乙女、逃げる 4
―――私の呪縛は、足音が目の前の扉に迫ってきたことで、解けた。
う、ぎゃっダメだこのままじゃあ・・・!青ざめた私は咄嗟に、ドアノブの鍵を捻って鍵を閉める。
そのすぐ後に、がたん!という、多分向こう側のドアを固定していたものが倒れる音と、そのすぐ後にがちゃがちゃとドアノブが乱暴に捻られ、閉めた鍵がそれを阻む音を聞いた。
た、助かった・・・!
へなへなと安堵のあまり座り込む。
「・・・開かない・・・!井上、大丈夫か?」
ドアの向こうで、どんどんと扉を叩きながら心配そうな声が聞こえてきて、私ははっと顔を上げた。
「だ、大丈夫。というかどうして、高橋君が、ここに?」
緊張のあまり手先が冷たい。心臓はもうどっくんどっくんと爆発寸前だ。
「井上の友達・・・工藤が、井上が教室に戻ってこないって。さっき誰かに呼び出されてたから、井上に何かあったんじゃないかって・・・」
「凜?!」
私は呆然とした。え、なんで凜?!
一瞬訳がわからなかったけれども、そういえば3日前に「応援してるね」と言っていた凜の笑顔を思い出して私は思わず頭を抱えた。
って、応援してるって、もしかしてこのこと?!
にょっきりと、悪魔の尻尾をゆらゆらさせた凜の図が浮かんできた。
ちょっともう、これって結構大きなお世話だよー!!今更ながら体育祭の時の鈴木さんの気持ちがわかって土下座したい気分になった。
ごめん、ほんとカップケーキなんかじゃ全然足りなかった・・・!
「なんで開かないんだ・・・?!鍵、かかってるのか。
しょうがない、井上、ちょっとどいててくれ。」
がちゃがちゃとドアノブを回した後で高橋君がそう言って、私はその言葉に目を瞬く。
「え?どうして?」
「ぶち破るから、危ない。扉から離れてくれないか」
「ぶち破る?!」
不穏な言葉が耳に入って私は慌てた。
ちょ、ちょっとちょっとちょっと!
「いいか?いくぞ?」
「きゃー待って待って待って、だめだめ!
こっちから鍵掛けてるだけだから壊しちゃだめー!!」
焦るあまり、咄嗟に誤魔化せずほんとのことを叫んでしまった。ぴたりと、その瞬間ドアの向こうの動きが止まる。
あ・・・っ!私の馬鹿!
「・・・・なに?」
聞いたことのない低い声が、聴こえた。その怒りの滲んだ声に、姿は見えないのにひやりとした気分になって私は肩をすくめた。
「ドア、そっちから開くのか」
「え・・・っっと、あー・・・開くような開かないような・・・」
「どっちだ」
「ひ、開きます!」
居た堪れなくてぐにゃぐにゃとはぐらかしていると押し殺した声が聴こえて、思わず敬語になってしまう。
しばらくの沈黙が扉越しに横たわった。
締め切った部屋の暑さだけじゃない汗がたらたらと流れてくる。
はあーっという長いため息が、扉の向こうから聞こえてきた。
「・・・悪い。俺の、せいだな」
急にトーンの落ちた声に、私ははっとして顔を上げた。
「当然だな。あんなことすれば・・・避けられて、当たり前か」
なんだか自嘲の込められた声に、私はふるふると首を横に振る。
けどそれは、扉の向こうに見えるはずもなくて。
「鍵、そっちにあるんだな?じゃあもう、出られるな。
―――俺、もう行くから。あとで出てくればいい」
そんな言葉と共に、高橋君の気配が扉から遠ざかっていくのを感じて、私はぎゅうっと胸元のシャツを握り締めた。
愛那、ここで勇気を出さなきゃ女じゃない・・・!いけ、私、がんばれ!
「ち、違うの!」
私は、ドアの向こうに居る高橋君に向かって叫んだ。
返事は聞こえない。
ねえ、もう行っちゃった?焦る気持ちが言葉を押し出す。
「嫌だったんじゃないの!恥ずかしかったの!
高橋君の顔を見たら、どうすればいいのかわからなくなるくらい、恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなかったの・・・!」
部屋のせいだけでなく顔が熱い。全身に汗が噴出す。のぼせそうだ。
言い切った私は、扉の向こうの気配を探った。
物音ひとつしなくて、ああ、もう行ってしまったのかな・・・と肩を落としたとき、ふいにつかつかと足音が戻ってくるのを聞いた。
「―――それは」
ぴたりと、扉の前で足音が止まった。
扉のすぐ向こうに、高橋君がいる。そう思うと、心臓がどきどきして、はずかしくて、たまらなくなった。
顔が見えなくてよかった。そうじゃなかったらきっと、言えなかった。
そのことにほっとした私だけど、高橋君はそんな暇を与えないかのように、言葉を重ねてくる。
「抱きしめても嫌じゃなかった、という意味で間違いはないか」
「・・・・・・・!」
相変わらずの直球に、眩暈がした。さっきまでの比じゃないくらい動機が激しくなって、体中真っ赤になる。
うわあうわあ・・・!がんばれ私・・・!
大丈夫、ここに高橋君は居ないから。扉の向こう側に居るんだから・・・!
ドア一枚隔てていることに感謝して、なんとか声を振り絞った。
「嫌・・・じゃ、なかった、よ」
「―――・・・・」
ドアの向こう側が沈黙して、居た堪れなくなった私はずるずるとその場にしゃがみ込んで顔を隠した。
うううう、恥ずかしいよー!
じたばたと悶えていたら、扉の向こうから低い声がした。
「―――井上。ここを開けてくれ」
押し殺した声に、だけど私はええっ?!と扉の前で仰け反った。
見えないのがわかってたけど思いっきりぶんぶんと首を振って拒否する。
「む、無理。今は無理。絶対無理だから」
「・・・・・・」
私の言葉に、また向こう側で沈黙が横たわる。
いやいやいやだって無理。絶対ほんと、無理。顔が見えない今でさえ胸がどきどきしてきゅんきゅんして、もうどうしたらいいのか分らないくらい頭の中混乱状態なのに、この上顔を合わせるなんてぜぇったいに無理無理!
ここは日を改めて・・・、とか考えていたら。
「わかった。じゃあ、ちょっとそこをどいてくれないか」
一見穏やかさを含んでいながらも、なんだか拒否を許さない意思の感じる声がした。
私は反射的に従いそうになりながらも、待て待てなんだか嫌な予感がびしばしするぞ・・・!と思いとどまって、おそるおそる扉の向こうに問い返す。
「ええっと、どうして?」
「ここを、開ける」
「はい?!」
断固とした意思を感じる言葉に私は思わず呆然とした。
え、ちょ、意味が分らない!だって鍵、こっちにあるし。どうやって開けるつもりなの?!
「蹴破る」
「ちょ、ええ?!ま、待って待って待って」
私は思い切りたじろいでしまって、扉の向こうに制止を掛けたんだけど。なんだか扉越しで見えないはずなのに、決意に満ち満ちた気配がする。
というかどうももう私が避けるの待ちな気がする・・・!
「た、高橋君落ち着いて!鍵はこっちにあるんだから・・・!蹴破ったらだめ!」
「じゃあ、ここを開けてくれるか」
「い、いやそれは・・・」
私はもごもごと口ごもった。だってまだそんな勇気、ないよ・・・!とか泣きそうになりながら考えていたら、扉の向こうから静かな声が届く。ごく普通に、当たり前のように、高橋君は言った。
「どうやら俺は、井上に惚れてるらしい。
告白がしたいから、顔が見たい」
「―――!!!」
高橋君の言葉を脳が理解したとたん、私の心臓がどっきーん!と激しく撃ちぬかれた。
思わず立ち上がり、口元を押さえてよろよろと後ずさる。
え、え、え、・・・!
今ので充分、告白になってるよ、高橋君・・・!
もうダメだ、私、死ねる。今死ねる。きゅん死にできる・・・!
すっごい勢いでどっくんどっくんと血液が頭の中まで駆け巡ってる。
のぼせそうな気分でよろめいて丁度部屋の真ん中らへんまで来た時、更なる追い討ちが入った。
「井上?扉の前からどいたな?
・・・開けるぞ」
「う、・・・えっ」
制止の言葉はもう、喉に詰まって言葉にならなかった。
けど、がん!と激しい音がして、準備室の扉が本当にすごい勢いで蹴られだして、それまで硬直していた私は呆然としてしまった。
え、うそ。ほんとに開けるつもり?!
その時の私はもう、扉が蹴破られた後の騒ぎとかそんなことはどうでもよくなっていて、とにかくもう早くここから逃げなくちゃ・・・!とそんな気持ちでいっぱいになってしまった。
けど、どうやって・・・!とかものすごく追い詰められた気分でいる時、楽しげな声が準備室に響いた。
「おーい」
「・・・氷室?!」
廊下側の窓が開いていて、窓枠に手を掛けたままひらひらと手を振っている、氷室の姿がそこにはあった。
「逃げ出すの、助太刀してやろうか?」
どう考えても今までのやり取りを見ていたとしか思えない言葉だったけど、その時の私にとってはこれ以上ない救いの言葉だった。
こんなことをやってる間にもドアがどん!どん!と激しい音を立てるのと共にたわんでいるのが見えて、急かされるようにして私は氷室の元へまろび寄った。
早く逃げなくちゃ・・・!追いつかれちゃう!
捕まったときどうなるのか予想もつかなくて、それだけにもう居た堪れなさ満載で、その時の私はもう逃げることしか考えられなかった。
どきどきし過ぎて震える手を必死に伸ばして、窓枠から手助けのために両手を伸ばす氷室の腕を掴む。と同時に、扉ががん!と開け放たれた。
「―――井上!」
肩で息をしながら高橋君が準備室の中に入ってきた時、私は氷室の腕を借りて窓枠からひらりと飛び降りるところだった。たん、と氷室が支えてくれたお陰で軽やかに廊下に着地する。
一瞬振り返ると、部屋の中で呆然としている高橋君と目が合った。それを確認してから、私はもう今度は脇目も振らずに廊下を走り出した。
「おー高橋、ちわーっす。なんかすっげ怖い顔になってるけど大丈夫かー」
「・・・どけ!」
「うわぁ、熱烈歓迎ありがと・・・ってちょ、落ち着け、ほら、どくから!こえぇよお前!」
そんなやり取りが後ろから聞こえて、私は氷室が防波堤にならなかったことを知る。役に立たないやつめ・・・!
けど、もう後ろを確認する勇気も無くてとにかく私は校舎の中を走り出した。