#06 砕声
拡声器には、声が残っていた。
テロから五日後。VMB本部の地下実験室。防音壁に囲まれた部屋の中央に、回収された拡声器が一台、分析台の上に置かれている。
言は拡声器の前に座り、ノイズキャンセリングイヤホンを外した。
律が隣に立っている。紬は防音壁の外のモニター室で待機していた。拡声器に残留する呪詛の残響は微弱だが、万が一の暴走に備えて免疫を持つ紬を安全圏に置く——律の提案だった。
「準備できました。篠宮さん、いつでも」
言は頷き、構文聴覚を拡声器に向けた。
* * *
世界の音が変わる。
実験室の空調音が遠ざかり、拡声器の内部に意識が沈んでいく。
微弱な残響。呪詛を放射した機器に染みついた、構文の痕跡。テロの日に五台の拡声器から同時に発せられた呪詛——その残響が、機器の回路に薄く焼きついていた。
言は琥珀色の瞳を細め、残響の奥を聴いた。
呪詛の構文の下に、もう一つの声がある。
テロの実行犯の声ではない。実行犯たちに呪詛の文言を教えた——「教師」の声。紬の証言報告にあった通り、五名が抑揚まで完全に一致した発話をしていたのは、この声を正確に模倣していたからだ。
教師の声は、実行犯とは質が違っていた。
構文の精度が桁違いに高い。一音一音に確信が込められ、未知の文法が完璧な構造で編まれている。そして——その声の底に、深い怒りがあった。
怒り。静かで、熱くて、揺るぎのない怒り。
言の構文聴覚が共鳴するように震えた。この怒りは、衝動的なものではない。何年も——何十年も醸成された、信念に根差した怒りだ。
頭の奥で鈍痛が走った。鼻血の予兆。言は構文聴覚を閉じ、目を開いた。
「……聴こえた」
律が身を乗り出した。
「何が聴こえましたか」
言はメモ帳にペンを走らせた。
『教師がいる。実行犯に未知の文法を教えた人間。声の残響が拡声器に残っていた。……この人物は、未知の文法を完全に使いこなしている』
律がメモを読み、唇を引き結んだ。
『もう一つ。教師の声には、深い怒りがあった。長い時間をかけて育てた怒り。これは犯罪者の衝動ではない。信念だ』
* * *
一時間後。VMB本部の最上階、局長室。
氷見和彦は六十過ぎの痩せた男だった。銀縁の眼鏡の奥の目は穏やかだが、その奥に管理者特有の冷たさがある。沈黙区域内でも声を極限まで抑えて話す人間——VMBの長として、言葉の重さを誰よりも理解している人物だった。
言のメモを読み終えた氷見は、しばらく沈黙した。
「篠宮さん。この情報は、対処部の報告書には載せないでください」
律が口を開きかけたが、氷見が手で制した。
「未知の文法体系を保有し、意図的にテロに使用した人物がいる——この情報が外に出れば、パニックになります。既存の呪詛対策が無効な攻撃が可能だという事実は、社会に公表できる段階にない」
言はメモ帳に書いた。
『調査は継続できますか』
「内部調査として、あなた方三名に一任します。ただし報告先は私のみ。外部への情報漏洩は許可しません」
律が静かに言った。
「……了解しました」
局長室を出た。廊下を歩きながら、律が低い声で言った。
「情報統制は理解できます。ですが——」
言はメモ帳を差し出した。
『同感。ただ、今は従う。調べることが先だ』
律は小さく頷いた。
エレベーターの前で紬が待っていた。二人の表情を見て、何かを察したらしい。
〈難しい顔してる。何かあった?〉
言はメモ帳に一行書いた。
『やることが増えた』
紬は首を傾げたが、それ以上は訊かなかった。
ブレスレットに指先が触れた。ポケットの中には、母がくれた新しい革紐の紙袋が入っている。
——まだ、替えない。
* * *
四十六人が回復した。一人だけが、まだ眠っている。
テロから二週間。都立新宿総合病院の特設病棟は段階的に縮小され、大半のベッドが撤去されていた。残されたのは最奥の個室一つ。ドアの横に「沈黙区域・特別管理」のプレートが掛かっている。
言は個室のドアを開けた。
ベッドに横たわる四十代の男性。新宿テロの被害者リスト四十七番目——最後の一人。二週間前の解体作業で、言が唯一ほどけなかった患者だった。
黒い文様が、男性の全身を覆っている。首から胸、腹、両腕、両脚——他の被害者とは密度が違う。文様の脈動は強く、肉眼でも微かに見えるほどだ。
構文聴覚を向けた。
——重い。
呪詛が三重に編まれていた。外層、中間層、最深層。それぞれが異なる構文タイプで構成され、互いに補強し合う構造になっている。一層をほどこうとすると隣の層が反発し、構文が暴走するリスクがある。二週間前はこの構造に阻まれ、解体を断念した。
言はベッドの横に座り、男性の顔を見た。穏やかな寝顔。だが構文聴覚には、三重の呪詛が絶え間なく唸る音が聴こえている。
ブレスレットに指先が触れた。
* * *
VMB本部の会議室。言、紬、律の三人が、テーブルを囲んでいた。
言はホワイトボードに三重呪詛の構造図を書き出していた。メモ帳ではなくボードを使うのは珍しい。それだけ複雑な構造だということだ。
外層——命令型。患者の身体機能を強制的に停止させる拘束構文。色は赤。
中間層——呪詛型。痛覚を持続的に増幅する攻撃構文。色は黒。
最深層——未知の文法による構文。種別も効果も不明。色は——金。教師の声と同じ、信念の色。
律がホワイトボードを見つめながら言った。
「外層と中間層は、私の保護契約で個別に拘束できます。問題は最深層です。未知の文法で編まれた構文を、保護契約で拘束できる保証がない」
紬がタブレットに打ち込んだ。
『わたしが患者さんの傍にいる。呪詛が暴走しても、わたしには効かない。患者さんの精神的な支えになれる』
言はメモ帳に書いた。
『律が外層と中間層を拘束。紬が患者の傍で精神的支柱。俺が三層を順にほどく。外層から行く』
律が頷いた。
「タイミングを合わせましょう。私が拘束を展開した直後に、篠宮さんが解体を始める。拘束の持続時間は層あたり最大三分。それを超えると保護契約が崩れます」
三分。一層あたり三分以内に解体を完了させる必要がある。通常の呪詛解体は十分以上かかることもある。
言はペンを止め、三人の顔を見渡した。紬が手話で言った。
〈大丈夫。三人でやるんだから〉
言は小さく頷いた。声は出さなかった。
* * *
その夜。自宅のアパートで、言は天井を見上げていた。
明日、三重呪詛の解体に挑む。
失敗すれば呪詛が暴走し、患者が死ぬ可能性がある。言自身にも危険が及ぶ。最深層の未知文法に触れるということは、教師の声に——あの深い怒りに——直接触れるということだ。
左手首のブレスレットを握った。革紐の感触が掌に食い込む。
——大丈夫だ。
母の声が記憶の底から浮かんだ。
「おかえり」。
三年間の沈黙のあとの、最初の一言。あの声に怒りはなかった。あったのは——ただ、待っていた時間の重さだけだった。
あの呪詛をほどけたのだから。三重だろうが、ほどける。
言は目を閉じた。明日に備えて、眠らなければならなかった。




