精神安定剤? 後 3
私達より3組ほど前の二人は、あともう少しで出番なんだけど。
氷室と鈴木さんが、にらみ合うようにして見つめ合っていたんだ。さっきまでも険悪なムードだったけど、更にぴりぴりとした雰囲気を周囲に撒き散らしてる。
鈴木さんはさっきまでの弱弱しい表情は引っ込めて、代わりに挑戦的な釣りあがり気味の瞳が氷室を見上げている。
対する氷室は苦々しげな表情だった。
えええ、この数分の間にいったい何があったの?私がこの急展開に目を白黒させてる間に、二人の出番がやってきた。
鈴木さんと氷室は先生に促されて、視線をお互いから外すと厳しい顔つきでスタートラインにすたすたと歩いていく・・・ってちょっと気のせいかな、足繋がったままなんだけどは、早いよね・・・?
「位置について―――よーい」
ぱあん、と先生が片耳を塞ぎながら、鉄砲を撃つ音がグラウンドに響き渡った。
縦一列に並んだ、各クラスごとの男女ペアが走り出す。氷室達も鉄砲の音と同時に走り出した。
結果。
「う、うわあ・・・」
接戦を制して一位をもぎ取ったのは我らが氷室ペアでした。
ていうかすごい早かった。驚くことに、すごく息が合ってた。
二人ともさすが運動神経良い・・・けど、でも。
え、えええ?
思わず後ろを振り返ると、凜の天使の笑み。ほらね?とその瞳が語っているけど私は訳がわからなかった。
わかんない、一体何が起こったの??
呆然としてる間に、今度は自分に順番が回ってくる。
「井上さん、行こう?」
立ち尽くす私に向かって苦笑を零し、藤沢君がそっと私の背中を押して促してくれる。
そのまま、他のクラスの生徒達と一緒に白線の引かれたスタートラインで位置につくと、藤沢君が言った。
「右足から行こう。出来るだけ歩幅、合わせるようにするから」
「う、うん」
そうだ、他のことに気を取られてる場合じゃない、こっちはこっちで頑張らないと。
緊張して前を向く。ぱあん、とピストルの音が響いた。
せえの、の合図と共に私と藤沢君は走り出した。
★ ★ ★
ゴールラインを通過した時には、私はもうへろへろだった。
私達は、3位だった。可もなく不可もなく、という感じだ。
走り終わった選手たちが集まる、ゴールラインの脇に着くと私と藤沢君はしゃがみこんで縛っていた紐を外していた。
「お疲れさま」
「お疲れさまー、・・・藤沢君、ごめんね?」
巻き込んでしまったことに申し訳なさを感じて謝ると、藤沢君は優しげな目元を苦笑の形にして、肩をすくめた。
「いいよ、僕はあんまり迷惑被ってないし。・・・むしろ今から大変なんじゃないかな?」
「え?」
意味が分らず問い返す、しゃがみこんだままの私と藤沢君に影がかかった。
「いのうえさん~~~」
恨みがましい声と共に現れたのは、釣り目を更に吊り上げた鈴木さんだった。背後に腕組をして佇む氷室の姿も見える。当たり前だけど二人ともものっすごい機嫌が悪い。
う、うわぁ、怖いっ。思わず後ずさる私の肩を、ぽん、と藤沢君が叩いた。涙目で振り返ると、にっこりと柔和な笑みを浮かべて、「がんばってね」の激励と共に藤沢君はさっと去ってしまった。ううう、逃げ足速いよ助けてよー!
「いったいどうしてこんなことしたのっ」
「わわわっ鈴木さん落ち着いてっ」
「これが落ち着いていられますか~~~!」
ずずいっと鈴木さんが迫ってくるのに、じりじりとお尻を使って後ずさってる、その時だった。
ざわざわと、周りが騒がしく、ざわめいた。
「どうしたのかな」「捻ったんじゃない?」そんな声に釣られるように、周りの視線を辿って二人三脚の行われているグラウンドの方に視線を移して私は目を見開いた。
見覚えのある大きな体つきの男子生徒と、その脇で足を押さえて蹲る女子生徒の姿が、ゴールラインよりもまだ少し遠いところに居た。他の選手達はもう、全員ゴールラインを無事通過して競技を終えてしまっていて、その場で後ろを振り返って様子を伺っている生徒たちの姿もあった。
ショートボブの女の子の傍に、同じように片膝をついてしゃがんだ、その人は。
「高橋君、じゃない?」
私にじりじりと詰め寄っていた鈴木さんも、視線をそちらに移していた。私は、うん、と頷く。
「相手の女の子、足どうにかしたみたいね」
待機していた先生達が慌てた様子で近寄っていく。
まわりがざわめいている中、落ち着いた様子で自分達を繋ぐ紐を外していた高橋君が女の子に何か話しかけるのが見えた。
女の子の頭が足を庇ったままふるふると横に動く。足が痛いのと、こんな騒ぎになったのが恥ずかしいのもあるんだろう、俯いて顔を隠してる。高橋君は眉を寄せる。
先生達が何か言っていて、高橋君は顔を上げて頷いた。そして。
そっと女の子に、手を伸ばす。
その瞬間、周りがどよめいた。私もうわあ、と目を瞬く。
「お、お姫様だっこ・・・」
一緒に見ていた鈴木さんも、思わずと言った感じで呟いた。黄色い悲鳴が周りから聴こえる。
危なげない様子でクラスメイトの女の子を抱き上げた高橋君は、周りの声も気にした風もなく、腕の中の女の子に何か話しかけると、す、と喧騒の中を動き出した。
女の子の足に響かないように、ゆっくりとした歩調で。
そのぴんと張った背筋が、凛としてて思わず目を奪われてしまった。「派手だね~・・・」という鈴木さんの呟く声が、耳に届く。
「ほら、そっちに移動して!競技続けるから!」
ゴール付近で立ち止まったままだった生徒達を追い出す先生の声で、止まったままの時間が動き出した。
まだざわめきを残しながら、何事もなかったように競技が進行し始める。
「ちょっと、井上さ・・・」
は、と我に返ったように鈴木さんが目を吊り上げて私にまた詰め寄ろうとして―――言葉が途中で止まった。私の顔を見た鈴木さんの眉が、一瞬にしてきゅっと寄る。
「おい、井上―――」
目の前で腕組をしていた氷室のえらそうな声も、途中で止まった。整った顔立ちが、口を開けた間抜けな格好で固まってる。丸っこい瞳が、驚いたように開かれて私を見下ろしていた。
「・・・?」
首を傾げるのと同時、ぐい、と鈴木さんに腕を引っ張られて、その場から連れ去られる。立ち尽くした氷室は取り残したまま。
なんとなく私は何も言わないで、そのまま鈴木さんに引っ張られたままてくてく歩く。
と言っても、まだ競技が終ってなくてこの場所を離れられないから、人の波の目立たない端っぐらいしか行けるとこないけど。
鈴木さんはすとんと、腕をとったままの私と一緒にその場に座り込んだ。
そこで初めて、私は鈴木さんの顔を見た。
「鈴木さん?」
「―――もういい、あっついから怒るとしんどい」
ぷいと視線を外した鈴木さんはなんだかぶっきらぼうな声でそんなことを言うと、膝を抱えて黙り込んだ。
よくわからなかったけど、なんとなく私も一緒に口を閉ざすと、ぼんやりと辺りを眺める。
何事もなかったかのように進行を続ける、二人三脚を終えた生徒達がこちらに流れてくる。
それにしても、あっついな。直射日光が頭を照りつける。つうっと汗が背中を流れるのが気持ち悪かった。
―――あの女の子、大丈夫かな。
ぼうっとしていると、先ほどの高橋君の後ろ姿が脳裏に蘇った。
そっと女の子に向かって手を伸ばす、無骨な大きな手。なんだかその手の優しさや温かさまで想像できてしまって私は苦笑した。胸の奥ががちょっときゅっとなる。
「愛那―――」
そうこうしている間に凜が競技を終えて戻ってくる。
きょろきょろと辺りを見渡して私達の姿を見つけるとこちらへやってきた。
で、凜の姿を見つけた鈴木さんが「ちょっとぉーーー!」と勢いを取り戻した様子で隣で立ち上がった。
その迫力に思わず仰け反ってしまった私を、しかめっつらで見下ろしてくる。
「明日、今日の分も怒るから覚悟してなさいよっ」
そんなことを言い放って鈴木さんは凜に詰め寄っていった。
対する凜はにこにこ笑顔で応酬している。騒ぎに気づいた氷室もこちらにやってきて、なんだか鈴木さんと一緒になって凜にやいやい言ってるけど、本人達気づいてるのかな。多分気づいてないだろうな。
その様子を見てると、知らないうちに笑みが浮かんでいた。
ごめんね、ありがとう鈴木さん。
心の中で、私は鈴木さんに向かって頭を下げていた。
正直、ちょっとだけ心が今、痛かった。さっきの高橋君の姿が頭に焼きついてて、胸がちくんちくんって針で刺されたような痛みを訴えていたから。
ぴんと張った糸のような空気がふっと緩む瞬間や、あの優しい手つきは自分だけに向けられるわけじゃないんだなあって、当たり前のことにショックを受けてる自分がすごく嫌だった。
女の子を抱き上げる、精悍な横顔を思い出したら胸がきゅうってなる。
だめだなー、私。なんだかとても今、哀しいみたい。
私はふるふると首を振って高橋君の姿を脳裏から振り払うと、気分を切り替えるように立ち上がった。ちょうど二年生の二人三脚も終ったみたいで、そのままクラスごとに列になって、退場していく人の波と一緒に歩いて行く。
「愛那ー!」
「ちょ、待ちなさいよ工藤さんっ」
途中でにぎやかな二人と共にクラスの集合場所に戻りながら。
その日一日中、もやもやした気持ちを、振り払うことができなかった。