番外編 少年、それは手ごわい 1
―――井上いわく、俺と彼女の出会いは井上の家が経営してるケーキ屋だったらしい。
あの日俺は、熱で寝込んでいた母さんの「アルルのロールケーキが食べたいー!」という願いを叶えるべく、柔道部終了後店へと買いに行った。そこで応対してくれたのが井上だったそうだ。
すまん。ぜんぜん、記憶にない。
なにせ俺はその時、色とりどりのケーキが立ち並ぶショーケースに目を奪われてしまっていたからだ。
この時のことを井上は笑いながら「よっぽど甘いものが好きなのかなぁと思ったよ?」と言っていたが、・・・不覚だ。
確かに俺は甘いものには目がないが、いつもそんながつがつしてるわけじゃない。なにせこの外見だ。似合わないのは百も承知。姉貴なんて「きもっ」とか容赦なく大笑いしやがる。
なので俺は、出来るだけ甘いものが好きだということばばれないように気をつけてはいたんだが・・・なにせその時俺は、部活帰り。腹が減ってたんだ。ものすごく。
それにまさか思わないだろう?店員が同じ学校の生徒だなんて。
まあそんなわけで、俺はその時井上と会ったことなんて欠片も意識しちゃいなかったし、井上のことを知りもしなかったわけだ。
俺の中での井上との始めの記憶は、学校の図書室で彼女が、かろうじて届く高さの棚から辞典を引っ張り出そうとしている時だった。
初め見たとき、おやと眉をひそめたのを覚えている。
どうみても小柄な女子生徒が、図書の立ち並ぶ棚の前で、つま先立ちの不安定な体勢のまま、大きな辞典を危なっかしい手つきで取り出そうとしているのを見たときは。
俺はその時たまたま同じブースに居て、借りる本とは別に他にも面白い小説がないか物色していたんだが、なんとなくその流れで一番奥の棚に視線を遣ったところ、その場面に出くわした。
無茶だろう。どう考えたって、頭の上に落ちてくる。足元も安定してないのに、受け止められるはずがない。
―――危ない。と、声をかけようとしたとき、ぐらりと辞典が傾いで棚から落ちてくるのが見えた。
「・・・・!」
咄嗟に大またで駆け寄ったが、間に合わなかった。
よろよろと、なんとか頭上で辞典を受け止めたものの、その重さで後ろにひっくり返りそうになっている女子生徒から辞典を取り上げる。ずっしりとした重さが手のひらにかかって、俺はまた眉を寄せた。
「・・・無理をする」
そう、思わず声をかけた。
倒れるのを支えるため一瞬だけ触れた背中は細く、こんな小さな身体で自分の頭よりもでかくて重い辞典を無理な体勢から取り出そうとしていた無謀さにまたまた眉間に皺を寄せてしまう。
お礼を言う女子生徒に、だから俺はほんの少し説教じみたことを言ってしまった。その後で、はっとする。
しまった・・・、怯えさせたか?
俺自身はそんなつもりなくても、普通に話しているだけで何故か人に威圧感を与えてしまう。慣れた奴なら大丈夫なんだが、初対面の人間はほぼ間違いなく怖がる。
しょうがないとは言え、あまり気分が良いものでもないので、俺はさっさと辞典を女子生徒に渡して引き上げることにした。まぁ、目当ての本も手に入ったしもういいだろう。
そんな俺の背後から、声が掛けられた。
「ありがとう!」
朗らかな声に誘われるように視線だけを向けると、辞典を抱きしめる笑顔の女子生徒の姿があった。
怯えてなかったのか。なんとなくほっとしつつ、俺は一つ頷きを返すと本を借りるためにカウンターへと歩いていった。
とまあ、これが唯一俺が覚えている井上との出会いの場面だ。
けどまぁ、このことも割りとすぐに記憶から消えてしまった。言っても一瞬のことだったしな。
どちらかというとより印象に残ったのは、その次に井上と出会った、くろすけを初めて見つけ出した時だ。
掃除当番だった俺はゴミ捨てを引き受けて、焼却炉にゴミを持っていった帰り、たまたま通った校舎裏で小さな黒猫を見つけた。
みゃあお、みゃあおと母猫を探しているのか心細げな声で鳴くその姿を探すと、草むらの茂みにその姿はあった。
おい、こんなところでそんなみゃあみゃあ鳴いてると先生に見つかって追い出されるぞ。
そんなことを考えつつ目線で黒猫を追うと、ばっちりとその仔猫と目が合った。
ふみゃあお、と哀れっぽく声を上げる黒い毛並みの猫。まだ身体も小さくて、ご飯も余り食べていないのかやせ細っている。
・・・うっ。
庇護欲を誘うか細い声とつぶらな緑色の瞳を見ているうちに、どうにも俺は我慢出来なくなってきた。
「・・・ちょっと待ってろ」
小さくため息を吐くと、俺はひとまず教室へと帰って、手にもっていたゴミ箱を教室に戻すと鞄を手にして校舎裏に戻った。
もしかしたらもう居なくなっているかもしれないと思ったが、まだ仔猫はそこに居た。
仔猫は頭を低くしてじりじりと後ろへ逃げようとしたが、俺が取り出した手の中のパンを見つけるとぴたりと歩みが止まった。
それでも警戒心いっぱいに俺を見上げてくる仔猫の様子に、俺は肩をすくめながらその場にしゃがみ込んだ。かなしいかな、俺自身は割りと動物好きなんだが、このでかい図体から怖がられることが多い。
せめて威圧感が無くなればいいと思ったんだが、しゃがみ込んだことでその場から動かない意志を感じ取ったのか、仔猫の視線は手の中のパンに釘付けになった。尻尾がぴんと立っている。
やっぱり腹が減ってるんだな。俺は袋からパンをちぎって取り出すと、それを差し出して小さく舌を鳴らして仔猫を呼んだ。
ほら、来い。何にもしやしないから。
けれど、またじりじりとこちらに近寄ってきていた仔猫は、ある一点からぴたりとこちらを伺うようにして止まってしまった。
しかもまた逃げ出そうとしたので、仕方なく俺はポケットからハンカチを取り出すと、そこにパンを置き、そっと後ろに下がった。仔猫に手が届かない場所へと移動して、捕まえる意志のないことをアピールする。
それでようやく安心したのか、仔猫は無事にパンの所までやってくると、くんくんとまず匂いを嗅いでから勢いよくパンを食べだした。
ほうと安堵のため息を吐くと、俺はその仔猫を観察することにする。
小さな仔猫で、毛並みは黒だった。艶は良く、日の光が当たって天使の輪ができている。
目を細めて一心不乱にパンにがっついてるその姿は思わず笑みを誘うほど稚い。
折しも季節は陽気を運んできていて、しゃがみ込む俺の背にもあたたかな太陽の光を感じる。
部活で相手を投げ飛ばしたり、鍛錬で汗を流すのも好きだがそれとはまた別に、俺はこういうのどかな空気が好きだった。
顔面とのギャップにあまり気づいてもらえないが、俺は平和主義なんだ。
外でぼーっと日向ぼっこしながら本を読んだりするのも、実は好きだったりする。信じて貰えないがな。
だからこの時もすっかり油断していて、仔猫がパンを食べ終わって満足げな様子で毛づくろいを始めたのを機嫌よく見守っていたんだが。
ふっと気配を感じて視線を横に向けて俺は驚いた。
いつの間にそこに居たのか、小柄な女子生徒が少し離れた場所からこちらを見て立ち尽くしていた。
多分お互い驚いた表情をしていたんだが、我に返ったのはその女子生徒の方が先だった。
にっこり、と人好きのする笑顔をその女子生徒が浮かべる。
「こんにちは」
親しみの感じさせる声がその場に響いて、のどかな空気に溶け込んだ。
油断していたのは俺だけではなく、その仔猫もだったらしい。突然第三者の声が聞こえたものだから、毛を逆立てて飛び上がった。
それから、わき目も振らずに逃げ出して行く。
・・・ああ、行ってしまったか。
「あ~!」
見送る俺の背に、がっかりした声が聞こえてきた。
振り返ると、すまなそうな表情をした女子生徒が「ご、ごめんね!高橋君」と自分の名前を呼びながら謝ってきたのに驚く。
知り合いだったか?なんだか見覚えがあるような気もするが。
「3組の井上です!
この前、図書館でも助けてもらった」
問うように視線を向けると、小柄な女生徒は慌ててそう名乗った。隣のクラスか。
図書館?ああ・・・そう言えば、無茶な姿勢で辞典を取ろうとしていた女子生徒がいたな。
でもどうしてこんな所に・・・と足元に視線を向ければゴミ箱を見つけて納得した。
案の定訊ねると、俺と同じでゴミ捨てに行った帰りという返答がかえってきた。
珍しいな・・・校舎裏を通らんルートの方が近道だから、滅多にこちら側を通る生徒はいないんだが。
そんなことを考えながら、俺は身を翻した。別に知り合いでもないし、そう長話をする相手でもない。
猫と一緒にいた所を見られたという気まずさもあった。
ところが、さっさと部活に向かうため早足でこの場を立ち去ろうとした俺の後ろから、足音が聞こえてくる。
「え、でもゴミ箱は?ないみたいだけど。どっか忘れた?」
・・・なんだ、まだ会話が続いていたのか。
女子に敬遠されがちで、必要最低限の会話しかあまりしない俺はまた意外に思った。
「・・・違う」
ちらりと視線を後ろに投げると、ゴミ箱を抱えながら小走りで追いかけてくる女子生徒の姿を認めて眉を寄せる。
癖っ毛なんだろう、ふわふわした肩までの髪を揺らしながら俺の後ろを歩く女子生徒の息が切れているのに気づいて、歩調を緩めた。
隣に並ぶと、女子生徒の瞳がきょとんと見上げてきた。一瞬自分の勘違いで、もう会話は終っていたのだろうか・・・と思ったんだが、次の瞬間、またにっこり、と人懐っこい笑顔が向けられた。
戸惑っていると、明るい声が問いかけてくる。
「どうしてあそこに居たの?」
「・・・ゴミ当番だったから」
「でもゴミ箱持ってないよね?
――それに、鞄も持ってきてるし」
なんだ、それがどうしてそんなに気になるというんだ。
別に嘘をつく必要なんてないが、俺はあまり本当のことを言いたくなかった。だって自分だってわかっているんだ。こんなでかい図体をして、いかつい顔面をしていて、実は動物が好きなんて似合わないだろう。
というか普通に気恥ずかしい。仔猫に食べ物をあげるためにわざわざあそこに戻ったなんて白状するなんて嫌だ。
何かいい言い訳がないか・・・と悩んでいるうちに、校舎裏を出て靴箱のある玄関口まで戻ってきてしまった。
下校時刻と重なって、生徒達でごったがえしている玄関から少し離れたところで立ち止まる。
・・・しかたない。だいたい、嘘ついたってしょうがない。見られてしまってるんだから。
俺はため息をつくと、笑われることを覚悟した上で口を開いた。
「・・・・・・・猫が、居たから」
「え?」
ぽつりと零した言葉を拾って、女子生徒が問い返してくる。俺は繰り返すことはせずに、微妙に視線を逸らしたまま続けた。
「ゴミは先に捨てに行ったからゴミ箱はここにはない。ただそれだけだ」
事実だけを述べる。
「――部活に行く」
後はもうどう思われたっていい。笑うなら笑えばいい。
そんな風に思いながら今度こそ踵を返して、女子生徒の前から立ち去る俺の背に声が掛けられる。
「あ、バイバイ!」
それは、ごくごく普通の声音だった。
視線だけ振り返ると、笑顔で手を振る女子生徒の姿を見つけてまた面食らう。頷きだけを返してまた、前を向いて歩き出した。
面白がるような笑顔でもなかった。自然な、普通にさよならを告げる笑顔だった。
そのことにほっとしていた。
なんていう名前だったか。・・・井上、だった、よな?
珍しく、俺と話しても普通に、笑顔で話す女子生徒。
この時俺は始めて、井上という女子生徒の存在を、認めたのだった。
その時の俺がどうして想像できただろう?
後の俺が、彼女に嵌まってしまい―――すっかり夢中になってしまうなんて。
この小さな一歩が、後に大きな感情のうねりを生み出すことになるなんて、この時の俺には全く思いもつかないことだった。