少年、それは手ごわい 6
さて、まだ全ては済んでいない。むしろ、ここからだった。
井上たちと別れた俺は、仔猫を連れて家に帰ったわけだが。
俺はまず、茜姉達が帰ってくる前に仔猫をお風呂に入れることにした。
何しろ初めが肝心だ。家中汚しまくったら、飼う飼わない以前の問題ですぐさま却下になってしまう。
仔猫は水を怖がりみゃーみゃーと暴れたが、強引に石鹸を使い、泡立てた。毛が黒いからわからなかったが、黒ずんだ泡の様子から、結構汚れていたことがわかる。
「んみゃーっ!みゃーぅみゃーっ!!」
「・・・大人しくしろ」
隙を伺って逃亡を計る仔猫をバスルームの中で捕獲する。体中泡だらけの仔猫をこのまま放置するわけにはいかない。
嫌がって爪を立て、着ていたTシャツにしがみ付いてくる仔猫の様子に、俺はしょうがないなとため息をついた。無理強いしてる自覚はあったので、多少の犠牲は目をつぶることにする。
腕の中でぶるぶると震える仔猫を抱いたまま、俺は着ていた服ごとシャワーを浴びて、仔猫の泡を落とした。
風呂を出る頃には仔猫はぐったりとしていて、すまないと心の中で詫びながら丁寧にバスタオルでくるんでやる。
そのまま自分の部屋に連れて行きベットの上に降ろすと、濡れて毛羽立った自分の毛を早速、仔猫は念入りにグルーミングし出した。小さくてもちゃんと自分で身体を乾かす術がわかっているのだなと、俺は自分も着替えながらその様子を眺めていた。
その後は、仔猫を姉たちの前に登場させるタイミングを計り、夕飯の時間より少し前にリビングへと仔猫を連れて行った。
「きゃー、かわいい!どうしたの、このコ」
トマトスープの香り漂うリビングの中、仔猫の姿を見た一番上の姉、茜姉の第一声はこれだった。思わず俺はよし、と心の中で声を上げていた。掴みはいい感じだ。
詩織姉の方は夕飯の準備をしていたらしい。ひょいっとセミオープン式のキッチンから顔を覗かせて、驚いた表情を浮かべている。
茜姉は俺より7つ年上で、立派な社会人だ。どこぞの会社の事務をしているらしい。仕事着からラフなスウェットとトレーナーに着替えてソファに足を投げ出すその姿からは、ばりばり仕事をしている姿は想像できないが。
ショーットカットの髪に、頬に浮かぶそばかすは、茜姉の天真爛漫さをよく現していた。
幸か不幸か(俺にとっては主に不幸だが)これだけ歳が離れていれば普通は男兄弟となんて口も訊かなくなりそうだが、我家では忙しい両親よりも姉弟で話をすることの方が多かった。
母さんも父さんも今日は遅い。二人が帰ってくるより前に、姉貴たちを説得する必要がある。
俺の腕からリビングの床へと降り立った仔猫は、ごろごろと喉を鳴らして、身体を起こした茜姉の足元に擦り寄っていった。
「きゃーかわいいー!」と相貌を緩めて茜姉が仔猫の頭を撫でるのを見守って、俺は慎重に口を開く。
「茜姉・・・、こいつ、家で飼っていいか?」
「ええ?母さん反対するんじゃない」
「・・・わかってる。だから、姉貴達からも言って欲しいんだ」
目を丸くして茜姉がソファから俺を見上げてくるのを見下ろして、俺が言った言葉に「へえー?」と反応したのは、台所で夕飯の支度をしていた、本日の食事当番である詩織姉だった。
ちなみに食事当番は、平日は茜姉と詩織姉が担当していて、どうしても無理なときは俺が作る。・・・と言っても肉や魚を焼くだけ、とかカレーとかしか作れないが。
「珍しいじゃない、鉱大が頼みごとなんて。どういう風の吹き回し?」
あらかたの用意は終ったのか、洗った手をタオルで拭きながらこちらにやってくる詩織姉の瞳は楽しげだ。
切れ長の瞳がかまぼこ形に緩んで、ソファ前で立ち尽くす俺の表情を覗き込んでくる。その拍子に顔の横で一つに纏めた髪が揺れた。
いつも小うるさい姉達にからまれるのはめんどくさいが、それでもいいと思うくらい、俺は仔猫のことを気に入っていたし・・・それに。
嬉しそうに表情を緩ませていた、井上の顔が脳裏に浮かんでくる。
無防備そのものの笑顔を思い出して、俺は一つ息をつくと、覚悟を決めて詩織姉を見下ろした。
「学校で見つけて世話してたんだが先生に見つかって追い出されそうになっていた。情も移ったし飼いたいと思う。
協力してくれないか?」
「―――情、ねぇー」
くすっと詩織姉が意味ありげに笑って、ちらりと茜姉の方に視線を寄越したのに首を傾げていると、その視線には気づいていない茜姉が、なんだか嬉しそうに仔猫を顔に近づけて言った。
「よし、じゃあ早速まずはトイレよトイレのしつけ!母さんたち説得するには最低限のことやらないと追い出されちゃうぞぉ~?」
声も瞳も弾んでる。なんだかすごくはりきってる気がするのは気のせいだろうか。
すんなりと受け入れられて、俺は肩透かしを食らった気分だったが、まあとにかく良かった。
茜姉を味方につけたことで俺はほっと肩を降ろしていた。
「あ、こらー!壁は引っかいちゃダメ!
いい?うちの子になりたいならトイレは決められた場所ですること!いいわね?わかった?」
とりあえず爪とぎと猫用トイレが至急に居るな・・・、と大騒ぎをする茜姉を見守りながら考えていると、とんとん、と後ろから肩をつつかれた。
振り返ると詩織姉だった。
「貸しひとつ、ね」
詩織姉がにっこりと笑って言うのに俺の頬が引きつった。
しまった。あっさり行き過ぎて拍子抜けして、まだ伏兵がいたのを忘れていた。
「・・・貸し?」
「そ。貸し。まさか、何もなくお願い訊いてもらえるなんて、甘いこと考えてないよね?」
「・・・・・」
笑顔は爽やかだけども穏やかでないその言葉に、眉間にしわがよったが詩織姉の笑顔は崩れない。
もちろん、俺の返事は一つしかなかった。
はあっとため息を吐き、詩織姉を見下ろして告げる。
「・・・了解」
―――その後、夜遅くかえってきた母親に仔猫のことを伝えて、なぜ茜姉があんなにテンションが高かったのか判明した。
俺は我家で動物を飼わないのは、共働きで忙しいし母さんがあまり動物を好きではないから、と思っていたんだがどうもそうではなかったらしい。
茜姉が小学4年生のとき丁度俺と同じようにして、仔犬を拾ってきたらしいが、その仔犬はとても弱っていて一週間ほどで死んでしまったそうだ。
俺はまだ小さかったので覚えてないんだが、その時の茜姉の嘆きようといったら酷かったらしい。まだ子供だった茜姉には死というものを受け入れるには辛い出来事だったんだろう。母さん自身もとても心を痛めた出来事であったので、それ以来我家では動物を飼うことを禁止にしていた、という経緯らしい。
「・・・まあ、でももう時効、かしらね」
家に帰ってくるなり、母さんに「猫、飼っていいよね?!ちゃんと世話するから!」と満面の笑顔で仔猫を抱いて告げた茜姉は、今もはしゃいで仔猫とリビングで戯れている。最近では珍しいほど無邪気な笑みに、母さんも否とは言えないのだろう。というわけで、ダイニングの椅子に座って苦笑しつつ見守る母さんは、俺の顔を見て言った。
「その代わり、世話はあんた達でちゃんとすること。いいわね?」
「―――わかった」
俺は、しっかりと頷きを返した。
そうして、仔猫は晴れて我家の一員になったのだった。
※ ※ ※
くろすけと命名された仔猫は、一日と立たずに早くも我家のアイドルになっていた。意外にも動物好きだと判明した茜姉なんかすっかりめろめろで、こちらが引いてしまうほど可愛がってる。
可愛くもあるが、暴れん坊でもあるくろすけは、朝から家の中を走り回って母さんお気に入りのクッションに猫キックをかまし、母さんを嘆かせてもいた。けど、あのつぶらな瞳でみゃあお、と怒る母さんに愛想を振りまき、「・・・しょうがないわね、もう」と母さんさえ本気で怒れない始末だ。
我家の司令塔たちがそんな感じなのだから、父さんと詩織姉だって例外ではない。俺だってついつい甘やかしてしまい、くろすけはすっかり小さな暴君への道を駆け上がり始めていた。
で、くろすけが来た翌日のこと。
季節はもうしっかり夏に向かっていると感じる6月はじめの昼休み。今日は湿気が多く、白シャツがじっとりと身体にへばりつてくる。
今日から制服は夏服に変わった。
俺は汗かきなので、半そでシャツは正直ありがたい。
購買に昼飯を買いに行った俺は、教室に戻るために渡り廊下を歩いていた途中で、最近見慣れてきたふわふわの髪の持ち主を見つけた。
白いシャツにプリーツスカート、夏服に身を包んだ井上だった。
くろすけのことを伝えようと思っていた俺は、丁度いいと思って声をかけたんだが。
「・・・高橋君・・・」
こちらに気づいて振り返った井上の様子が、なんだかおかしかった。
普通にしようとしているみたいだが、いつもの朗らかさが形を潜めて、心なしかしょぼん、としているような。
「―――どうかしたか?」
そう、訊ねると。
井上の眉が目に見えてへの字に下がってしまって、俺は驚いた。
すん、と鼻を鳴らす姿に何かあったのかと表情を改めて見下ろす。
「・・・春日君ね、飼い猫さん、亡くなってしまったんだって。」
幾分間を取った上で口を開いた井上の言葉に、俺は眉を寄せた。
春日の、飼い猫?
「きっと、黒ネコさんにその飼い猫さんの面影、重ねてたんじゃないかなぁ」
そういい終えると、井上は俯いてしまった。
そこまで訊いて、ようやく俺はことの次第を理解する。
春日・・・昨日の男子生徒はもともと猫を飼っていて、その飼い猫が死んでしまった。そんな時に校舎裏で飯をあげていた俺達と仔猫の姿を見つけて、居ても経っても居られない気分になって仔猫を触りに行った・・・そんなところか?
そしてそれを本人から聞いた井上は、春日に同情してしまってこんな哀しそうな顔をしているということか。
・・・ばかだな、そんなことで感情移入して泣きそうになってるなんて。
井上らしいなと心の内で呟き、本当に感情がすぐ表にでるんだなと口元が緩んだ。哀しいときは哀しいと訴えるその表情に柔らかな気持ちになる。仔猫を宥めるときのように、自然に腕が伸びた。
ぽんぽん、と井上の頭を軽く叩く。やわらかな手触りが指に伝わって、意外に触り心地がいいことに気づく。
一瞬きょとんとした表情になった井上の顔が、一気に真っ赤になって、後ろに飛びずさった。
というか、危ないぞ。またこけるぞ。
「―――気持ちはわかるが、あまり思い込まない方がいい。アイツも、それを望んではいないだろう」
「う、う、うんっ、ありがとう、高橋君っ」
上ずった声で井上が答えた。昨日と同じ、あわあわとした様子にふ、とまた口元が緩むのがわかった。
井上と居ると飽きないな、と思った。反応がいちいち面白くて構いたくなる。
「じゃあな」
頬を赤く染めた井上に向かって右手を挙げてその場を立ち去る俺は、そんなことを考えてひとりまた、気持ちを和らげていた。
※ ※ ※
それから昼休みが終って5限目終了後の休み時間。
トイレに行って教室に帰ると、何故か橘が俺の席で女子生徒に囲まれていた。
・・・おい、なんで俺の席だ。
はあっとため息をつく。橘もクラスメイトの女子も話が盛り上がっているらしく、明るい笑い声が弾ける。
しょうがない。出直すか。
水を差すのも面倒なので、踵を返したとき。
「あ。たかはしー、どこ行くんだよ?」
「・・・・・」
空気の読まない橘が、教室をもう一度出ようとした俺を引き止めた。
案の定ぴたりと笑い声が止み、こちらを伺うような気配を感じて俺は眉を寄せた。ほら見ろ。
俺は思い切り嫌そうな顔で振り返ったんだが、橘の笑顔は崩れない。
そこそこ長い付き合いだ、俺が嫌がってるのわかってるだろうに、いつものあの押しの強い笑顔を顔に貼り付けて手を振って俺を呼び寄せる仕草をする。
・・・たく、知らないぞ。橘の周りの女子生徒の顔がわかりやすく凍りついたのを目の端で確認しながら、俺は肩を竦めながら橘の元へ行った。
「な。高橋、数学の宿題やった?」
「・・・ああ。」
「やった、らっきー!俺、今日当たるんだよ、見せてくんねぇ?」
「断る」
「はやっ。ちょっとは悩めよ、それでも友達かよ」
「自分でやらないと身につかないだろう。わからないなら、訊けばいい。教えてやるから」
「えーそんなん全部わっかんねーのにどうしろと・・・わかった俺が悪かった教えてください」
ぎろりと睨みつけたらひょいっと肩を竦めた橘が調子よくそんな風に言うのに、俺はため息を吐いた。
そんな俺達の様子をびっくりした表情で眺めていた女子生徒たちは、目を見合わせている。
その中の一人が、おずおずと俺を見上げて訊いてきた。
「高橋君、数学得意なの?」
「いや、得意というわけじゃないが・・・嫌いじゃない」
「そ、そうなんだ」
なんだかもじもじとしてる様子に眉を寄せていると、橘がにこやかに訊ねる。
「なになにどうしたの?君達も教えて欲しい?」
「えーっと・・・」
「・・・・・・」
ちらちらとこちらの様子を伺う女子生徒にまたまた眉が寄る。
ぱかん!と頭を叩かれた。
「ばーか、だからそう凄むなって。こえぇーんだよ」
「・・・別に、すごんでなんか」
「おまえ、眉寄せると無駄に迫力あるから。熊見てぇーだから。普通にしてろって、だから」
「・・・・・・」
別に凄んでなんかない。緊張したり考え事したりするときの癖なだけだ。
やっぱり井上の反応の方が珍しいんだな、と再確認する。井上の場合、橘みたいに俺をからかう余裕さえあった。
昼休みの、わたわたと慌てている井上の姿を思い返すとふっと心が和んだ。
「お、それそれ。その顔だよ」
「・・・・」
すかさず橘にそう言われ、虚を衝かれて思わず俺は黙りこんでしまった。
俺はいったい、どんな表情をしていたのか。
けれど橘の言うとおり、その後女子生徒たちの表情のぎこちなさが取れた。請われて次の授業の数学の問題をできる範囲で教えると、「ありがとう」と俺を言われる。
「なんか二人、いい組み合わせなんだね」
「意外ー」
「だろだろ~?」
意味もなく胸を張って、相変わらず屈託のない笑みを浮かべる橘の姿に、やっぱりちょっとは感謝するべきなんだろうな・・・と俺は苦笑しながら考えていた。