精神安定剤? 前 1
翌日のことだった。
空は快晴、今日から制服も夏服に変わって、半そでになったむき出しの肌に触れる風が気持ちがいい。
衣替えのあとの学校は、なんだかいつもとがらりと印象が変わって面白い。
4時間目が終って、移動教室から帰る途中。私はそんな、夏服に身を包んだ制服の群れに混じって、友達と一緒に一階の渡り廊下を歩いていた。
ちなみに女子の夏服は、白の半そでのブラウスに襟元には赤の小さなリボンを着けるんだ。ブラウスの裾のところにちょっと特徴があって、ボタンを止めるラインのところだけが少し短く、そこから裾が小さく左右に広がってて、逆三角形になってる。
スカートは、濃いグレーと白のラインが入ったプリーツスカート。
男子は同じく白のブラウスに赤のネクタイ、そしてグレーのズボン。
夏服は、なんというか初夏の爽やかさを運んできて、一気に学校全体を夏の雰囲気に変えてしまった。
あれ。
渡り廊下を歩く途中。廊下の柱の隅に隠れるようにして立っていた、背がひょろ長い男子生徒の姿を見つけて私はふと足を止めた。
凜が気づいて、振り返る。
「愛那?」
「あ。ごめん、凜。先に戻っといてくれる?」
「え?」
と首を傾げた凜だったけれど、私の視線の先を辿って納得したように、頷いた。
「愛那ちゃん?」
と不思議そうなクラスメイトを引き連れて、凜は私の意を汲んで先に教室へと戻っていってくれる。
振り返るクラスメイトに軽く手を振って校舎の中に入るのを見送ってから、私はゆっくりとその男子生徒の下へと、歩いていった。
「こんにちは、春日君」
眼鏡姿の男の子に、声をかける。こちらを見ていたはずの春日くんは、けれどふいと私の視線を避けてしまった。
思わず苦笑が零れてしまう。
昼休みの渡り廊下は、食堂や購買へ行く生徒達で、割と人が多い。すれ違う白色の制服に身を包んだ生徒達が、興味をそそられるようにちらちらとこちらを見ていた。
「・・・私に、何か用事だった?」
その視線を感じながら、私は春日君を見上げる。背の高い春日くんは、首をかなり上向けないと視線が合わない。
わざわざこんなところで立っている理由がそれしか考えられなかったんだけど、私の勘は当たったみたいだ。
春日君は、視線を逸らしたまま、ぽつりと、言った。
「・・・怪我は」
「―――え?」
「怪我は、どうだったんだ」
小さな声だったけど、ちゃんと聞こえた。私はちょっとぱちくり、と目を瞬かせてから、くす、と頬を緩めた。
端的だったけど、それはもちろん黒ネコさんのことに決まってる。
「うん、大丈夫だったよ。そんなに酷い怪我じゃなかったから、すぐ治るって」
安心させるようにそう言うと、なんとなくほっとした雰囲気が伝わってきた。
私は更に、続ける。
「あと、黒ネコさんは高橋君のところで飼ってくれることになったんで、衣食住の確保もできました。
だから、安心して?」
そこまで訊くと、春日君はふうとため息をついた。
「・・・そうか」
小さく頷くと、ふ、とその眼鏡の奥の細い瞳が私に向けられた。
何かを言いたそうなその色を読み取って、私は軽く首を傾げることで、待つ意思表示を示す。
ほんの少しの沈黙の後。
春日君は、口を開いた。
「・・・飼い猫が、死んだんだ」
私は、目を見開いた。
春日君はそれ以上説明しなかった。けれど、私にはどういうことかわかった。
―――どうして春日君が、猫缶を持っていたのか、そしてそれをどうして黒ネコさんにあげていたのか。
色んなことが繋がって、多分痛ましい表情になってた私を見下ろして、ふ、と春日君がほんの少し口元を苦笑の形に刻んだ。
それからまたいつもの無表情に戻って。軽く首を振ると、すいと私の傍らを通り過ぎて行く。
呆然としていた私は、はっと我に返って振り返った。
縦にひょろりと細長い、春日君の後ろ姿に向かって叫ぶ。
「いつか本当に、『黒ネコさんを取り囲む会』開催しよう!」
大声で叫ぶと、周りの生徒達が何事かと驚いた顔で私を見てきたけど、私は気にしなかった。
春日君もちょっとびっくりした顔で私を振り返った。
「・・・変な女」
苦笑交じりにそんな言葉を返しながら、またふいと身を翻す。
慌てて私は叫んだ。
「絶対だよ!」
今度は、春日君は振り向いてはくれなかった。けど、軽く左手が上がったのがわかった。
他の生徒達と混じって校舎の中に消えていく、その後姿を私はしばらく、じっと見送っていた。
なんだか胸が、いっぱいだった。
「―――井上?」
と、立ち尽くす私の後ろから、ふいに声を掛けれらた。一本筋が通った、最近良く聞くようになったその声に、とくん、と心臓が一つ大きく動いた。
「・・・高橋君・・・」
振り返ると。購買でお昼ご飯を買って来たらしい、がっしりした右腕に袋を釣り下げた高橋君の姿があった。
夏服に身を包むと、薄手になった分部活で鍛えた、その筋肉質な体つきがさらに強調される感じがする。
「―――こんにちは。おひるごはん、またパンなんだ?」
私はちょっと笑みを浮かべてそう言った。
自分では普通にしてたつもりだったんだけど、それは少し情けない顔になってたかもしれない。私の表情を見た高橋君がふっと、硬い、真面目な顔に変わってしまったから。
「どうかしたか?」
いつものように眉間に皺が寄ってるものの、普段はきつい眼光が気遣うような色を滲ませて私を見下ろしてくる。
それがわかったから、なんだかふにゃりと心が緩んで、今度は自分でもわかるくらい眉の下がった情けない顔になってしまった。
「・・・春日君ね、飼い猫さん、亡くなってしまったんだって。」
そう言うと、高橋君の眉間の皺が深くなる。
「きっと、黒ネコさんにその飼い猫さんの面影、重ねてたんじゃないかなぁ」
なんだか胸が、切なくなってしまったんだ。
どんな気持ちで、校舎裏でごはんをあげていた私達を見下ろしていたんだろう。
可愛がっていた飼い猫が死んじゃって・・・そんな時校舎裏で子猫ちゃんと和む私達を見つけて。
どうしても、黒ネコさんに触れたいと思わずに居られなかったんじゃないかな・・・
すれ違う他の生徒達が、さっきの春日君と居るときよりもずっと興味津々な視線を私達に向けてきていた。
そりゃそうか、泣きそうな女子生徒と180センチはある長身&大きな身体つきの男子生徒がふたり、立ち止まってなんだか意味ありげなシチュエーションを繰り広げているんだもの、私だって逆の立場だったら見てしまう。
うう、ごめん、高橋君、恥ずかしいよね。
というか、情けないなあ、私。
「―――ごめんね、高橋君」
気分を切り替えようと、もう一度高橋君を見上げた時だった。
ぽん、ぽん、と宥めるように、大きな手のひらが私の頭を優しく叩く。
え、え、え。
狼狽する私と出会った瞳は、昨日も見た、穏やかで優しいものだった。
うっ。
私は自分の頭を押さえて高橋君を見上げながら後ずさってしまう。
だ、だってだっていきなりだしびっくりだしなんだか高橋君の眼がはずかしいしっ。
周囲の目が、明らかに生ぬるい視線に変わったのを感じて顔が赤くなった。
でも高橋君はごくごく普通の様子で、突然飛びずさった私を不審そうに見ている。
えっと、うん、これって、一応、慰めて、くれたんだよね?
ペットによしよしとしてあげるのと同レベルで・・・!
「―――気持ちはわかるが、あまり思い込まない方がいい。アイツも、それを望んではいないだろう」
「う、う、うんっ、ありがとう、高橋君っ」
心臓が騒がしくって、思わず声が上ずってしまった。
そんな私をふ、と目を細めて見つめると。じゃあな、と右手を上げて高橋君は渡り廊下を歩いて、好奇の視線を向ける生徒達と一緒に校舎の中に入って行く。
私はその間ずっと頭に手を乗せたままの状態で固まっていた。
だ、だってびっくりしたよ。いきなりだったし、まさかまさかあの高橋君がそんな、あ、頭ぽんぽん・・・っ―――ぎゃあ、恥ずかしい・・・っ。と、ともかくそんなことすると思わないじゃない?!
・・・なんだか、兄ちゃんみたいだった。あの目とか、仕草とか、最後にふっと目を細めて私を見下ろすところとか・・・
そんなことを考えながら頬を覆うと、見事に熱を持っている。
あーびっくりした。お、落ち着け私。こんなこと、滅多にないことなんだから、むしろ喜ぼう。うん、今日はきっといいこと起こるよ。
と、なんとか自分の心を落ち着かせ、頬の熱が冷めてから、私はようやくその場を動き出したんだけど。
なんだかとても、嬉しいような、恥ずかしいような、そんな甘酸っぱい気持ちでいっぱいだった。