに、俺ははあっとため息を吐いた。暑苦しいんだ、おまえら。

「怪我したから運んだだけだろう、それの何がそんな突飛な話になるんだ」

「え。だってあれ、ある意味女の子の夢だったりしませんか?あんな運びかたされたら俺が女だったら惚れちゃうけどなぁ~」

「気持ちの悪いことを言うな。うちの家ではあれが標準だ。それに今日会うのは別のヤツだ」

「「・・・え」」

 からかうような笑みを口元に浮かべていた如月や、部員達の動きが止まった。

「標準・・・?」

「別の子・・・?!」

「一番上の姉貴が捻挫したときずっとあれで運ばされた。肩を貸すにも俺だと背が違いすぎて女子だとしんどいらしいぞ」

 何気なく答えながら、俺は片付けを終えた鞄のチャックを閉め、帰る準備を済ませた。

「さて、そろそろ行くぞ。風呂にも入りたいしな」

 鞄を肩に掛けながらそう呟く。いくらなんでもこんな汗まみれのまま井上に会えないだろう。

「ふ、風呂ってちょ、」

「おいおいおいおい」 

 部室内が俺の言葉にどよめいていたが、俺はさして気にも留めずに「じゃあな」と軽く手を挙げて帰路に着いた。

 そのどよめきの意味に気づいたのは、もう少し後のことだった。



 そのまま軽くシャワーを済ませ、服を着替えて待ち合わせ場所で井上と落ち合う。

 優しい色合いの黄色のワンピースは、井上によく似合っていた。

 私服だとやっぱり雰囲気が変わるな、と視線を走らせながら「行くか」と訊くと固い頷きが返ってくる。

 そのまま何故か言葉数が少ない井上を伴って家に帰ると、想定外のことがあった。

 

 玄関に女物のパンプスを発見した俺は、眉間に皺を刻んだ。

 姉貴がいる。さっき俺が帰ってきたときにはいなかったのに、

「・・・出かけたんじゃないのか・・・!」

「ふえ?」

 思わず心の声が外に出てしまっていた。井上が不思議そうに見上げてくるが俺は自分の思考にしずんでしまっていた。

 靴だけではどっちが居るのか全くわからない。今日は両親も出かけていて、姉貴達もいつもなら居ないのに今日に限ってどうして家に居るんだ・・・運の悪い。

 玄関先で立ちつくしていると、人の気配を感じたくろすけが廊下の向こうにあるリビングの扉をひっかく音がした。みゃおん、という声も聞こえてくる。その声に瞳を緩ませた井上の姿が目に入って、俺は諦めのため息を吐くと、井上を家の中に案内した、その時だった。

鉱大こうだい帰ってきたのー?丁度いい、あんたのウォークマン貸して、見つからないのー!」

 とたとたと階段を降りてくる音とともに聞こえてきたのは、詩織姉の声だ。


 二階から登場した詩織姉は、ウォークマンを忘れたらしい。自分のが見つからないから貸してくれとお願いという名の命令に、思わずため息が漏れる。

 しかたなく二階の自分の部屋に行ってウォークマンを探して玄関口まで戻ると、何故か詩織姉が井上をぎゅうっと抱きしめていた。小柄な井上はすっぽりと詩織姉の腕の中に納まってる。というかいやに大人しいな。

「・・・何やってるんだ」

 呆れた顔で二人の前に立つと、満面の笑みでこちらを向いた詩織姉が、差し出した俺のウォークマンを受け取りながら言った。

「いやだってもー、かわいいんだもん。鉱大、あんたにしてはよくやったじゃない、こんなかわいい娘、友達になれただけでも儲けもんよ。あんたその怖いカオのせいでなかなか女のコ寄ってこないんだから大事にしなさいよ」

 全くもって大きなお世話だ。

 わざとらしい態度で詩織姉が嘆くのをため息を吐いてやり過ごし、ようやく開放されて、なんだか笑いを堪えてるような表情の井上の手首を掴んだ。その瞬間、ぴくっと井上の手が揺れる。

「ほら、もういいだろ・・・井上、行くぞ」

「わ、わ・・・っ」

 いい加減この場から(というより詩織姉から)逃げ出したかった俺はそのまま自分の部屋へと去ろうとしたんだが、ぱこんと詩織姉に頭を叩かれた。

「ちょっと、女の子の手、むやみに触るんじゃないわよ」

「・・・痛くしてない、ちゃんと加減してる」

 むっとして詩織姉を見下ろすと、呆れたように首を振っている。

「そういう問題じゃないのよ全く・・・あんた女っ気ないくせになんでそういうこと普通にできるのよ。普通はちょっと手が触れただけでもどきっ・・・☆くらいから始まるでしょうよ」  

「意味分らん。もう行くぞ」

 一言の元で切り捨て、くいっと手首を引っ張る。なんなんだ、まったく。

 手のひらの中にある井上の手首を握りつぶさないよう気をつけながら、二階へ行くために階段を登り始めた、その時だった。

「このすけべー」

 聞き捨てならない言葉を掛けられる。

 いつもならそこそこ絡んだら開放するのに、今日に限っては嫌にしつこい。

 しかもなんだ、その人聞きの悪い単語は。何故にそんな汚名を被せられなくてはならないんだ。

 苛立って階段に足をかけたまま詩織姉を睨みつけた。

「何を突然言い出すんだ。さっきから意味分らんことばっか言ってないでさっさと行ったらどうなんだ」

 言い捨てると、次はもう振り返らないつもりでまた階段を登り始める。井上の手首は握ったまま。

 が。次の詩織姉の言葉に、撃沈した。


「付き合ってもない女の子、部屋に連れ込むなんてエロ男爵じゃなくてなんだっていうのー」

 えろ・・・?!つれこ・・・っ 

 がんっと俺は、階段に足を打ちつけた。

 いってぇ・・・・!!!

 が、それどころではない。膝を抱きかかえ痛みを堪えながら詩織姉を振り返ると、ものすごく楽しそうな笑顔を浮かべている。

 それはいつも俺をからかうのと同じようで、どこか違った。 

「このナチュラルすけべ。わかったらとっとと降りてらっしゃーい。お部屋はもうちょっとステップアップしてからね」

「・・・・・!」

 う。詩織姉と目を合わせたままの俺は、その時ようやく違和感の理由がわかった。

 笑ってはいても、俺を見る姉貴の目は笑って居ない。昔っからスパルタで、買い物に行ったときなど「女の子に重いものもたすな!」「気が利かないやつねー」と、茜姉と一緒になって頭を叩かれたことを思い出す。 まさに今、詩織姉の目はそういう、俺を罵るときのものだった。

 そして、滅多にないんだが、やけに正論を感じて逆らえない時のものだった。

「というわけであんた達はあっち」

 たじろぐ俺ににっこり、と目の奥が笑ってない詩織姉がダメ押しの笑顔を浮かべ、指差したのは・・・リビング、だった。  



                 ※        ※       ※



 ひんやりとクーラーの効いた部屋で、俺と井上はリビングに居た。

 あの後姉貴は出かけていって、今この家には俺と井上、二人きりだ。

 くそ、詩織姉のせいで、俺は妙に井上のことを意識してしまっていた。


 ちらりと様子を伺うと、床に座り込んだ井上はくろすけを膝に抱き上げて、その背を撫ぜていた。

 くろすけも、久しぶりに会う井上が嬉しいのか、しきりに顔を摺り寄せて甘えている。

 その姿はとても心和むものだが、俺は今それどころではなかった。

 『ナチュラルすけべー』と楽しげな詩織姉の声が脳裏に木霊して憤死しそうになる。

 同時に、先ほど部活帰りにどよめいていた部員たちの意味も理解した。

 ふ、風呂って・・・俺は馬鹿か・・・!

 俺は、ソファに座り込みながら頭を抱えてしまった。

 井上はいったいどう考えているのか。

 もしかして軽蔑されたんではないだろうか。

 いやまて。違う。俺は、まったく、そんなつもりはなかったんだ。本当だ。

 ただ俺は、また井上と一緒にくろすけを囲む、あの時間を一緒に過ごせたらいいな、と。

 そう思っていただけで。

 まずい。そんな言葉を重ねると、余計になんだか言い訳くさい感じがするぞ。

 

 そんなことを悶々と考えていると、ふいに、目の前の井上の肩がふるふると震えだした。

 どうしたのかと様子を伺うと・・・おい、笑ってるじゃないか。


「なに笑ってる」

「―――っ、ご、ごめん、なんでもない」

 そんなことを言いながらこちらを向く井上の顔はでも、笑いを堪えようとして失敗した中途半端なものだった。

 俺はむっつりとしながらも、ほっと肩を撫で下ろしていた。ああ、警戒されてなくて良かった。

 井上に軽蔑されると、ものすごく俺は堪えるらしい。

 なので、俺は真面目な顔を作ってソファのうえから井上を見下ろした。

 まっすぐその円い瞳を見つめると、ゆらりと井上の瞳が戸惑うように揺れた。

「誓っていうが―――俺は別に、井上に何かしようと思って、家に呼んだわけじゃないからな?」

「・・・・・・・・!!!」

 一瞬、井上の体がフリーズした。その後、ぼぼぼぼっと音をたてるように顔が一気に赤くなる。

 それから、真っ赤になりながらも「わっ、わわわ分ってるよ?」と言った。

 その後で、男の子の家に行くことは別に特別ではない、類なことを平坦な口調で説明する井上の言葉に、俺は思わず眉を寄せてしまった。

 その口ぶりだと、井上が他の男の家に行ったことあるみたいに聞こえて。

 なんだかそれはそれでとても微妙な気分だった。

 その後慌てたように否定の言葉が返ってきたので、俺はほっとした。

 そうか。じゃあ、井上もはじめてなんだな、と思うと気持ちが知らず浮き立って口元が緩んでいた。



               ☆        ☆       ☆


  

 南向きの窓から、明るい日差しが入ってくる。

 井上と二人、テーブルを囲むこの空間がとても心地いい。

 隣に座る井上は、ティーカップを手のひらで包みながら、ほう、と気持ちよさげなため息を洩らす。その円らな瞳が細められて、幸せそうな笑顔が頬に浮かぶ。

 くろすけがやってきて、俺の身体にすり、と身体を摺り寄せてきたから俺は軽く頭を撫ぜる。

 そののどかな空気は、俺がとても望んでいたもの、だった。

 

 好物のロールケーキは口に運ぶと軽く柑橘系の香りと味が広がる。井上に作ってもらったキャラメルラテも美味かった。

 驚いたことに、井上が持ってきたキャラメルクリームは井上の手作りらしい。

 さすがケーキ屋の娘、と感心してたんだが、にこにこ笑いながら「作り方わからないと、そう思うよね。でもこれ、ほんとに簡単なんだよ。材料、砂糖と水と生クリームだけだし」とさらっとそんなことを言う井上の姿に尊敬の念を覚えた。

 他愛無い会話の後、ふとした話からまたキャラメルクリームの話になり、井上が言った「良かった。あのクリーム、私もお気に入りなんだ。ケーキとかクッキーとかに入れても美味しいんだよね」の言葉に俺の気持ちがわかりやすく動いた。

 食べてみたい。

 キャラメルラテは美味しかった。先ほど味見した、キャラメルクリームも。

 井上が、俺の表情を読んでにこっと笑って「良かったら、また作ってこようか?」と言ってくれたから、遠慮も何もなく正直に俺は喜んだ。

 お菓子も嬉しいが、井上の手作りも、食べてみたかった。

「うん。じゃあ、今度学校に持ってくねー」 

 ふにゃっと井上の顔が無防備に緩んで、見ているだけで和む笑顔が浮かんだ。またあの、無防備な笑顔だ。

 垂れ目なのが余計に目じりがふにゃっと下がって、とろけてしまいそうな笑顔。

 俺は思わず苦笑した。

 おい、なんだその警戒心のない笑みは。

 胸の中があたたかくて、それとは別に言いようのない感情が浮かぶ。

 自分でも気づかないうちに手が伸びていた。

 髪に、触れようとしてその寸前で井上が、はっとしたように頭を庇って身体を後ろに下げる。

「「・・・・・」」

 す、と手が空を切って、思った感触を得られなかった指がむなしさを訴えた。

 なんだ?どうして井上は、逃げた?

 無意識にじりじりと井上をソファの隅まで追い詰めてしまい、俺より随分と小さな身体が縮こまって俺を見上げてくる。朱色に染まった頬、ほんの少し涙の滲んだ潤んだ瞳に熱いものが胸を掠った。

 

 顔を真っ赤にして言葉を重ねる井上の姿を見ているうちに、先ほどの姉貴の言葉が脳裏を過ぎった。

「女の子の手、むやみに触るんじゃないわよ」というほくそ笑む姉貴の姿。

 ・・・そうか、あんなんでも一応、姉貴は女だもんな。俺より井上の気持ちがわかってる・・・よな。

 普通ならここで引くとこだったろう。

 けど俺はどうしても、禁断症状のように井上の髪に触れたくて堪らなくなっていて、どうすれば彼女の髪に触れられるのか考えて、結局正攻法で行くことにした。というか俺の場合これしか思いつかない。

 だから訊いた。「髪に触れていいか」と。

 けれど返ってきたのはあまり芳しい反応ではなかった。

 なにやら言い訳を連ねる井上の言葉に俺はじりじりと焦れた。どうして駄目なんだ?

 問うようにじっと目を見つめると、困ったように眉を下げた井上が言った言葉は「汗臭いから」だった。

 ・・・汗臭い?どこが?

 その時の俺は何も考えていなかった。

 ただ言葉に釣られるように、俺は井上の首筋に顔を近づける。

 傍に近寄ると、何かつけているのだろうふわりと漂う甘い花のかおり。汗の匂いなんてちっとも感じない。 むしろ好ましい匂いだと正直に思った。

 そう告げると、井上が絶句する。

 唯でさえ円い瞳を大きく見開いて俺を見上げるその表情に、俺は首を傾げて促す。

「井上?」

「か、勘弁してください・・・」

 勘弁?なにを。

 

 意味はわからなかったが、なにやら脱力した井上の様子に、許可をとったものとして俺は腕を伸ばしてその柔らかい髪を堪能した。

 ふわふわの髪は俺の太い指をさらりと滑って、心地いい。

 ああ。やっぱり、手触りがいいな。

 くろすけの髪みたいだ。こんなに長くはないけどな。

 

 ・・・触れたいな。

 あたたかさよりも温度を増した、そんな気もちが湧き上がる。俺はそれに逆らうことなくそのまま井上の髪をそっと撫で続けた。



 後から思い返すとそれがはじまりの瞬間だったように思う。

 今の俺は、まさか後にこのことで苦しめられるとは考えもしていなかった。

 真っ赤になって顔を俯けたままの井上の小さな旋毛を見下ろして、俺は満足するまでふわりふわりと手から零れ落ちる柔らかな井上の髪に触れ、指で遊ばせていた。




  

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