少年、それは手ごわい 5
男子生徒の名前は、春日と言った。
あの後、俺と春日ともども『黒ネコさんを取り囲む会』のメンバーにしたてた井上は、むちゃくちゃな理屈をつけて俺たちが揉めかけていたことを纏めた。
いわく、春日が仔猫に石を投げたのは先生に見つかりそうになって慌てて逃がそうとしたためだと。
そして、俺と春日が険悪な雰囲気だったのは、猫好きの俺たちが仔猫を病院に連れて行くのをどっちにするかで喧嘩していたと。
俺と、その春日という男子生徒が。
さっき会ったばかりだというのに・・・!しかもなんだ、その『超のつく猫好き』というのは。無理があるだろう・・・!考えてみてくれ、17歳にもなる男が猫の取り合いで喧嘩していたなんて、恥ずかしいにもほどがある。しかも、強面で通ってる俺だぞ・・・。
案の定、先生は俺とその言葉のギャップに大笑いした。
恐らく・・・いや、間違いなく嘘だとわかっただろうが、先生はその後必死な形相の井上に免じて、騙されたふりをして去っていった。きっちり、仔猫を連れて行けという釘は刺して。
いい先生に見つかって、助かった思うぞ、ほんとうに。
まあともかくそれから。神経質そうな瞳を逸らしたまま沈黙を守る春日に代わって、井上が状況説明をしたわけだが・・・。
はじめ俺は、全然信用していなかった。先ほど井上が先生に言い訳したそのものが、全部嘘ではないということ。
春日という男子生徒が、仔猫に餌をあげている途中で、先生に見つかりそうになったから石を投げて逃がそうとしていたなんて。石が当たったのはたまたまだったなんて。
そんなの嘘だと、頭に血が登った状態の俺ははじめそう思って信じなかった。誰とも目を合わそうともしない春日の態度は、そう思わさせるに充分なほど疑わしいものだったから。
だが、そんな俺の考えを翻したのは、井上に言われた瞬間見せた、春日の表情に浮かんだ逡巡の色だった。
それは、俺が良く知るものだった。
たとえば俺が、春日の立場だとして。
血を流した仔猫の近くに立っていたというだけで、きっと同じように他人は、俺がやったと思うだろう。
それこそ春日の場合、怪我させたことは間違いではないと本人も認めたわけだし。
そこで理由があるとは、きっと誰も思ってはくれないだろう。
動物に怪我をさせることを楽しんでいた、俺はそう思った。あの場にいた先生もそう思って、だから問い詰めようとしていた。
まさか自分のことをそんな風に思ってくれる人がいるなんて思わなかった、そんな思いが春日の瞳に色濃く浮かんでいるのを見て、俺は思わず同調してしまった。
俺は別に、意味もなく人を脅したり暴れたり怖がらせたりなんて絶対しない。けど、初対面の人間は俺のことを怖がる。
春日も同じで、俺とはタイプは違うが、人から誤解されたり敬遠される種類の人間なんじゃないだろうか。
そう思ったら、ふ、と頭に登っていた血が冷めた。
俺は静かに、背丈は俺と同じくらい、けれど体つきは驚くほど貧弱なその男子生徒を改めて眺めたのだった。
井上が、いつも俺に向けるのと同じ屈託のない表情で俯いた春日の顔を覗き込む。悪戯っぽく口元を緩めながら。
虚を衝かれた表情の春日の瞳が、見開かれるのを俺は隣から見ていた。眼鏡の奥の小さな瞳が信じられないと言う気持ちを浮かべていて。そんな表情一つ一つに、俺は既視感を覚える。
決定的になったのは、ふいと顔を背けた春日の足元に擦り寄った仔猫の存在だった。
みゃあお、と甘えるような声で鳴く仔猫は澄んだ瞳を春日に向けていた。
そして俺は訊いたのだった。小さな声で、春日が「ごめんな・・・」と仔猫に向かって一度、呟いたのを。
春日は石を投げて仔猫に怪我をさせたが、それは先生に見つからないように逃がそうとしていただけでわざとではない。
俺はそう、受け入れたのだった。
※ ※ ※
その後、仔猫を井上とその友達の工藤と一緒に病院に連れて行って。
幸いにも仔猫の怪我は軽く、簡単に後足に包帯を巻くくらいで済んだ。
その、帰り道のこと。
「それにしても、あの人・・・春日君、だったっけ。猫が好きな人だとは思わなかったなぁ。
愛那、よく気づいたねえ。私、春日君が黒ネコさんをいじめてたのかと思ったよ?」
駅へと向かう車道脇の歩道を歩きながら、そんな風に言って井上を見下ろした工藤の言葉に、俺は内心深く頷いていた。
とても不思議だった。
なぜ井上は、春日がわざと仔猫を怪我をさせたと思わなかったのだろうと。
「あ~・・・うん、実は私も最初そう思った。
でもこんなかわいい黒ネコさんをいじめられる人なんてそうそういないよ~~~!」」
あっけらかんとそう答えた井上は、そのまま仔猫に頬をすり寄せた。
その柔らかそうな頬の感触が気持ちよかったのか、仔猫が目を細めてごろごろと喉を鳴らす。
その様子を眺めて苦笑する工藤に顔を向けて、改めて井上が言った。
「―――ほんとはね、偶然、気づいただけなんだけどね。
猫缶が、草むらにあったのが目に入ったし」
仔猫を腕に抱きながら、相変わらず屈託なくそう告げる井上の後頭部を俺は見下ろした。
「・・・それをえさにそいつを呼び寄せたとは、考えなかったのか?」
意地が悪い質問だとは思ったが、訊かずには居れなかった。
「そいつを傷つけるために敢えてえさをあそこに置いていた・・・そして、怪我をさせた。そう考えることだって、できるだろう?
・・・井上は、そうは思わなかったか?」
人は、見かけで他人を判断する生き物だ。それは俺が一番良くわかってる。この17年間ずっと、このいかつい外見から腫れ物を触る扱いを受けてきたんだ。
なのに、井上は違った。考えてみれば、俺に対しても最初からそうだった。
屈託のない笑みが春日に向けられるのが、とても不思議だった。
どうして、そう思えるのか。こいつが仔猫を怪我させたのではないかと、初め見た時から俺はそう思ってしまった。
近くに石が落ちていたし、春日の持つ雰囲気から見てもそんなことをしそうな怪しい雰囲気を持っている。あまりいい言葉ではないが。
なのにどうして、それがわざとではないと思ったのか。
俺はそれが、知りたかった。
「・・・実は、ちょっとだけ考えた、よ?」
肩をすくめ、ぺろりと舌を出しながらそんな風に言った井上の言葉に俺は目を見開いた。
「でも、さ。なんだか、困ったような顔していたんだもん、春日君」
・・・困ったような?
それは、見つかったから困った顔をした、とも考えられるのではないのか。そう考えていると、俺の思いを読んだように、仔猫を傷つける意志を感じなかった、という言葉が井上から返ってくる。
眉を寄せていると、井上がじっと、首を上げて視線を合わせてきた。
円い瞳が、真剣な色を浮かべて俺の目をまっすぐ、見つめてくる。
「―――確かに、逃がすためだとはいえ、石を投げるのはやりすぎかなぁとも、思ったよ?
でも、春日君ってちょっと、人付き合い苦手みたいな印象があったし・・・感覚が、人とずれてる処が、あるんじゃないかな?とも思ったんだよね。
だって、知ってた?黒ネコさんに投げようとしていた石が、ぜーんぶ、ちびっこかったの」
井上の澄んだ声が、俺の疑念を優しく吹き飛ばして心の中に入ってくる。
柔らかな思考だと、俺は思わず感心していた。
ちゃんと人を見て、そいつがちょっと変わっていたとしてもその性質を柔軟に受け入れて、その上で答えを導かせる。
怪我をさせたことだけに目を向けて相手を責めることはしないで、どうしてそうなったか推し量ってやる度量があるんだな。そそっかしく見えて、あの場で一番冷静だったのは井上だった。
それは一見簡単なことに見えて、すごいことだと俺は思う。
なんとも言えないあたたかな気持ちが、俺の心の中から湧き上がってきた。
見た目で相手を判断しないで、ちゃんと相手をみることができる井上は、実はすごいヤツなんじゃないだろうか。
とても好ましい気持ちで眼下の井上を見下ろすと、同じ風に思ったらしい工藤が相好を崩して井上の腕にじゃれついていた。褒められて照れた井上が頬を染めて笑っている。その様子を眺め、俺はふう、と大きく息を吐いた。
呆れて、じゃない。とても満ち足りた、穏やかな気持ちで。
きょとんとした瞳が俺を見上げてきた。円い瞳が、俺を不思議そうに映し出している。好ましく思うその気持ちそのまま、目元が緩んでいた。
「印象を覆して、判断することは簡単なようで難しい。
―――井上は、ちゃんと人を見てるんだな」
井上は一瞬惚けたように俺を見つめて、言葉を理解したとたんその頬が一気に真っ赤になった。
熟れた果実のようなその反応が微笑ましい。
口元を緩めていると、焦ったように「え、えーっと」と井上が口を開くが言葉が続かないらしい。
そんな井上の姿を面白そうな表情で工藤が見下ろしていた。
井上がなんだか引きつった顔で工藤に何か言おうとしたその時、思わず仔猫を抱く腕に力が入ってしまったようで、井上の腕の中の仔猫が不満そうな声を上げて暴れだした。そのまま俺の腕の中へとやってくる。
謝り倒す井上を無視し、機嫌悪く俺のブレザーに爪を立ててしがみつく仔猫に苦笑しながら、俺は決意したことがあった。
俺もちゃんと、責任を取ろう。
初めに仔猫に飯を与え、この騒動の火種を蒔いたのは俺だ。
駅に着き、急に喉が渇いたと言って立ち去った工藤を呆然と見送る井上を促し、煉瓦で囲われた花壇前のベンチに腰掛ける。
時計台と噴水のある駅前のここは、ちょっとした憩いの場になっていて、俺たちのほかにも談笑している人がぽつりぽつりと居た。
これからどうしようかと途方に暮れた表情の井上の顔を見下ろしながら、俺はひょいと仔猫を抱き上げた。
目の高さに仔猫を持ち上げると、仔猫がすり、と髭をこすりつけてくるのに目元が和らぐのがわかった。
「―――何もないとこだが、うちに来るか?」
「ええ?!」
なぜだかとても驚いた井上に目を向けると、「だ、大丈夫なの、高橋君?」と眉を下げて俺を見上げてくる。
その言葉に頷こうとして、反射的に姉貴二人の姿が浮かんでしまい、一瞬詰まってしまった俺は往生際が悪い。ええい、一度決めたことを迷うな。腹をくくれ。
不安そうに俺を見上げてくる井上に、仔猫を膝に降ろしながら俺は今度はしっかりと頷いた。
その際につい洩らした、「ただ、貸しが一つ増えるだけだ」の言葉に井上が首を傾げて、問うような眼差しを向けてきたから俺はため息を吐いて話し出した。
「うちは共働きだからな。多分、母親は反対するだろうが・・・姉貴二人に協力してもらえば、大丈夫だ。
気は進まないが・・・仕方ない」
「お姉さんが、居るんだ?」
「ああ。煩いのが二人。歳は離れてるけどな。
揃うと、手に負えない」
高笑いをする二人を思い浮かべるとちょっとうんざりする。そんな俺の表情を見て、井上が笑った。・・・まったく、他人事だと思って。
いつまでもくすくすと笑い続ける井上を、思わず眉を寄せてにらみつけるが楽しそうな笑い声は止まらない。
おい、いい度胸じゃないか。なんだかちょっと橘に似てきている気がするのは気のせいか。
見知らぬ者は俺を怖がるのに、近しい者は俺で遊ぶ傾向がある。姉貴たちを筆頭に。
けれど、憮然とする俺に向かって、井上が告げてきた言葉に俺は目を見開いた。
「高橋君って、見かけは怖いのに、素振りがなんだか紳士なんだもん。ちょっと不思議だったんだけど、お姉さんが居るからなんだねー」
・・・紳士?誰が。
思いも寄らないことを言われて、思わず井上の円い瞳を見下ろすと。
へにゃりと、井上の相貌が緩んだ。
目尻が下がった、無防備そのものの笑顔に、一瞬俺の時間が止まった。
戸惑いと共に頬に熱が上るのがわかって慌てて顔を背ける。眉間に深く皺を刻む。
「・・・怖いは余計だ」
くそ。そんな褒める言葉なんて滅多に言われないから調子が狂うじゃないか。
くすくすという井上の笑い声は耳心地のいいものだったが、むず痒い何かが胸の中から湧き上がってくる。
そんな俺に向かって、円い瞳を悪戯っぽく輝かせながら、井上がその細い指を俺の顔の方に向かって伸ばしてきた。
「前にも言ったけど、怖いと思われたくないんだったらその眉間の皺をどうにかしなくっちゃ」
デ・ジャヴュを感じる。茶目っ気たっぷりの表情に、俺はまた遊ばれてることがわかった。
「・・・だから、大きなお世話だ、と前にも言わなかったか?」
ため息を吐きながら、眉間に届く寸前で捉えた井上のほっそりした手首をゆっくり下ろす。
それから改めて俺は井上の顔を見下ろした。
―――さっき俺が、春日に掴みかかろうとしたとき、取り繕う暇もなく俺はとても怒っていた。
上背があり体格もそこそこいい俺が怒るさまは、自分で言うのもなんだかそうとう怖かったはずだ。現に春日は顔色を失っていた。
背丈だって身体の大きさだって、井上と俺とでは全然違う。
それでも井上は、俺が頭上から容赦なく睨みつけても、たじろがなかった。俺を見返す、真剣な眼差しが蘇る。
ふわふわした雰囲気の井上の、意外な芯の強さを発見した。
じっと見つめていると、井上の明るい瞳が戸惑ったように揺れる。
それでも俺から逸らされることのないその眼差しに、俺は見入ってしまった。
意外と、垂れ目なんだな。黒目がちのつぶらな瞳を見てそんな風に思った時。
みゃあおん、と膝の上の仔猫が存在を主張してきて、俺は我に返った。
「ご、ごめんごめん黒ネコさん。どうしたの?お腹すいた?」
井上が慌てたように、俺のブレザーに頭を摺り寄せる仔猫に向かって話しかける。
その顔は仔猫に向いたままで、こちらに向き直ることはなかった。
それをなぜだが、残念だと感じる自分がいた。
「おまたせー!」
そのうちに、工藤がコンビニから走って戻ってきて、井上にオレンジージュース、俺に缶コーヒーを勧めてくれる。
「ありがとう」と口元を綻ばせてオレンジジュースを受け取る井上の表情を見やって、そうか、井上はオレンジジュースが好きなんだな、となんとなく口元が緩んだ。
それにしても、なんだか突然井上の雰囲気が固くなった気がするのは気のせいだろうか。
顔は笑顔で、工藤の方を向いているんだがどうにも動きがぎくしゃくしているような。
「高橋君は缶コーヒーでよかったかな?ごめんね、わからなくて適当に買って来ちゃった」
「・・・構わない」
缶を工藤から受け取り、膝に抱き上げた仔猫が缶コーヒーにじゃれついてくるのを軽くいなしながら、不審に思って隣の井上を見下ろす。
すると、顔だけ前に向けたままちらりとこちらに視線を向けてきた井上と、見事にばちりと視線がかち合ってしまった。
とたん、なぜだか井上があたふたとしだす。
そのいかにも動揺した姿に、俺の胸に仔猫を見守るときのような穏やかでほの暖かい気持ちが浮かんだ。
なんというか、井上も小動物系だな。見ていて癒される。
目じりが緩んで、俺は井上に向かって微笑んでいた。
すぐに仔猫が存在を主張し始めて意識はそっちに行ってしまったが。
「黒猫さん、やきもち焼きなんだねー」
くすくすと、俺たちを見ていた工藤が笑いながらそんなことを言うのに首を傾げた。
焼きもち?誰が、誰に。
少しずつ、少しずつ井上のことを知ってゆく。
その度に心のなかがあたたかくなっていくのが自分でもわかった。
そんなことは、産まれて初めてのことだった。
それは制服が夏服に代わる前の、初夏の出来事だった。