黒ネコさんの受難 7
「良かったねぇ、黒ネコさん、なんともなくって」
学校近くの獣医さんへと黒ネコさんを連れていった、帰り道。
私と凜と高橋君は駅への方へと向かって歩いていた。
黒ネコさんは私の腕の中だ。その小さな後ろ足には、白い包帯が巻かれている。
「うん・・・ほんとにね」
にこにこと笑う凜に向かって、私も笑顔を返す。それから隣に立つ大きな姿に視線を移した。
「というか、ごめんね、高橋君。かばん、持たしちゃって。重くない?大丈夫?」
「・・・平気だ」
黒ネコさんを抱っこする私のために、高橋君は私の鞄を持ってくれてるんだけど・・・申し訳なくて仕方がない。だって、今日英語の宿題があるから辞典が入ってるんだよ!絶対重いよ。
「暑くなってきたねぇ」
空を眩しそうに手をかざしながらの凜の言葉に、私はこくり、と頷いた。
時刻はもう、4時過ぎ。夏へと向かうこの季節、少しずつ日が長くなってきてるのがわかる。
日差しも、柔らかい春の日差しからじりじりと肌を焼くものへと変わってきている。
もう、5月も終わり。
明日から、そう言えば制服も夏服に変わる。
6月に入ると、一気に夏ムードが高まるよね。体育祭も近いし。
「それにしても・・・」
「え?」
駅へと向かう道路脇の歩道を歩いている途中だった。凜が、思い出し笑いをくすくすとし始めたのは。
「『黒ネコさんを取り囲む会』、一瞬で終っちゃって残念だね?」
「・・・・・・!」
悪戯っぽい瞳を向けられて、私の顔は大いに引きつってしまった。ぎゃあ、なんてことを持ち出すのよ~凜さん!ちろり、と隣に目を向けると、憮然とした瞳とかち合ってしまった。
「同じメンバー、二度と集まらないだろうねぇ。惜しいことしたな、写真でも取っとけばよかったかな?」
「り、りん~!」
勘弁してください、高橋君の眉間にまた皺が寄ってるから。
ひとしきりくすくす笑ったあとで、凜はまだ笑みの残る瞳で、私を見下ろした。綺麗な二重の瞳。
「それにしても、あの人・・・春日君、だったっけ。猫が好きな人だとは思わなかったなぁ。
愛那、よく気づいたねえ。私、春日君が黒ネコさんをいじめてたのかと思ったよ?」
「あ~・・・うん、実は私も最初そう思った。」
私は、腕の中の黒ネコさんを見下ろした。ぴくぴくと耳を小刻みに動かして黒ネコさんは、身体を丸めてリラックスモードだ。その愛らしさについつい頬が緩んでしまう。
「でもこんなかわいい黒ネコさんをいじめられる人なんてそうそういないよ~~~!」
心のままに抱きしめたい欲求を堪えて、軽く自分の頬をその小さな頭に寄せてすりすりすると、凜が苦笑していた。
私は顔上げる。
「―――ほんとはね、偶然、気づいただけなんだけどね。
猫缶が、草むらにあったのが目に入ったし」
「・・・それをえさにそいつを呼び寄せたとは、考えなかったのか?」
ふいに、静かな声に訊ねられて、私は目を見開いた。思わずその言葉を発した隣の高橋君を見上げると、まっすぐな目と出会って瞬く。
「そいつを傷つけるために敢えてえさをあそこに置いていた・・・そして、怪我をさせた。そう考えることだって、できるだろう?
・・・井上は、そうは思わなかったか?」
「――――」
私はちょっとだけ黙って、高橋君の言葉の意味を考えた。
高橋君とは逆の隣で私達を見守る凜が息を呑んだのが気配でわかった。
「・・・実は、ちょっとだけ考えた、よ?」
ぺろりと舌を出して高橋君を見上げると、高橋君は私の言葉が意外だったのか、軽く目を見張った。
私は、ぽりぽりと頬を搔く。
「でも、さ。なんだか、困ったような顔していたんだもん、春日君」
私が、黒ネコさんのところに駆け寄ったとき。一瞬だったけど、どこか戸惑ったような、そんな印象の表情を浮かべたんだ。
少なくとも黒ネコさんを傷つけようとする意思は、そこには感じられなかった。
そう私が言うと、高橋君はちょっと黙り込んだ。唇を閉ざして、じっと私を見下ろしてくる。
疑ってるのかな?
私は、まっすぐその瞳を見つめ返した。
「―――確かに、逃がすためだとはいえ、石を投げるのはやりすぎかなぁとも、思ったよ?
でも、春日君ってちょっと、人付き合い苦手みたいな印象があったし・・・感覚が、人とずれてる処が、あるんじゃないかな?とも思ったんだよね。
だって、知ってた?黒ネコさんに投げようとしていた石が、ぜーんぶ、ちびっこかったの」
そう、敢えて選んだかのように、集められてた石は小さかった。本当に危害を加えようとしていたんだったら、そんな面倒くさいことしない。
それに、第一そんなまどろっこしいことしないでも、他に方法なんていくらでもあるわけで。
そこまで言い終わると、突然凜がするり、と私の腕に自分の腕を絡めてきた。
「私、愛那のそういう処好きだなぁ」
うふふ、とかわいく笑いながらそんな告白をされて、私は照れてしまう。
いやいやなに、いきなり。嬉しいけどそんなたいそうなことしてないし。
とか思ってると、逆隣から、大きく息をつく音がしてそっちに目をやって、私はちょっと驚いてしまった。
なんだか、穏やかな瞳をした高橋君がそこに居たんだ。
黒ネコさんに向けられているのは何度か見たことはある。でも、自分に向けられるのは初めてだった。
「印象を覆して、判断することは簡単なようで難しい。
―――井上は、ちゃんと人を見てるんだな」
なんだかぼーっとしている間にそんな言葉も頭に入ってきて、一気に顔が熱くなるのがわかった。
ぎゃ、なになに、なんか照れるんですけど。
「え、えーっと、」
言葉を捜すけど、心臓が落ち着かなくって何も出てこない。あらら?とか、私に腕を絡めた凜がそんな私を見下ろして、ちょっと意味ありげな笑みを浮かべたのがわかったけど、ちょ、違うから。何か勘違いしてるから、絶対。
おかげでまたまた黒ネコさんを抱きしめる腕の力を込めてしまって、黒ネコさんから大顰蹙を買ってしまった。慌てて宥めようとしても無理で、しょうがなく黒ネコさんは高橋くんの腕の中へと移った・・・とほほ。
―――とこんな感じで話も終わったところで丁度、駅前に着いた私達なんだけど。
大きな問題がひとつ、残っていた。
示し合わしたようになんとなく、そのまま私達は時計台前の噴水の所までやってくる。
ちょっとした憩いの場になってるここは、他にもちらほらと制服姿の生徒たちとか、犬の散歩に連れてきている人の姿が見える。
これから、どうしよう。
高橋君の腕の中には、黒ネコさんがいる。
でも、もう学校には戻れないし。
困惑して高橋君を見上げると、ちょうど高橋君も私に視線を向けたところだった。
お互いどうしようかと目線会議を繰り広げていると、
「―――あ、私、コンビにで飲み物買ってくるねー」
そんな私達をみて、どう思ったのか。凜がそう言って、ぱっと身を翻して駅内にあるコンビニへと走っていった。
え。ちょ、ちょっと。
思わず焦って呼び止めようとしたんだけど、凜の華奢な後ろ姿はすでに遠ざかってしまっていた。
伸ばした私の手がむなしい。
そんなやり取りを見ていた高橋君は、煉瓦で囲われた花壇の近くにあるベンチを指差す。
「座るか」
「・・・そうだね」
そうして、二人並んでベンチに腰掛ける。
黒ネコさんは、抱っこされるのに飽きてきていたのか、私と高橋君の間にすとん、と降りてきた。
みゃあおん、と見つめる私に向かって甘えるように鳴く。
「黒ネコさーん、これから、どうしようか」
私はその小さな頭を撫ぜながら、そう黒ネコさんに訊ねたけど、子猫ちゃんはごろごろと喉を鳴らすばかり。
ほんとに、これからどうしよう。
「うち、ケーキ屋だしなぁ・・・」
途方に暮れてそう呟く。
けど。
野良猫だった子猫ちゃんに、餌をあげて、懐かせてしまったのは、私達の責任だ。
このまま、どこかに捨てることなんて、できない。
しょうがない。まずは兄ちゃんに泣きついて、それから父さん達に拝み倒すしかないか・・・!兄ちゃんが味方に付いてくれたらどうにかなりそう。
と、私が決意を込めて、高橋君の方を向いたときだった。
ひょい、と高橋君が、黒ネコさんをその大きな手で抱き上げた。
自分の目線と合わせて向き合う、というなんとも微笑ましい姿で、高橋君は言った。
「―――何もないとこだが、うちに来るか?」
「ええ?!」
思わず私は大声を上げてしまった。
だ、だってだって。
「だ、大丈夫なの、高橋君?」
「・・・まあ、大丈夫、だろう」
高橋君にしては歯切れの悪い言葉に不安に思って見上げると、ひょいっと高橋君は肩を竦めた。
黒ネコさんを膝の上に下ろした後で、言う。
「いや、本当に大丈夫だ。・・・ただ、貸しが一つ増えるだけだ」
「・・・貸し?」
聞き返すと、高橋君はああ、と頷いてから大きくため息をつく。
「うちは共働きだからな。多分、母親は反対するだろうが・・・姉貴二人に協力してもらえば、大丈夫だ。
気は進まないが・・・仕方ない」
私はちょっと、目を見開いた。
「お姉さんが、居るんだ?」
「ああ。煩いのが二人。歳は離れてるけどな。
揃うと、手に負えない」
心底げんなりとしたその口調に、私は思わず噴出してしまった。思わず私も兄ちゃんのことを思い出してしまったんだ。うん、末っ子って、ある意味上の子の言い様にされるとこあるもんね。歳が離れてると余計に。
うちも兄ちゃんは優しい方だと思うけど、怒ると怖いし、逆らえないもん。
なんだか親近感が湧いてくすくすと笑っていると、高橋君からいつものあの眉を寄せた鋭い目つきが飛んできた。けど、とまらなかった。
だって、なんだか想像すると楽しい。
眉間に皺を寄せてた表情で、お姉さん達にからかわれている高橋君を想像すると、笑える。なんだかかわいいよね?
ああ、そうか。でも、それで納得した。
「そっかーそれでかぁ」
「・・・何が」
憮然とした表情の、その精悍な顔立ちを見上げる。
「高橋君って、見かけは怖いのに、素振りがなんだか紳士なんだもん。ちょっと不思議だったんだけど、お姉さんが居るからなんだねー」
近くで見ると意外と大きな高橋君の瞳が、驚きの色を含んで一瞬、見開かれた気がした。
言葉や顔つきは怖かったりするのに、支えてくれた腕とか、いつも丁寧で、優しかった。
きっと、お姉さんに叩き込まれたんじゃないかな。と思った。歳が離れてるって言ってたし。
「・・・怖いは余計だ」
ふいと顔を背けるその仕草に、笑いを誘われる。ちょっとだけ目元が赤いように見えるのはきっと気のせいじゃない。
「前にも言ったけど、怖いと思われたくないんだったらその眉間の皺をどうにかしなくっちゃ」
くすくすと笑いながら、私は自分の指先を、高橋君の顔に向かって伸ばした。
今度は届くか?という所で、また大きな手のひらが私の手首を掴む。
「・・・だから、大きなお世話だ、と前にも言わなかったか?」
そっと手首を下ろされる。でも、全然痛くないんだ。前もそうだったけど、高橋君って人に触れるとき、ものすごく丁寧な手つきになる。まるですごく、大切なものを扱うように、優しい手つき。
呆れたような高橋君の表情に、けれど自然と私の頬は緩んでしまった。
ふふっと笑うと、高橋君の目がふっと一瞬、細められて。そのまままっすぐ、見つめられる。
男らしい太い眉、その下のきりっとした瞳が、私を映し出してる。
そのことを意識したとたん、どきん、と心臓が音をたてた。
わ。
なんだか、瞳の奥まで覗き込まれるような、そんな感覚がした。
手首はそっと放されたけど、視線が外れることはなくて。
え、えっと。な、なんでしょう。
目を、逸らせない。
あ。左目の目尻の下に、よく見ると薄いけど小さくホクロがあるんだ・・・。そんなことにも気づくくらい、しばらく見つめ合っていた。
硬直した私の時間を動かしたのは、高橋君の膝の上にちょこんと座っていた黒ネコさんだった。
僕もいるんだよお、構ってよお、と言わんばかりに、鳴きながら小さな身体を伸ばして自己主張をする黒ネコさんの姿にはっと我に返る。
「ご、ごめんごめん黒ネコさん。どうしたの?お腹すいた?」
黒ネコさんは、高橋君の大きな膝の上で立ち上がって、みゃあお、と甘えるように高橋君のブレザーに顔を摺り寄せてた。
私は、慌てて黒ネコさんに話しかけたけど、どうしてだろう。上を向いて、高橋君の顔を見直すことができなかった。
「おまたせー!」
そうこうしているうちに凜も戻ってきた。手に缶コーヒーとジュースを持って。
「あ、ありがとう、凜」
私は内心大きくほっとして、戻ってきた凜にお礼を言い、缶を受け取った。
さすが、凜。私の好きな、オレンジジュースだった。
「高橋君は缶コーヒーでよかったかな?ごめんね、わからなくて適当に買って来ちゃった」
「・・・構わない」
芯のある声が私の隣から返事をする。意識が、左側に集中するのがわかった。
ちろり、と隣をなんとなくこそこそとした気分で盗み見ると・・・凜から缶コーヒーを受け取った高橋君と、ばちりと、視線がかち合ってしまった。
内心思いっきり焦ってあわあわしていると。
ふ、と高橋君の目元が、ちょっと緩んだ。
いつも鋭いその瞳が、穏やかな曲線を描くのを目にして、私は一瞬呆然としてしまった。
それは間違いなく、私に向けられた、笑顔。だった。
うわ。うわあ・・・!
それは私にとってはものすごい破壊力だった。だって、眉間に皺、がスタンダードな表情の高橋君、だったから。
それは、一瞬のことで、すぐに視線は移されてしまったんだけれども。
ことりと、私の心のどこかが、動いた気がした。
―――それから、高橋君の膝の上にいる黒ネコさんを抱き上げて、凜と高橋君と何か会話を交わしていたけど、私の耳にはぜんぜん入ってこなかったんだ。
それはほんの少し何かが変わった、夏の始まりの日の、出来事。