表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
言葉は鉛になる ―声が凶器になった世界で、最も危険な声を持つ男―  作者: 景都 (けいと)
沈黙の解体者

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/29

#03 召集

 翌朝、言は藤堂教授に送ったメッセージの返信を待ちながら、コーヒー豆を挽いていた。


 手動ミル。ハンドルを回すたびに、乾いた音が防音材に吸い込まれる。声を出さずにできる、ていねいな作業。言はこの時間が好きだった。豆の硬さが指に伝わり、挽き具合の微妙な変化に集中している間は、構文聴覚の雑音が少しだけ遠のく。


 ドリッパーに湯を注ぎ、コーヒーの膨らみを見つめた。最初の一投で粉がふくらみ、ゆっくりと沈む。二投目。三投目。


 カップに注ぎ終えたとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。


 画面を見る。非通知。


 言は一瞬迷ってから、通話ボタンに触れた。


「篠宮言さんですか。言質管理局対処部です。緊急の召集要請です」


 女性の声。機械のように平坦だが、それはAI音声ではなかった。意志を殺して話すことに慣れた人間の声だ。VMBの職員は業務中、感情を抑えた発声を訓練されている。不用意な言質化を防ぐために。


「新宿で大規模な言質化事件が発生しました。詳細は本部で。至急、千代田区霞が関のVMB本部にお越しください。車を手配します」


 言は窓の外に目をやった。朝の杉並区はいつもと変わらず、春の日差しが路地に淡い影を落としている。


 しかし構文聴覚は——さっきまでと違う何かを拾っていた。


 街の構文的なバックグラウンドノイズが、微かに揺らいでいる。遠くで何かが起きたときの、波紋のような余韻。大きな石を池に投げ込んだあと、水面が長く震え続けるように。


「……行きます」


 コーヒーカップを流しに置いた。一口も飲めなかった。


* * *


 VMB本部は、千代田区霞が関の旧文部科学省庁舎を改装した建物だった。


 建物全体が巨大な沈黙区域に指定されている。敷地に入った瞬間、構文聴覚の負荷がすっと消えた。無音の店とは違う——ここでは声を出しても安全だという制度的な保証がある。裁判所、国会、大学の講義室、病院の診察室。言質化社会で「声で会話する」ことは、専用の設備がある場所だけの特権になりつつあった。


 エントランスで身分証を提示し、エレベーターで三階へ。対処部のフロアは既に騒然としていた。


 ——いや、騒然としている、というのは正確ではない。


 VMBの職員たちは声を抑えて動いている。走る者はいても、叫ぶ者はいない。端末でテキストメッセージを打ちながら足早に移動する者、壁のモニターに映る映像を無言で見つめる者。沈黙区域の中にいるのに、誰もが声を使うことを躊躇っていた。


 それだけで分かった。大きな事件だ。


「篠宮さん」


 対処部のブリーフィングルームに入ると、スーツ姿の男が立ち上がった。対処部の課長補佐。名前は覚えていない。以前にも何度か、VMBの研究協力で顔を合わせたことがある。


「お忙しいところすみません。早速ですが、状況を説明します」


 壁のスクリーンに映像が映し出された。


 新宿。雑踏。——いや、雑踏だったもの。


 映像の中の新宿駅東口は、異様な光景だった。路上に倒れている人々。十人、二十人——数えきれない。救急車のサイレンが映像の向こうで鳴り続けている。倒れた人々の体に、黒い文様が浮かんでいた。


 ——呪詛型。


 言の瞳が、琥珀色に微かに光った。映像越しでも、構文聴覚が残留する構文の気配を拾おうとする。しかし画面からは何も聴こえない。映像は音声を消去してある。当然だ。言質テロの映像をそのまま音声付きで流せば、呪詛の残響が聴く者を巻き込みかねない。


「今朝七時十二分。新宿駅東口の広場で、複数の人物が同時に拡声器から呪詛を放射しました。現時点で四十七名が呪詛型言質化の被害を受け、搬送されています。うち重傷者は十二名。呪詛が体に刻まれたまま、解除できない状態です」


 言はメモ帳にペンを走らせた。


『呪詛の構文タイプは特定されていますか』


「いえ。それが問題でして」


 課長補佐の声が少し低くなった。


「被害者から回収された呪詛の残響をウチの分析チームが調べましたが……構文タイプが特定できません。既知のどのパターンにも該当しない、と」


 言はペンを止めた。


 言質化が社会に浸透して十年。その間にVMBの研究部は、呪詛型言質化の構文パターンを網羅的にデータベース化してきた。日本語、英語、中国語、アラビア語——言語を問わず、呪詛型の構文には一定のパターンがある。それが「特定できない」とは。


『解体できる人間が必要、ということですか』


「はい。被害者の呪詛を解体できるのは、構文聴覚を持つ篠宮さんだけだと判断しました」


 言は唇を引き結んだ。四十七人。重傷者十二人。呪詛が刻まれたまま、今この瞬間も苦しんでいる人々がいる。


 喉が渇いた。ブレスレットに指先が触れた。


「……分かりました。現場は」


「搬送先の病院です。もう一つ——」


 課長補佐がドアのほうを振り返った。


「先行して現場に入った職員が二名、既に病院で待機しています。今回の件で篠宮さんと連携していただく予定の者です」


 ドアが開いた。


 最初に入ってきたのは、黒いスーツに銀縁の眼鏡をかけた長身の女性だった。切れ長の目が言を見据える。腰まで届く黒髪をきっちりとローポニーテールにまとめ、左手の薬指に銀のリングが光っている。


「契約部の氷室律ひむろ りつです。上級契約師。被害者に仮設の保護契約をかけて、呪詛の進行を遅らせています」


 声は精密だった。一語一語に隙がない。契約書のような話し方だ、と言は思った。


 その後ろから、もう一人。


 小柄な女性だった。深い栗色のショートボブで、紺のブレザーを着崩して着ている。右耳にかかる髪の下に、使われていない補聴器が覗いた。


 彼女は声を出さなかった。


 代わりに、両手が動いた。流れるような手話。


 〈対処部の音無紬おとなし つむぎ。交渉専門官。わたしは言質化に完全免疫を持ちます。現場に最初に入ったのは、わたしです〉


 手話の動作は優美だった。言葉が聴こえないのに——いや、声のない言葉だからこそ、そこには不思議な説得力があった。


 言は紬の手話を読み取りながら、無意識に構文聴覚を向けた。


 ——何もない。


 紬の周囲には、構文の気配が一切なかった。他の人間からは——たとえ微弱でも——何らかの構文の振動が漂っている。しかし紬だけが、完全な沈黙に包まれていた。世界で最も静かな場所を歩く人間。


 紬が言のほうを向き、微笑んだ。


 〈行きましょう。患者さんたちが待ってる〉


 言は頷いた。声を出さなくても通じる——その安堵が、喉の奥の緊張をほんの少しだけ緩めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ