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言葉は鉛になる ―声が凶器になった世界で、最も危険な声を持つ男―  作者: 景都 (けいと)
沈黙の解体者

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#05 鉛声

 誰が、あの文法を作ったのか。


 テロから三日後。VMB本部の分析室で、言はデスクの上にメモを広げていた。呪詛の最深層から抽出した構文のパターン。断片的だが、確かな論理構造を持つ文法体系の欠片。


 向かいのデスクで律がタブレットを操作し、隣の会議室では紬が被害者の証言記録を整理している。


 三人がチームとして動き始めて、三日目だった。


* * *


 午後。紬が会議室から戻り、タブレットの画面を言と律に差し出した。


 〈証言をまとめた。気になる点がある〉


 画面には、意識が回復した二十三名から聴取した証言の要約が並んでいる。紬は言質化免疫を持つため、被害者に残留する呪詛の影響を受けずに接近できる。この聴取は紬にしかできない仕事だった。


 紬がタブレットに文字を打ち込んだ。


『実行犯は五名。全員が同じ文言を、同じ発音で、同時に唱えていた。被害者の証言が完全に一致している』


 律が眼鏡の位置を直した。


「五名が同時に同一の文言を……暗唱ですか」


 〈もっと不自然。被害者の一人が言っていた——「録音を再生しているみたいだった」と。抑揚まで完全に同じだったらしい〉


 言はペンを止めた。


 五人の人間が、同一の文言を、抑揚まで一致させて唱える。それは自発的な発話ではない。誰かに教え込まれたのだ——それも、音の一つひとつを正確にコピーさせるほどの徹底さで。


 メモ帳に書いた。


『教師がいる。この文法を知っていて、実行犯に叩き込んだ人間が』


* * *


 律の調査も進展していた。


「テロに使われた拡声器五台を分析しました。いずれも市販品ではありません。内部に、VMBのデータベースに存在しない構文増幅回路が組み込まれていました」


 律がスクリーンに拡声器の分析レポートを映した。


「製造元は不明。輸入記録もなし。言質化の増幅に特化した機器を、誰かが独自に開発しています」


 未知の文法。訓練された実行犯。特注の拡声器。


 これは衝動的な犯行ではない。長い準備期間を経て計画された、世界初の「未知文法テロ」だった。言はメモに走り書きしながら、頭の中で情報を組み立てていく。紬の証言収集、律の物証追跡、そして自分の構文分析——三つの線が一つの結論を指し示している。


 この事件の背後に、未知の文法体系を保有する何者かがいる。


* * *


 深夜。自宅のアパート。


 防音材に囲まれた部屋で、言はデスクに向かっていた。ノイズキャンセリングイヤホンを外し、構文聴覚を開放している。


 デスクの上には、解体した呪詛から抽出した構文パターンの記録。メモ帳に書き起こした断片的な文法構造の図式。言はそれを構文聴覚で何度も「再生」していた。


 呪詛に使われていた文法は、言質化の三条件——意志、共鳴、構文——のうち、構文の精度が異常に高かった。現代の言語で言質化を発動させる場合、人間の自然言語が持つ曖昧さが出力を制限する。主語の省略、多義的な語彙、文脈依存の解釈——そうした「揺らぎ」が、言質化の威力に上限を設ける。


 だが、この文法には曖昧さがなかった。


 一音一音が数学的な精度で配置され、構文の各要素が完璧に噛み合っている。言語学でいう「普遍文法」——チョムスキーが仮定した、全人間言語の根底にある深層構造——に直接触れているような感覚だった。


 言は構文聴覚をさらに深く集中させた。琥珀色の瞳に光の粒子が浮かぶ。頭の奥で鈍痛が始まったが、止められなかった。


 ——美しい。


 恐ろしいほどに精緻で、古くて、深い。この文法を「聴く」たびに、構文聴覚が共鳴するように震える。まるでこの能力が、この文法を聴くために存在しているかのような——


 ブレスレットに指先が触れた。我に返る。


 メモ帳にペンを走らせた。


『この文法は、現代のどの言語にも属さない。しかし全ての現代言語の深層構造と同一の系統に属している。まるで——全言語の「先祖」のような構造』


 ペンが止まった。


 ——この文法は、新しいのではない。


 極めて古いのだ。


 これは人間が作ったものだ。ただし——今の人間ではない。


 窓の外は暗い。防音材の向こうで街の構文が低くざわめいている。


 メモ帳に最後の一行を書いた。


『仮説——この文法は、人類の言語の"原型"か? 藤堂教授に相談する』


 ペンを置き、目を閉じた。頭の奥で、未知の文法の残響がまだ震えている。


 そしてその震えの遥か底に——もう一つの音が混じっていることに、言は気づいた。


 どこか遠くで、誰かが歌っている。


 聴いたことのない言語で。


* * *


 調査の合間に、言は実家を訪ねた。


 杉並区の住宅街。商店街の一角に、小さな仕立て屋がある。看板には「篠宮仕立店」。店の前に干された布地が、春の風に揺れていた。


 ドアを開けると、ミシンの音がした。


 奥のカウンターで、五十代の女性が布を縫っている。白髪交じりの髪をゆるく束ね、丸い眼鏡をかけた穏やかな顔。篠宮縫——言の母だった。


 縫はミシンの手を止め、息子を見上げた。


「あら」


 たった一音。だがその声に、言の構文聴覚が微かな金色を聴き取った。安堵と、喜び。


「……来た」


 言はそれだけ言って、カウンターの前の椅子に座った。縫は何も訊かずにお茶を入れ始めた。この沈黙が、二人のあいだの会話だった。


* * *


 湯呑みを受け取り、熱いお茶を一口含んだ。ほうじ茶。いつもと同じ。


 縫はミシンに戻り、布地を縫い続けている。言はお茶を飲みながら、母の手元を見つめた。布を送る指の動きは正確で、迷いがない。言質化コンサルタントが構文を解体するように——母は布の構造を読み取り、ほどき、縫い直す。


 メモ帳を取り出し、一行書いて差し出した。


『仕事、忙しい?』


 縫はメモを見て、小さく笑った。


「ぼちぼちね。近所の奥さんのコートのお直しと、商店街の幕の修繕。……あんたは?」


 言は少し迷ってから、書いた。


『大きな仕事が入った。VMBの』


「そう」


 縫はそれ以上訊かなかった。息子の仕事が危険を伴うことを知っている。知っていて、訊かない。


 お茶の湯気が、二人のあいだを漂った。


* * *


 十年前のことを、言は忘れたことがない。


 二〇一七年。言質化が世界に発生した年。言は十五歳だった。


 自分の声に何が起きているのか分からなかった。学校で同級生と口論になったとき、言の怒声が相手を物理的に吹き飛ばした。教室の壁にひびが入った。言は恐怖で声が出なくなり、三日間学校を休んだ。


 ——母に当たったのは、その翌週だった。


 些細なことだった。夕食の献立。疲れていた。苛立っていた。怖かった。自分の声がどうなっているのか分からなくて、その恐怖を誰かにぶつけたかった。


「黙れ! もう二度と俺に話しかけるな!」


 十五歳の言の声が、家の空気を叩き割った。


 琥珀色の光が、母の喉を包んだ。命令型と呪詛型が混合した、未熟で暴力的な言質化。意志も共鳴も構文も——三条件が揃っていた。十五歳の少年の、剥き出しの恐怖と怒りが言葉に乗った。


 母は三年間、息子に声をかけられなくなった。


 声は出る。他の人とは話せる。だが息子に向かって口を開こうとすると、喉が締まり、声が消える。三年間。千日以上。母は毎朝息子に「おはよう」を言おうとして、言えなかった。


 言は十九歳のとき、独学で自分の呪詛を解体した。構文聴覚の使い方を手探りで覚え、母の喉に刻まれた自分の声の残響を、一層ずつほどいていった。


 解体が終わった日。母が最初に言った言葉は、


「おかえり」


 だった。


 怒りも、恨みも、悲しみもなく——ただ三年分の「おかえり」が、穏やかに。


 その日、言は二度と不用意に声を出すまいと決めた。


* * *


 帰り際、縫が小さな紙袋を差し出した。


「ブレスレット、だいぶ擦り切れてきてるでしょう。新しい革紐、編んだから。……気が向いたら替えてね」


 言は紙袋を受け取った。左手首のブレスレットに視線が落ちる。母の手編み。使い込んで色の褪せた革紐。十九歳の誕生日に、母がくれたものだった。呪詛を解体した年の。


 ——替えなくていい。この擦り切れ方が、ちょうどいい。


 声には出さなかった。代わりにメモ帳に書いた。


『ありがとう。また来る』


 縫は頷いた。


 店を出た。春の夕暮れ。商店街の灯りがぽつぽつと点き始めている。


 左手首のブレスレットを、右手の指先でなぞった。擦り切れた革紐の感触。三年間の沈黙と、「おかえり」の重さ。


「……俺の言葉は、鉛だ」


 誰にも聴こえない声で、呟いた。


 その呟きが、春の空気を微かに震わせた。


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