高橋君と猫 1
それから何事もなく日々は過ぎていって。
私はクラブには入ってないから学校が終わったら凜とお茶したり、店番したりとそこそこ忙しく毎日を過ごしていた。
そしてそれは、すっかり高橋君のことも脳裏のかなたへと飛ばしてしまった、ある5月の月曜日のことだった。
あ、たんぽぽ。
黄色の馴染み深い花を草むらの中に見つけて、思わず私は頬を緩めた。
授業も終わった放課後の、掃除時間。
ゴミ捨ての帰り道、私はあまり人気のない、校舎裏を通るルートで教室に戻ろうとしていた。
だってなんだか散歩日和のお天気だし。
空から降り注ぐぽかぽか日差しが気持ちいい。
う~ん、と伸びをひとつ、気持ちのいい木漏れ日がいい感じに眠りを誘う。
校舎裏は、思ったより快適な場所だった。
ぐるりと学校を取り囲む高いコンクリート部分は茂みになってて、その姿はほとんど隠れてしまっていたんだけど、基本、人が通る部分はそんなに草は茂ってないし。
もっと殺伐としてるかと思ってたけど、黄色いタンポポやら綿帽子が咲いてて、ちょうちょなんかも飛んでたりなんかして、意外と心が和む。
そろそろ夏に向かうこの季節、新緑の香りは私に爽やかさを届けてくれた。
あれ?
しばし進んだその人気のない場所で、またまた見覚えのある大きな背中がしゃがみ込んでいるのが目に入った。
高橋君だ。なんだか最近、よく会うなぁ。
それにしても、何やってるんだろ、あんな所でしゃがみこんで。
目を凝らすと、高橋君から少し離れたところに何か小さな生き物がいるのがわかった。
まだ小さい、にゃんこさんだった。黒ネコさん。
どっかから迷いこんだのかな?かわいい~。
思わず相好を崩す私の目の前で高橋君が、ちっちっちっち、とにゃんこさんを舌を鳴らして手で招きだした。その指先に、食べ物を差し出して。
その姿に目が点になる私。
ええっと。
たかはしくん。
―――ちょっと、怖いです。
眉間には皺が寄っているし。
大きな体は、しゃがみ込んでても威圧感がある。子猫さんが怯えるのには充分な要素だよ。
唯でさえ警戒心いっぱいな様子の黒猫さん、近づくのは無理なんじゃ・・・
と思ってちらりともう一度高橋君の様子を伺った私なんだけど。
すごい真剣な様子が伝わってきて、思わずごくり、と唾を飲み込んで見守ってしまった。
うわ、なんか見ているこっちも緊張するよ・・・!
しばらくの膠着状態が続いて。
じりじりとしながらも、黒ネコさんは警戒しながらも鼻をくんくんと鳴らし、徐々に、徐々に、近寄っていく。
だけど。
四肢を落とし、いつでも逃げれる体勢を取っていた黒ネコさんはでも、あともう少しで手が届く、というところでぴたりと歩みを止めてしまった。
高橋君とその手元にある食べ物を何度もその目が往復して、迷いを示す。
けど、物欲しげな顔をしながらもそれ以上は近寄ろうとはしない黒ネコさんの様子に、私は思わずぐっと拳を握ってしまった。
だ、大丈夫だよ、黒ネコさん。その人、そんな怖い顔してるけど、結構いい人だよ。
お願いだから傍に寄ってあげて・・・!
必死に黒ネコさんに向かって念を送ったけど届かなかったみたいだ。
しばらくして黒ネコさんはそろりそろりと腰を落として後退していってしまう。
あああ~・・・。
「・・・待て」
小さいけれど、芯の通った声がした。高橋君だ。
高橋君は、ポケットからハンカチを取り出すとむき出しの地面の上に敷き、そこに食べ物を置いた。
見た感じ、パンっぽい。
そして、黒ネコさんを怖がらせないためか、しゃがみこんだまま自分自身が後ろに移動していった。
その手が完全に届かない距離まで下がると、様子を伺っていた黒ネコさんは、ピクリと髭を動かして。
目は高橋君を捉えたまま、またそろりそろりと用心深く食べ物のところまで近寄ってゆく。
そして、ふんふんとまず匂いを嗅いで確かめ、それが食べれるものだと判断するとすごい勢いでがっつき始めた。
よ、良かった・・・!
私はその黒ネコさんの様子にほっと胸をなでおろし、口元を緩めて、何気なく高橋くんの方に視線を向け・・・その表情が目に入って、目を丸くした。
高橋君は、いつもは険しいその瞳に優しい色を浮かべて、黒ネコさんを見下ろしていた。
その口元も、微かに弧を描いている。
―――へえ、あんな顔、するんだ。
私は意外な気持ちになって、高橋君を見つめた。
なんだかその緩やかな雰囲気に目を離せなかった。
じいっと見つめていると、視線を感じたのか高橋君がこちらを向いてしまった。
ばちり、と瞳がかち合ってびっくりしたんだけど、そのほのぼのした空気につられて、思わずにっこり、と笑顔を浮かべる。
「こんにちは」
そう声を掛けると、黒ネコさんが驚いて、びくん!と一瞬大きく毛を逆立ってて飛び上がった。
そのまま、脇目もふらず逃げて行ってしまう。
「あっ~!!」
私は思わず失望の声を上げた。
ちらりと高橋君の様子を伺うと、相変わらず眉間に皺を寄せた顔で、黒ネコさんが去っていったほうに視線を向けていた。
「ご、ごめんね!高橋君」
私は慌てて高橋君に謝った。
高橋君は視線を私に向け、軽く首を振った。
「いや。もう食べ終わっていたし、問題ないだろう
・・・それより」
高橋君が、ちょっと考えこむように私を見た。
何かを思い出そうとする表情に、慌てて私は名乗る。
「3組の井上です!
この前、図書館でも助けてもらった」
「ああ」
納得したように頷いてから、その瞳がちらりと私の持つゴミ箱に落ちてくる。
「ゴミ捨てか」
「え、うん。掃除当番で・・・高橋君はどうしてこんなところに?」
「俺もゴミ捨てだ。」
「ふ、ふうん??」
頷いたものの私は首を傾げてしまった。だって、そういう高橋君の傍にはゴミ箱なんてなかったから。
でも、その疑問をぶつける前に、さっと高橋君は身を翻してしまった。
え、あれれ、行っちゃう。
慌てて私はそのごっつい背を追っかけた。
「え、でもゴミ箱は?ないみたいだけど。どっか忘れた?」
やや斜め前を歩く、凛とした姿勢の後頭部に向かって尋ねる。
その身の丈に合って高橋君の歩幅は大きく、私は小走りになってしまった。
「・・・違う」
ちらり、と顔は向けずに視線だけが降ってくる。
うう、迷惑だったかな。
そのつっけんどんな対応に思わず怯みそうになったんだけど。
私の高橋君へと向けていた視線が、スポーツマンらしく短めにカットされた後頭部の襟足部分から、精悍な横顔へと自然な流れで変わっていったのがわかって、ちょっと目をぱちくりさせてしまった。
うん、ごめんなさい、わかりにくかったよね。
つまり、急に高橋君の歩調が緩やかになったんだ。
えと、高橋君てさ、実は。
さっきの黒ネコさんにごはんをあげてたことといい、実はいい人なんじゃない?
この前助けてくれたことといい、紳士だよね。
だって明らかに、私が隣に並んだからペースが落ちたんだもの。
思わずこみ上げてくるにまにま笑いを隠すため口元に手をやり、ちら、と私は高橋君を見上げた。
うん、相変わらず眉間に皺を寄せて不審そうな視線を私に向けているけど、ちゃんと、私が話すのを待ってくれてるし。
そのことに気づいて調子に乗った私は、にっこりと高橋君に向かって笑顔を向けた。
「どうしてあそこに居たの?」
「・・・ゴミ当番だったから」
「でもゴミ箱持ってないよね?
――それに、鞄も持ってきてるし」
返答は、難しい表情と沈黙だった。
でもそれは、怒ってるという感じではなくて。
どう答えようか思案している、そんな雰囲気を感じられたので、気まずさを覚えることなく、私は高橋君の返答を待った。
ゆっくりとした歩調で、揃って二人、校舎裏を出る。
焼却炉は裏門の近くにあったから、反対方向へと歩いてきた私たちはそのまま 靴箱のある玄関の方まで戻ってくる。
放課後のこの時間、クラブに行く人や家に帰る人で、制服姿の生徒達で玄関はごったがえしていた。
高橋君は、その喧騒から少し離れたところでぴたりと立ち止まった。
にぎやかな声が耳に入ってくる。
「・・・・・・・猫が、居たから」
「え?」
ああ、高橋君は部活だろうし、私はクラスに戻らなくっちゃいけないし、ここでお別れかなあと考えていた私はぽつり、と溢れた低い声を拾って慌てて高橋君を見上げた。
微妙に私から視線を逸らしたところにに視線を向けて、高橋君は話しだす。
「ゴミは先に捨てに行ったからゴミ箱はここにはない。ただそれだけだ」
早いわけでもない、ゆっくりなわけでもない、淡々とした口調で告げられた内容に、私はまたまた目を丸くした。
「――部活に行く」
じゃあな、と言って高橋君は入り口の所でくるりと身を翻した。
「あ、バイバイ!」
慌てて声を掛けた私に返る、眼差しと小さな頷き。
その後姿を見つめながら、私はさっきの会話を脳内で反芻していた。
えっと、つまりあれかな。
高橋君はゴミを捨てに行ったと。
で、帰りに黒ネコさんを見つけて・・・多分、手元に何もなかったから、一度鞄を取りに返って。
わざわざ、ご飯を挙げにここに戻ってきたと、そういうこと?
くすり、と口元にまた笑みが蘇るのがわかった。
いやもうなんか。
ちょっと、ツボに入るよ高橋君・・・!
しかもさっき、微妙に視線を逸らしてたのって照れてたから?
ちゃんと理由話すの恥ずかしいから、別の答え考えてたけど結局思いつかなくって、そのまま話したんじゃない?私が突っ込んだから。
堪えきれず肩を震わせて笑う私を、他の生徒たちが不審げに見てくるのがわかったので慌ててコホンと咳払い。
そして、ゴミ箱を抱えなおして、靴を履き替えるため靴箱に向かった。
なんとも言えない、ほんわかした気持ちで胸がいっぱいだった。