乙女、振り回される 4
「愛那、最近機嫌いいよね」
それは、 高橋君のことを好きだと認めてから数週間が経った頃だった。
梅雨明けの、7月。浮ついた気分のまま受けた先月終わりの中間考査は散々な出来栄えだった。
それでも懲りずに毎日毎日が楽しく、高橋君の姿を目で追いかけたり、たまに話が出来たりすると舞い上がったり、恋する乙女まっしぐらの日々を送っていた私に向かって、凜がそんなことを言ってきたのは。
3時間目の休み時間。高橋君のクラスは、次は体育の授業らしく、グラウンドにはジャージ姿の高橋君がいる。しっかり時間割をチェックしていた私はほくほくとした気分で、窓際の自分の席で頬杖つきながら、ちらりちらりと友達と一緒に居る高橋君の姿を、ばれないように、気を遣いながら見ていたわけなんだけれども。
私の席の前に座って、一緒に話をしていた凜にそんなことを言われてぎくっと肩を強張らせた。
視線を向けると、凜の綺麗な二重の瞳が私をじっと見つめてくる。
「そ、そうかな?!」
「うん。最近すごく、楽しそうだもん。 今も鼻歌うたってたよ。 何かいいことあった?」
「ええっ」
全くそんなことしてるつもりはなかった私はびっくりしたんだけど、そんな言葉に「なになにー?!」と興味津々に食いついてきたのは鈴木さん&河合さんと木下さん(いつも一緒にいる二人)だった。
グラウンドの方に身を乗り出して、何があるかを探し出す。
「あれってどこのクラスだっけ?」
「1組と2組だと思う」
「・・・で?井上さんは、いったい誰を見ていたわけ?」
鈴木さんが楽しげに眉を上げて私の顔を覗き込んでくるのに、ぶんぶんと思いっきり首を振って否定する。
「ちがうちがう、見てないから!」
「あらほんと?顔、赤いけど」
「・・・・・っ」
追い詰められた私は、咄嗟に鈴木さんに反撃した。
「す、鈴木さんこそ体育祭のとき氷室と一体何があったのよ?!」
「ちょ・・・っ」
一気に顔が赤くなった鈴木さんが、私の口を塞いでくる。く、苦しいっ鼻も塞いでるから・・・!
「声大きい! それに、何にもないんだから変な言い方するのやめてくれる?!」
ぷはっと手のひらを外して大きく息をしてから、私も鈴木さんを睨んだ。
「私だってそうだよ、何にもない!」
「「・・・・」」
二人してにらみ合っていると、やれやれと凜が首を振った。
「二人とも、嘘が下手すぎるよ」
「タイプ違うけど似てるよね・・・」
「どっちもどっち」
肩を竦めて、河合さんと木下さんもなんだか生温かい視線を向けてくる。
とりあえず、話が逸れたことに私がほっとしていると、「ああそうそう」と凜がにっこりと笑って私に訊いてきた。
「黒ネコさん、元気?」
「・・・・・!」
何だか凜には全て、見透かされてる気がした。
※ ※ ※
別に、凜たちに内緒にしようとしているわけじゃない。でも、自分でもまだ気持ちを認めたばかりで、気恥ずかしくって言えないだけ。
4時間目が終って、日直の仕事で社会科準備室に授業で使った資料を運ぶ途中、私はそんなことを考えていた。 分厚い本5冊を抱えてよたよたと歩く。ううっ、今日は日直のもう一人のクラスメイトがお休みのため一人で運んでるんだけど、結構重い。「手伝おうか?」と言ってくれた凜たちの言葉を断ったことをちょっと後悔していた。だって、微妙に一人で運べる重さだと思ったのよ。
特別教室はA棟に密集しているから、階段を降りて、このB棟からA棟へと移るために渡り廊下を通らないといけない。まだまだ遠い道のりに、ちょっと眩暈がした。
ため息を吐きながら、渡り廊下のある2階へと向かうため、よたよたしながら階段を降りていると、下の方から見覚えのある男子生徒が階段を上がってくるのが見えた。
「井上?」
「―――高橋君」
体育の授業を終えた高橋君とそのお友達の二人組だった。
高橋君は、体操服の入った袋を提げながら、すたすたと私が居る位置まで階段を上ってくる。
「どうしたんだ?」
と言いながら、ひょいっと積んだ本を上から持ってくれた。5冊のうち4冊が高橋君の手に、残りの一冊だけが私の手に残る。一気に軽くなった。
それはとても自然な素振りで、そうするのが当たり前の顔でそういうことができる高橋君が優しいなあと思う。
「えっと、実は今日日直で、この本戻しに社会科準備室に行くところ」
「・・・もう一人の日直は」
「運の悪いことにお休み」
私の言葉に眉をしかめる高橋君に肩を竦めてそう言うと、高橋君が呆れたようにため息をついた。
「それで一人で運んできたのか?そんなふらふらで、階段から落ちたりしたらどうするつもりなんだ」
「あーうん、ぎりぎり大丈夫かと思ったんだけどねー。 思ったより本が重かった」
「・・・井上は、前から思っていたんだが結構行き当たりばったりな性格だな」
「うっ・・・、そんなことない・・・と思いたい」
あははは、と乾いた笑いを零して誤魔化していると、高橋君がしょうがないなと言う風に首を小さく横に振った。 それから、横に居た、ちょっと興味津々に私達のやり取りを見ていた友達の方を向く。
「悪い、これ頼んでいいか」
「おーっす、了解。んじゃ、またあとでな」
「ああ」
手に持った体操着をそんなやり取りをして友達に頼んだあと、高橋君は私を先導するように、本を手に持ったまま階段を降り出した。
「高橋君?」
「早く行かないと、昼休みが終ってしまうぞ」
「えっ・・・と、もしかしなくても運んでくれる、んだよね・・・悪いから、せめてもう一冊持つ!」
話の流れから想像ついていたとは言っても、申し訳なくてそう申し出たんだけど。高橋君はちらりと視線を寄越して、ほんの少し口元を緩めて言った。
「3冊も4冊も一緒だ。それに、井上も運んでいるだろう。気にするな」
私の罪悪感を減らすようにそう言うと、前を向いて歩き出す。決して早くはない、ゆっくりの歩幅で。
優しいなぁ、もう。私はその後ろを、ふにゃけそうになる口元を引き締めながら、付いて行った。
「ごめんね、ありがとう高橋君」
社会科の教室の扉を開けながら、私は高橋君にお礼を言った。
軽く首を振って、高橋君が先に中に入っていく。準備室は社会科教室と繋がった奥の部屋にあるから、机の間を縫って準備室の扉の前まで歩いていく。
「手が塞がっているから開けてくれるか?」
「あ、うん。
失礼しまーす・・・」
とんとん、とノックして扉を開けると、先生の姿は部屋の中に無かった。食堂にでも行ってるのかな。
っていうか先生、人にものを頼んでおいて自分はいないってどういうこと。
心の中で文句を言ったけど、まぁ高橋君と会えたからいいか、とプラス思考に切り替えて、窓際に寄せられた先生の机の上に本を置いた。
「・・・高橋君?」
振り返ると、私の後に続いて入ってきたと思っていた高橋君が、立ち止まって何かを見ていた。
開け放った扉、ドア枠のすぐ横の壁の辺り・・・なんだろ、黒い染みがぽつんとあるように見える・・・をじいっと見ていた高橋君は私の言葉にはっとすると、軽く首を振って部屋の中に入ってくる。
私が置いた本の上に、自分が持っていた本を積む。私はその、力を入れたときにできる、シャツから伸びた腕のしなやかな筋肉のラインを見ていた。というか、見惚れていた。
そのラインは私にはないもので、私が抱えてよたよたする本の重さを軽々と持ち運べるその腕力の差に、やっぱり男の子なんだなぁと感心した。
その確認は少し、私の心の中をざわめかせる。
「どうした?」
「!ううん、なんでもない!」
本を置いた高橋君が不思議そうに私の方を見つめてきたから思わずどきっとして、慌てて私は目を伏せてドアの方に歩いて行こうとした。
「―――井上、ちょっと待て」
「え?」
ふいに呼び止められて、私は振り返る。
高橋君は眉間に皺を寄せて私―――というより、その後方へと視線を飛ばして、何かを見ていた。
え、なに。不思議に思って私も見ようとするのを高橋君の声が制した。
「・・・あー・・・いや。なんでもない」
珍しく歯切れが悪くそんなことを言って、切り替えるように、すっと私を追い越して準備室のドアの方へ歩いて行く。
その姿を不思議に思いながら目で追って、ドアの方へと視線を向けた私は、・・・あれ?さっきの壁にあった黒い染み、もっと上の方になかったっけ。・・・というか、動いている?
染みじゃないのかな?と目を懲らした私は次の瞬間身体が固まった。
ぎゃーっっ!染みじゃない!染みじゃないよあれは!!
「・・・気づいたか」
振り返って私の様子に気づいた高橋君が渋い顔でそんなことを言った。私は青い顔になって後ろに二、三歩後ずさる。
黒い染みだと思っていたもの、それは、全人類の敵と言ってもいい○キブリだった。もちろん私だって大嫌い!
ぎゃー行けない!扉に行けないよ・・・!
「見なかった振りでドアを通る・・・のは無理そうだな」
部屋の中に戻ってきながら、私の顔色を読んで高橋君が言った。私はコクコクと首を縦に大きく動かした。
「となると・・・仕留めるしかない、か」
「ま、まままま待って」
がしっと思わず、勇敢にもヤツが居るドアの方へと向かおうとする高橋君の腕を掴む。驚いたように高橋君が私を見下ろしてきた。
「み、見なかったことにしよう!そしてどこかに立ち去るのを待とう!」
そんな矛盾したことを、必死に高橋君に訴える。
だってだって、決して高橋君を疑うわけではないけど、ヤツの素早さって言ったらほんと、憎ったらしいほど次の瞬間にはどこかへ逃げ去ってるじゃない?!万が一仕留め損ねて、私の方へと逃げてきたら・・・!想像するだけでぞっとする。
というか一度、お家で兄ちゃんがしとめ損ねたヤツに襲撃された記憶が鮮明に残っていて、もうもうその時の恐怖と言ったら・・・!パニック状態になってきゃあきゃあ叫んだ覚えがある。
ここが家なら絶対放っておけないけど(だってどこかに○キブリが居るって考えただけでリラックスなんて絶対できない!)ここは学校だし、先生には申し訳ないけどここはスルーという方向で・・・!
「・・・わかった」
しばらく眉を寄せて考えた後で、高橋君が頷いた。
というわけでヤツの動きを見ようともう一度視線をドアの方へ戻して、私はまたもや青ざめた。
だって、居ない。居るのも嫌だけど居ないのもどこに居るかわからないから嫌だ!
咄嗟に視線を巡らそうとして、「井上」と珍しく少し焦ったような高橋君の声がした。
「とにかくドアの方にはいないから、今のうちに行こう」
急かすように背中を押されて、けれど私は逆にその高橋君の両腕をがしっと掴んだ。
「―――居るのね?」
我ながらその声は据わっていたと思う。青ざめながら高橋君を下から見上げると、ふいと高橋君がその視線を避けた。
「いや、居ない」
「うそうそ絶対いるんだ・・・っ、どこ?!後ろなの?!」
「・・・・・・・」
分りやすく視線を逸らしたまま高橋君が沈黙して、私はますます高橋君を掴む手の力を強めた。
高橋君の眉間に皺が寄る。
「落ち着いて、とりあえず行くぞ」
「わっ、わかった、わかったけど放しちゃ嫌だよっ」
やんわりと外そうとする高橋君の手首を逆に掴んで、私は下から高橋君のちょっと困惑気味の瞳をまっすぐ見上げて訴えた。多分ちょっと涙目だったと思う。
高橋君は絶句したように私を見下ろしたあと、ぱっと視線を逸らした。
「・・・・・行こう」
「う、うんうんっ」
こくこくと頷いて、しっかりと手のひらで掴んだ高橋君の右腕に引かれてドアの方へと進みだしたんだけど。
ヤツから離れられるという安心感と、どこに居るのか知りたいという恐怖心からくる欲求から、私はちらり、と歩きながら後ろを振り返った。しばらく視線を彷徨って、・・・居た。窓枠の桟のところ。かさかさと触覚を動かしながら走ってる。
き、気持ち悪い・・・っ、う、机に乗った。さっきまで運んでた本の上でまた触覚をぴくぴくして、そしてそして・・・・っえ?ちょ、なに、えっえっえっ、
「ぎゃあーっ、来るな来るな来るなーっっっ」
「・・・・・・!」
よりにもよって机の脚を伝って降りてきて、何故かこっちに向かってきてる・・・!
恐怖のあまり思わず私は目の前の背中に抱きついた。びく、と大きな背中が揺れる。
「い、井上」
「あれあれあれーっ!」
温かい手のひらが引き剥がそうとしてきて、咄嗟にその手にしがみつきながら、私はこちらに向かってくる○キブリを指差した。もう怖くて目を放すことができない。
と、その騒ぎで○キブリも人の気配を感じたのか、私達の手前でぴたりと立ち止まった。ぴくぴくとまた何かを探るように触角が動く。気持ち悪いきしょいきもいっ。
硬直しているうちに、○キブリはさっと方向転換して、かさかさという音を立てながら別方向へと去っていった。
「・・・・・・・!」
姿が見えなくなって、やっとほうっと息をついた。よ、よかったよ・・・ !
「やっと消えたよ、高橋君」
安心感から笑顔が零れて、そう言って高橋君の顔を見上げた私は驚いた。
高橋君の顔が、真っ赤だった。
照れているところはみたことはある。でもこんな、茹でたこみたいになってるところなんて見たことなかった。
しかも身体が硬直してるのが、しがみついた腕の強張りから伝わってくる。
・・・しがみついた?
そこで気がついた。今の体勢に。
私、ほぼ高橋君の右腕に抱きついてる・・・!
「ご、ごめ・・・っ」
慌てて離れようとして。ふいに、高橋君と目が合った私は動きを止めた。
いつもしっかり前を見据える、意思の強さが見えるきりっとした高橋君の瞳が、戸惑うように揺れていた。
今まで私に触れても顔色一つ変わらなかった高橋君の珍しい反応に、目が離せなくなって、思わず下から覗き込むようにして見つめてしまう。
揺れる瞳が、次第に焦点が定まって、私の姿を映出していくのをなんだか不思議な気分で見守って・・・
高橋君の瞳が完全に私を捉えた瞬間、視線を外せなくなった。
いつもは感じない、どこか熱の籠った真剣なそれに、引き込まれる。
胸がきゅう・・・っと疼いて、なんだかすごく切ない想いに包まれた。
好きだという気持ちが溢れて、出口を求めて思わずしがみ付いた腕に力がこもった。
―――だいすき。
高橋君の瞳がふ、と細くなる。
そこから先は、何が起こったのか正直わからなかった。
高橋君の瞳に逸らせない熱を感じて、捕らわれたままぐ、と肩が抱き寄せられる。
大きな手のひらが肩のラインをすべって、すい、と力強い腕が背中に回った。
・・・え?え?え?
気が付いたら、私は包み込むようにして抱きすくめられていた。全身が羞恥のあまり一瞬で熱くなる。
「た、たかはしく・・・!」
咄嗟に離れようと頭を上げかけたのを、大きな手のひらが後頭部を包んで、広い胸に顔を押し付けるようにして阻む。
その拍子にふ、と以前にも嗅いだことのあるシャンプーの香りに包まれて、頭の中が熱に浮かされたようぼおっとなった。
「井上・・・」
耳元を掠める、かすれた低い声に頭の芯が甘く震える。
しばらくそのまま、身動きができなかった。
頬に押し付けられたシャツのボタンが痛くて、私は我に返った。
う・・わぁ・・・!
「た、たたたかはしくんっ」
恥ずかしさのあまり腕の中でじたばたする私の声で、高橋君もはっとしたようだった。
がばりと私の肩を両の手のひらで掴んで引き剥がす。驚いた顔が、私の目に映った。
「あ・・・俺」
なんだか夢から覚めたような表情の高橋君から、私は大きく飛びずさって離れた。
心臓がばくばくと煩い。目の前がちかちかする。
暑さのせいだけじゃない汗が、全身からどっと噴出した。
「ほ、本運んでくれてありがとう!
私、もう行くね!」
恥ずかしさのあまり、私は高橋君を見ることができなかった。
俯いたままそう一気にまくしたてると、高橋君の返事を待たずに、社会科準備室を飛び出して行く。
心臓が、破裂しそうなほどどきどきしていた。
今、何が起こったの・・・!
なんだか、抱きしめられたような気がするんですけど・・・!
頭の中は一気に混乱状態になって。
・・・その日の午後は、散々なものになった。