#03 召集
翌朝、言は藤堂教授に送ったメッセージの返信を待ちながら、コーヒー豆を挽いていた。
手動ミル。ハンドルを回すたびに、乾いた音が防音材に吸い込まれる。声を出さずにできる、ていねいな作業。言はこの時間が好きだった。豆の硬さが指に伝わり、挽き具合の微妙な変化に集中している間は、構文聴覚の雑音が少しだけ遠のく。
ドリッパーに湯を注ぎ、コーヒーの膨らみを見つめた。最初の一投で粉がふくらみ、ゆっくりと沈む。二投目。三投目。
カップに注ぎ終えたとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面を見る。非通知。
言は一瞬迷ってから、通話ボタンに触れた。
「篠宮言さんですか。言質管理局対処部です。緊急の召集要請です」
女性の声。機械のように平坦だが、それはAI音声ではなかった。意志を殺して話すことに慣れた人間の声だ。VMBの職員は業務中、感情を抑えた発声を訓練されている。不用意な言質化を防ぐために。
「新宿で大規模な言質化事件が発生しました。詳細は本部で。至急、千代田区霞が関のVMB本部にお越しください。車を手配します」
言は窓の外に目をやった。朝の杉並区はいつもと変わらず、春の日差しが路地に淡い影を落としている。
しかし構文聴覚は——さっきまでと違う何かを拾っていた。
街の構文的なバックグラウンドノイズが、微かに揺らいでいる。遠くで何かが起きたときの、波紋のような余韻。大きな石を池に投げ込んだあと、水面が長く震え続けるように。
「……行きます」
コーヒーカップを流しに置いた。一口も飲めなかった。
* * *
VMB本部は、千代田区霞が関の旧文部科学省庁舎を改装した建物だった。
建物全体が巨大な沈黙区域に指定されている。敷地に入った瞬間、構文聴覚の負荷がすっと消えた。無音の店とは違う——ここでは声を出しても安全だという制度的な保証がある。裁判所、国会、大学の講義室、病院の診察室。言質化社会で「声で会話する」ことは、専用の設備がある場所だけの特権になりつつあった。
エントランスで身分証を提示し、エレベーターで三階へ。対処部のフロアは既に騒然としていた。
——いや、騒然としている、というのは正確ではない。
VMBの職員たちは声を抑えて動いている。走る者はいても、叫ぶ者はいない。端末でテキストメッセージを打ちながら足早に移動する者、壁のモニターに映る映像を無言で見つめる者。沈黙区域の中にいるのに、誰もが声を使うことを躊躇っていた。
それだけで分かった。大きな事件だ。
「篠宮さん」
対処部のブリーフィングルームに入ると、スーツ姿の男が立ち上がった。対処部の課長補佐。名前は覚えていない。以前にも何度か、VMBの研究協力で顔を合わせたことがある。
「お忙しいところすみません。早速ですが、状況を説明します」
壁のスクリーンに映像が映し出された。
新宿。雑踏。——いや、雑踏だったもの。
映像の中の新宿駅東口は、異様な光景だった。路上に倒れている人々。十人、二十人——数えきれない。救急車のサイレンが映像の向こうで鳴り続けている。倒れた人々の体に、黒い文様が浮かんでいた。
——呪詛型。
言の瞳が、琥珀色に微かに光った。映像越しでも、構文聴覚が残留する構文の気配を拾おうとする。しかし画面からは何も聴こえない。映像は音声を消去してある。当然だ。言質テロの映像をそのまま音声付きで流せば、呪詛の残響が聴く者を巻き込みかねない。
「今朝七時十二分。新宿駅東口の広場で、複数の人物が同時に拡声器から呪詛を放射しました。現時点で四十七名が呪詛型言質化の被害を受け、搬送されています。うち重傷者は十二名。呪詛が体に刻まれたまま、解除できない状態です」
言はメモ帳にペンを走らせた。
『呪詛の構文タイプは特定されていますか』
「いえ。それが問題でして」
課長補佐の声が少し低くなった。
「被害者から回収された呪詛の残響をウチの分析チームが調べましたが……構文タイプが特定できません。既知のどのパターンにも該当しない、と」
言はペンを止めた。
言質化が社会に浸透して十年。その間にVMBの研究部は、呪詛型言質化の構文パターンを網羅的にデータベース化してきた。日本語、英語、中国語、アラビア語——言語を問わず、呪詛型の構文には一定のパターンがある。それが「特定できない」とは。
『解体できる人間が必要、ということですか』
「はい。被害者の呪詛を解体できるのは、構文聴覚を持つ篠宮さんだけだと判断しました」
言は唇を引き結んだ。四十七人。重傷者十二人。呪詛が刻まれたまま、今この瞬間も苦しんでいる人々がいる。
喉が渇いた。ブレスレットに指先が触れた。
「……分かりました。現場は」
「搬送先の病院です。もう一つ——」
課長補佐がドアのほうを振り返った。
「先行して現場に入った職員が二名、既に病院で待機しています。今回の件で篠宮さんと連携していただく予定の者です」
ドアが開いた。
最初に入ってきたのは、黒いスーツに銀縁の眼鏡をかけた長身の女性だった。切れ長の目が言を見据える。腰まで届く黒髪をきっちりとローポニーテールにまとめ、左手の薬指に銀のリングが光っている。
「契約部の氷室律です。上級契約師。被害者に仮設の保護契約をかけて、呪詛の進行を遅らせています」
声は精密だった。一語一語に隙がない。契約書のような話し方だ、と言は思った。
その後ろから、もう一人。
小柄な女性だった。深い栗色のショートボブで、紺のブレザーを着崩して着ている。右耳にかかる髪の下に、使われていない補聴器が覗いた。
彼女は声を出さなかった。
代わりに、両手が動いた。流れるような手話。
〈対処部の音無紬。交渉専門官。わたしは言質化に完全免疫を持ちます。現場に最初に入ったのは、わたしです〉
手話の動作は優美だった。言葉が聴こえないのに——いや、声のない言葉だからこそ、そこには不思議な説得力があった。
言は紬の手話を読み取りながら、無意識に構文聴覚を向けた。
——何もない。
紬の周囲には、構文の気配が一切なかった。他の人間からは——たとえ微弱でも——何らかの構文の振動が漂っている。しかし紬だけが、完全な沈黙に包まれていた。世界で最も静かな場所を歩く人間。
紬が言のほうを向き、微笑んだ。
〈行きましょう。患者さんたちが待ってる〉
言は頷いた。声を出さなくても通じる——その安堵が、喉の奥の緊張をほんの少しだけ緩めた。




