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言葉は鉛になる ―声が凶器になった世界で、最も危険な声を持つ男―  作者: 景都 (けいと)
沈黙の解体者

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#07 遠歌

 個室のドアが閉まり、外界の音が断たれた。


 ベッドの傍に紬が座っている。患者の手を握り、もう片方の手で手話を紡いでいた。声は届かないが、手の温かさは届く。


 通路側に律が立ち、銀色の構文を指先に灯していた。いつもの精密な表情。だが構文聴覚を向けると、律の心拍がわずかに速いのが聴こえた。


 言はベッドの反対側に座り、息を吸った。


「始めます」


 律が頷いた。銀色の光が律の両手から広がり、患者の体を薄く覆う。保護契約の展開——外層の命令型構文を拘束する網。


「外層、拘束完了。三分です」


 言は構文聴覚を全開にした。


* * *


 世界が切り替わる。


 病室の壁も、空調音も、心電図のビープ音も消える。残るのは三重呪詛の構文だけだ。黒い文様が空中に展開され、三つの層が重なり合って唸っている。


 外層。赤い命令型構文。律の銀色の網に拘束され、動きが鈍っている。今のうちに。


「——命令型、外層。拘束構文の核に対象指定の不備あり。不特定を以て、解除する」


 琥珀色の声が構文に触れた。赤い外殻に亀裂が走り、光の粒子が剥離していく。拘束された状態で解体するのは、通常よりも手早くできた。律の保護契約が、構文の反発を抑え込んでいる。


 一分四十秒。外層、解体完了。


 赤い光の粒子が空中に散り、消えた。フィードバックの鈍痛が頭の奥を叩く。


「中間層、拘束を展開します」


 律の声。銀色の網が再構成され、露出した中間層——黒い呪詛型構文を拘束する。


 中間層は外層より密度が高い。痛覚増幅の構文が複雑に絡み合い、患者の神経系に根を張っている。


「——呪詛型、中間層。痛覚増幅の構文接合部に意志の断裂がある。断裂を起点に、構文連鎖を解除する」


 声が空気を震わせた。黒い文様が軋み、ほどけていく。構文の根が患者の体から引き抜かれるたびに、フィードバックが増大した。頭痛が鋭くなる。鼻腔に鉄の味。


 二分五十秒。中間層、解体完了。


 残るは最深層だけだった。


* * *


 最深層の構文が、裸のまま浮かんでいた。


 金色。教師の声と同じ色。未知の文法で編まれた、美しく精緻な構文。他の二層とは質が違う。怒りを含んでいるのに、構造は完璧に整っている。


 律が銀色の網を展開しようとした。


「最深層、拘束を——」


 銀色の構文が、金色に触れた瞬間に弾かれた。律の手が跳ね上がる。


「……効かない。未知の文法には保護契約が通用しません」


 律の声にわずかな動揺が混じった。


 拘束なしの解体。フィードバックを直に受けることになる。


 言は唇を引き結んだ。ブレスレットに指先が触れた。


 ——やるしかない。


 構文聴覚を、最深層に集中させた。


 金色の構文の内部に意識が沈む。教師の声が——あの確信に満ちた声が、構文の奥から響いてきた。怒りの残響。静かで、熱くて、揺るぎない。数十年分の信念が凝縮された声。


 構文の弱点を探る。探る。


 ——ない。


 この構文には、弱点がなかった。完璧な文法。一音の隙もない。


 だが、言の構文聴覚は震えていた。共鳴するように。この文法の深層構造は、言の能力と同じ「周波数」で振動している。まるで——同じ源から生まれたもののように。


 言は理解した。この構文をほどくには、同じ層の言葉で上書きするしかない。


 つまり——自分の声を、全力で使う。


 喉の奥が締まった。ロゴフォビアが全身を硬直させようとする。自分の声が最も危険に物質化することを、言は知っている。


 しかし、ベッドの上で男性は眠り続けている。二週間。家族が毎日面会に来ていることを、紬から聞いていた。


 言は息を吸った。長く、深く。


「——最深層。未知の構文。弱点は存在しない」


 声が琥珀に光った。だが今回は、それだけでは足りなかった。


 もっと深く。もっと強く。自分の声を——鉛のように重い声を、全力で構文に叩き込む。


「構文の核に直接干渉する。同一の深層構造を以て——上書きし、解除する」


 琥珀色の光が爆発的に膨張した。言の瞳の中で文字列が激しく渦巻き、光が眼球を満たす。金色の構文が軋み、震え、亀裂が走った。


 構文が——ほどけた。


 金色の光が粒子に分解され、空中に散っていく。教師の声の残響が消えていく。最後に聴こえたのは、怒りではなかった。悲しみだった。途方もなく深い、悲しみ。


 患者の体から、すべての文様が消えた。


 呼吸が深くなる。心電図の波形が安定する。


 ——解体完了。


 フィードバックが、全身を貫いた。


 頭蓋の内側が焼けるような痛み。視界が白く飛ぶ。言は椅子から崩れかけ、声にならない呻きが喉から漏れた。


「……っ」


 その一音が、空気を叩いた。


 窓ガラスに蜘蛛の巣状の亀裂が走った。


 律が目を見開いた。紬は変わらず患者の手を握っている。何も感じていない——免疫。


 静寂が落ちた。


 律の声だけが、静かに響いた。


「……篠宮さん。今の——あなたですか?」


 言は答えられなかった。右手が震えている。割れた窓ガラスの亀裂を見つめた。


 自分の声が、これをやった。


 たった一音の呻きで。


 ブレスレットを握りしめた。革紐が掌に食い込んだ。


* * *


 割れた窓ガラスは、翌日には交換されていた。


 報告書には「解体時のフィードバックによる物理的衝撃」と記載された。律が書いた。嘘ではない。ただし、全てでもない。


 四十七名全員の呪詛解体が完了し、最後の患者も意識を取り戻した。


 VMB本部で氷見局長が言チームに正式な感謝を述べ、引き続き未知の文法の調査を命じた。言チームは三名体制で継続する。


 言は分析室で、三週間分のデータを統合していた。構文聴覚を開放し、全てを一つの仮説に収束させる。


 断片が——繋がった。


 テロの呪詛に使われた文法は、現代のあらゆる言語の深層構造と同じ「根」を持っている。現代の言語が木の枝だとすれば、この文法は幹そのものだった。


 メモ帳に書いた。


『確定。未知の文法=現代の全言語に先行する"原型"文法。人類の言語の、最も古い姿』


* * *


 同じ頃——函館。


 海沿いのアパートの一室で、テレビのニュースが流れていた。「新宿の言質テロから三週間。被害者全員の呪詛が解体され、退院が始まっています」。


 テレビの前に座る男は、ニュースを音声なしで見ていた。字幕だけ。言質化社会では、ニュース番組の音声をそのまま流す視聴者は減っている。


 朝倉透。三十二歳。元検事。


 テーブルの上に、古い文献のコピーが広がっている。言質化に関する学術論文。世界各地の飽和域のデータ。そして——原始文法に関する断片的な資料。


 朝倉はニュースの字幕を見つめた。「呪詛を解体した専門家の名前は公表されていません」。


「……構文聴覚か」


 低い呟き。碧い瞳が、テレビの光を映していた。


 朝倉はテーブルの文献に目を戻した。ペンを取り、メモの隅に一行書いた。


『言質化の力を封じた者がいる。ならば——封印を解く者もいるはずだ』


 函館の夜の海が、窓の向こうで黒く光っていた。


* * *


 東京。深夜。


 言は自宅のデスクで、原型文法の残響を構文聴覚で何度も再生していた。


 そのとき——構文聴覚の奥で、音が聴こえた。


 遠くで、誰かが歌っている。聴いたことのない言語で。その歌の文法は——テロに使われた未知の文法と、同じ系統だった。


 ブレスレットに触れた。


 呪詛の中にあった怒りと、歌の中にある何か。同じ文法が、まったく異なる感情を載せている。呪詛が怒りなら、この歌は——


 ——祈りだ。


 言は窓辺に立ち、夜の東京に耳を澄ませた。


 歌は、まだ続いていた。


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