乙女、逃げる 1
どうしようもう、恥ずかしくて死にそうだ。
昨日あれから、私はもう普通では居られなかった。
当たり前だよ、だってどうしたって、昨日から気を抜いたら社会科準備室での出来事が何度も何度もリプレイするんだもの・・・!
思い出すと羞恥のあまりのたうちまわりたくなってきた。
ぎゃー、だめだめ、思い出しちゃダメ。もう勘弁してください死にそうです・・・!いいかげん違うこと考えるんだ私っ。
ていうかなんであんな展開になったんだっけ・・・。
そうだ、○キブリが出て、それで、私が高橋君に抱きついちゃって・・・って、あれって「怖くないよー」よしよしみたいな感じのハグだったの、もしかして?!
そんな馬鹿な・・・って、高橋君だし、ありえないこともないような気がするようなしないような・・・!
そんなのひどいよー!私、昨日からずっと心臓破裂しそうなのに、そんなの哀しすぎるー!
「・・・な、愛那、危ない!」
「―――へ?・・・う、わ。いたっ」
珍しく凜の切羽詰った声がして、頭を抱えて悶えていた私が顔を上げると、目の前に壁が迫ってきてそのまま避ける暇もなく顔を打ち付けた。
う、痛い、鼻から行った。
「ちょっと、大丈夫? 何やってるのよ、井上さん。 自分からぶつかるなんて」
涙目で鼻とおでこをさすっていると、呆れた表情で鈴木さんが顔を覗き込んできた。
う、そうか、私また考え事して歩いてて、壁にぶつかったらしい。
今は二時間目の休み時間。
次の授業は移動教室で、私はいつものように凜たちと一緒に渡り廊下を通り、今は教室のあるA棟に着いたところだった。私はそれに気づかないまままっすぐ歩いて行って、A棟の壁にぶつかったみたい。
「昨日からなんかおかしいわよ、なにかあった?」
「・・・・・っなんでもないっ」
鈴木さんの探るような言葉に、反射的に私は首を横に振った。ていうか、言えるわけがない。
昨日あれから、高橋君には会っていない。
というか、会えないよ。どんな顔したらいいのかわからないし、とにかく今私は絶好調に頭の中混乱状態だ。
「ほんとに? ずうっとぼーっとしてたと思ったら赤くなったり青くなったり、一人百面相してるけど。
昨日だって、先生に当てられても気づかないで怒られてたし、それに」
鈴木さんが、釣りあがり気味の瞳をちらり、と私の持つ教科書に視線を走らせて言った。
「次、情報の授業なんだけど。・・・井上さんの持ってるの、英語の教科書じゃない?」
「え」
言われて腕の中の教科書を確認して私はあちゃあと頭を抱えそうになった。
「・・・ほんとだね、間違えてる」
私は曖昧な笑みを浮かべて鈴木さんを見上げた。思い切り眉が寄ったその顔に肩を竦めて見せる。
「教室に、取りに帰ってくるね」
怪訝そうな顔から逃げるように踵を返して、はっとして立ち止まった。
渡り廊下の反対側、B棟からこちらの方へと、何人かの男子生徒がこちらに歩いてくるのが見える。
その中の一人、背が高くて、いかにも体育会系とわかるがっしりとした体つきのその人。遠目からだけど、見間違えるはずかない。
高橋君だ・・・!
私は慌ててくるりと振り返ると、鈴木さんたちの方に戻った。
「井上さん?」
「愛那、どうしたの?」
「―――ごめん、今日、教科書見せてくれる?取りに戻るの、めんどくさい。
教室、もうそこだし」
引きつった笑みを口元に浮かべて、私は凜たちを追い越して先に歩き出した。
高橋君の視線が、追いかけてくるような気がして、どきどきした。
自分でも不自然だってわかってるけど、とにかく早く逃げなくちゃ・・・!と自分の心に急き立てられるようにして、廊下を早足で歩いた。
だから私は、後ろで凜と鈴木さんたちが、肩をすくめて視線を交わしあってることなんて、全然知らなかったんだ。
もうもう、とにかくどうしたらいいのか、心の中はぐっちゃぐちゃでしばらく整理がつきそうもなかった。
そんなめちゃめちゃな心理状態を過ごした午前中のあと。
さずがに昨日からおかしい私を見かねたのか、昼休み、私は凜に中庭へと呼び出された。
梅雨も終わって、いよいよ夏も本番に入る季節。外に出るとむっとした暑さに見舞われる。
うちの学校はクーラーが取り付けてあるから教室の中は涼しいけど、外に出ると、汗が滲んでべたりとシャツが肌に張り付く感じがしてちょっと気持ちが悪い。
私達は日差しを避け、中庭を囲むようにして生えてある大きな木々の下でお弁当を食べることにした。
木陰でお弁当を二人で広げる。
「久しぶりだね、二人だけでお弁当食べるのも」
「・・・そうだね」
にこにこと凜が言ってくるのに、私は頷いた。
というか、正直食欲なんてなかった。なんていうか心の中しっちゃかめっちゃかで、精神的に疲れちゃって。
そんな私の様子に、凜が一瞬だけ顔をしかめたけど、すぐにいつもののんびりとした笑顔を私に向ける。
「たべよっか」
「・・・うん」
そうしてお弁当を食べ始めたんだけど。
何か言ってくると思って少し身構えていたけど、凜は何も訊いてこなかった。そのことに安心して、お弁当をつついているとすぐにまた昨日のことを考えてしまう。
高橋君の顔を思い出すだけで、心臓がどきどきして、普通でいられない。
昨日まであんなに会えるだけで嬉しかったのに、今は逆に逃げたくてしょうがない。
ていうかダメだ、また思い出した・・・!
押し付けられた弾力のある胸や力強い腕の感触を、ふいにまざまざと思い浮かべてしまって、私はうぎゃあと頭を抱えてしまった。
もうダメだ、どんな顔して高橋君に会えばいいっていうの。
なんでこんなことになっちゃたんだっけ・・・、ぐるぐるぐるぐる、考えは何度も同じとこに戻る。
あれはハグ?それとも何か意味があるの?・・・って、その答えを持っている人から逃げ出してるくせに、ずっとずっと、そう心の中で何度も何度も問いかけてしまう。
知りたくてたまらないのに、知るのがなんだか怖くて恥ずかしくて、すぐにまた心の中がぐちゃぐちゃになって思考が混乱の渦に放り込まれる。
ああダメだ。また考えてる。
胸がいっぱいで、ごはんが喉を通らない。
首を振って、お弁当を仕舞いだすと凜がそれを見咎めた。
「もう食べないの?全然食べてないよ?」
「んー・・・ちょっと、食欲なくって」
誤魔化すように笑うと、ふうん、と凜が呟いた。
それからまた、しばらくの沈黙。凜がお弁当を食べ終わるのを、私はぼんやりと眺めていた。
なんだか、こうやって昼休みに外に居るの、懐かしいなぁ。そういえば、高橋君と校舎裏で黒ネコさんに会いに行っていたのもそんな昔のことじゃない。ほんの二ヶ月前のことだ。
その二ヶ月の間で、私は高橋君に恋をした。
初めの頃は、好きになるなんて思わなかったなあ。
うちのケーキ屋に突然来たときはほんと、驚いた。だって私の高橋君の初めのイメージって、怖くてとっつきにくくって、目つきが悪くって・・・マイナスのイメージしか、なかったし。
そんな人とケーキが結びつかなくって、なんだか面白そうな人だなぁ、と思ったのが最初だった。
それから、図書館で、本ごと倒れそうになった私を助けてくれて。ファンタジー小説を読む人なんだって知って、そのギャップがなんだかかわいいと思った。
そして、黒ネコさんとの出会いがあって・・・怖そうに見えて、実は優しい人なんだって、わかった。
いかつくてとっつきにくそうに見えるのに、実際そういう所もあるんだけど、兄貴ってあだ名がつくくらい同性には頼られてたり。
お姉さんとのやりとりや、今までのことを振り返ってみると意外に押しに弱い、かわいいところもあったり。
初めて私に笑顔を見せてくれたとき。とても嬉しかったなぁ。
あの時からきっと、私は高橋君に惹かれていったんだと思う。
「―――で、と」
もの想いに沈んでいると、いつの間にかお弁当を食べ終わっていた凜が私に話しかけてきて、はっと私は我に返った。そんな私を見つめて、綺麗な二重の瞳を三日月に描いて、優しそうな表情を浮かべた凜が口火を切る。
「愛那、高橋君と何かあったの?」
「?!!? ぐわっほ、げっほ・・・っ」
いきなり核心を突かれてかなり驚いて、ひゅっと息を飲み込んだ拍子に咳き込んでしまった。
ていうか凜、いきなり何・・・っ?!
「な、なに・・・っ」
「えっと、だって・・・愛那、高橋君のこと、避けてるでしょ?」
「・・・・・!」
私は動揺して、目が泳いでしまった。
そんな私に構わず、凜が更に突っ込んでくる。
「好きって、告白しちゃった?」
「ちっ、ちがっ・・・!」
「あれ?違うんだ。 じゃあ、好きって言われちゃった?」
「い、言われてないよ!」
慌てて首を振ると、凜が目を丸くした。
「え。違うの? え。 じゃあ、どうして避けてなんて・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
私が顔を赤くして黙り込むと、そんな私を見下ろして凜が口元に手を当てた。
「えっと」
「・・・なんで凜が赤くなるのよ」
と聞き返しながら、私ははっと気づいて凜に詰め寄った。
「ていうか、わ、私が高橋君に告白って・・・!もしかして、凜、気づいてる?」
ナチュラルに聞き流していたけど、一応高橋君のことを好きだということを隠していたつもりの私はそう訊いたんだけど、凜はそんな私に苦笑を返した。
「ん・・・だって愛那、わかりやすいんだもの」
う、恥ずかしい。私は、照れを誤魔化すために唇を尖らせながら、凜に訊いた。
「・・・いつから、気づいてたの?」
「んーどうだろ。 ずっといい感じだなぁとは思ってたけど、多分そうだと思ったのはごく最近かな?
だって愛那、最近すごく楽しそうだったし、目がね、いつも高橋君のこと追ってるんだもの」
「・・・・・・!」
苦笑しながら凜に言われて、私は恥ずかしさのあまり頭を抱えてしまった。
浮ついている自分の行動を人に指摘されるとこんなに恥ずかしいなんて初めて知ったよ・・・!
くすくすと凜が笑った。目尻が優しく緩んでる。
「なんか、いいなぁって思ってたよ。鈴木さんといい、かわいいなぁって」
「・・・かわいくなんて、ないよ」
私はふいと目を逸らした。
かわいくなんて、ない。こんな心の中ぐっちゃぐちゃで、寝不足でぶうたれた顔なんてかわいいはずない。
はあ、とため息を吐いた。
そんな私に向かって、凜がにっこりと微笑んだ。
そして、いつもどおりの、のんびりとした口調で言った。
「私、応援してるね」
それは、普通だったら、気持ちの上で、という意味合いの言葉。
というかそうとしか私はその時、受け取れなかった。
だから私は言ったんだ。
「ありがとう」って。
それがもっと行動的な意味で言っていたのだと私が知ったのは、もう少しあとのことだった。
とにかくこの時は、凜と話したおかげでひと時でも高橋君のことを考えなくって、気持ちが少し落ち着いて、そのことで凜に感謝していたり、した。