表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
言葉は鉛になる ―声が凶器になった世界で、最も危険な声を持つ男―  作者: 景都 (けいと)
世界が叫ぶ日

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/29

#29 静朝

 声のない朝は、コーヒーの香りで始まった。


 二〇二八年秋。言は自宅のアパートで手動ミルのハンドルを回していた。乾いた音が防音材に吸い込まれる。声を失う前と同じ作業。だが今は、この音だけが朝の全てだった。


 ドリッパーに湯を注ぎ、膨らむ粉を見つめた。カップに注ぎ終え、一口飲む。苦味が喉を通る。声帯の奥に、まだ鈍い痛みがある。


 構文聴覚は健在だった。窓の外の東京のざわめきが聴こえる。通行人の発話に含まれる微弱な構文の振動。抑制構文の脈動。世界は聴こえる。だが自分の声だけが、消えていた。


 スマートフォンが震えた。紬からのメッセージ。


『おはよう。今日の手話レッスン、10時でいい?』


 言は打ち返した。


『いい。よろしく』


* * *


 VMB本部の屋上。紬が言の正面に座り、手話を教えていた。


 言の手の動きはまだぎこちない。構文聴覚で音の構造を「聴く」ことには長けているが、手で言葉を「作る」ことには慣れていなかった。


 紬が手話で示した。


 〈もう一回。「ありがとう」〉


 言が手を動かした。紬が首を振った。


 〈手首の角度が違う。こう〉


 紬が言の手を取り、正しい角度に導いた。指先が触れた。言はブレスレットの革紐越しに紬の指の温かさを感じた。


 〈上手になってきた。声がなくても、手で話せる。わたしが十年以上かけて覚えたことを、言さんは三週間で追いつこうとしてる〉


 言はメモ帳に書いた。


『追いつけてない。お前の手話は舞踊みたいだ。俺のは棒読みだ』


 紬が笑った。声のない笑い。


 〈棒読みでも届いてるよ〉


 律が屋上に来た。コーヒーを三つ持っている。


「篠宮さん。出雲の石室の追加データが届きました。藤堂教授が解読作業を進めたいそうです」


 言は頷いた。コーヒーを受け取り、屋上から分析室に向かった。


* * *


 分析室。デスクの上に、出雲の石室から回収された壁面記録のデジタル複製が広がっていた。


 声を使えない代わりに、言は構文聴覚を「読解」に特化させていた。石に刻まれた原始文法の文字を、構文の振動として聴き取り、意味を復元する。以前は声で解体する際の「分析ツール」だった構文聴覚が、今は純粋な「読解装置」として機能している。


 詠が横に座り、言の読解を補助した。言が構文聴覚で拾った振動をメモ帳に書き出し、詠がそれを原始文法の知識で翻訳する。紬が二人のメモを整理してデジタル化し、律が法的・論理的な観点から内容を精査する。


 四人の「声なしの共同作業」。声を出す必要がない。メモ帳とタブレットと手話だけで、古代の記録が現代の言葉に変わっていく。


 三日目。記録の中に、新しい章が見つかった。


 言はメモ帳に書いた。手が震えていた。


『大沈黙の設計仕様書に相当する章がある。封印の構造、持続期間、解除条件が記されている』


 詠がメモを読み、目を閉じた。


「五千年。ようやく、誰かがここまで辿り着いた」


 律が訊いた。


「解読にどのくらいかかりますか」


 言はメモに書いた。


『一週間。四人でやれば』


 紬が手話で言った。


 〈やろう。わたしたちの仕事だ〉


 ブレスレットの革紐に、インクの染みがついていた。メモ帳を使いすぎた証。言はそれを見て、口元が微かに緩んだ。


 声はまだ出ない。だが手は動く。耳は聴こえる。そして隣には仲間がいる。


* * *


 詠が語り始めたのは、設計仕様書の解読が半ばに差しかかった夜だった。


 VMB本部の分析室。四人がテーブルを囲んでいる。窓の外は暗い。デスクの上にはコーヒーカップとお茶の湯呑みと、メモ帳の山。


 詠は湯呑みを両手で包み、窓の外の東京の夜景を見ながら話し始めた。


「設計仕様書を読むなら、設計者の意図を知るべきだ。それには私の記憶が必要だろう」


 言はメモ帳に書いた。


『聞かせてほしい』


 詠は頷いた。


* * *


「五千年前。世界はまだ若かった」


 詠の声は穏やかだった。古風な言い回しが、いつもより深い。


「人間の言葉は全て力を持っていた。歌えば嵐が鎮まった。誓えば鎖が生まれた。祝福すれば傷が癒えた。子守唄で子供は安らかに眠り、収穫の歌で大地は実りをもたらした。美しい時代だった」


 紬がタブレットに打ち込んだ。


『どのくらい続いたの?』


「数千年。正確には覚えていない。声の力は自然なもので、誰もそれを疑わなかった。太陽が昇るように、声は力を持つものだった」


 詠の目が遠くなった。


「やがて、声は武器になった。国と国が争い、声で人を殺し、歌で街を焼いた。呪詛の応酬が大地を裂き、海を荒らし、空を曇らせた。声の大戦。数百年続いた」


 律が訊いた。


「数百年も」


「文明が滅ぶには十分な時間だ。最後に残ったのは焦土と、声を失った人々の群れだった。声の力を使い果たし、自分の言葉で自分を傷つけた者たちが」


 詠の手が、湯呑みの上で微かに震えた。


「私は歌い手だった。戦場で歌った。味方を癒す歌も、敵を傷つける歌も。どちらも同じ声で歌った。その矛盾に、やがて耐えられなくなった」


 紬が手話で言った。


 〈だから、封印を?〉


「そうだ。生き残った言語学者たち十三人で、文法守を結成した。声の力を封じる方法を研究し、実行した。大沈黙と呼んだ」


 詠が目を閉じた。


「実行の日のことは、今でも覚えている。仲間たちが一人ずつ声を失い、倒れていった。封印に自分の声を注ぎ込んだ。十三人のうち十二人が。最後まで歌っていたのは、私だけだった」


 分析室が静まった。構文聴覚に、詠の声の奥にある五千年分の重みが低く鳴っている。


「仲間が死んだ後、私は一人で五千年を歩いた。文明が生まれ、育ち、滅び、また生まれるのを見た。人間は言葉の力を忘れ、言葉を軽く扱うようになった。嘘が蔓延し、約束が破られ、呪いの言葉が日常に溢れた。声の力がないから、誰も傷つかない。だが誰も、言葉の重さを知らなくなった」


 律がコーヒーカップを置いた。


「五千年間、ずっと一人で」


「一人だ。誰にも正体を明かさなかった。明かしても信じてもらえない。私は各地を歩き、歌い、土地を修復し、また歩いた。人類が言葉の責任を学ぶのを待ちながら」


 詠が東京の夜景を見た。


「SNSを初めて見たとき、悟った。五千年経っても、人間は変わっていない。匿名の声で人を傷つけ、デマで人を殺し、言葉を武器にし続けている。声の力がなくても——人間は言葉で人を壊す生き物だ」


 紬のタブレットを打つ手が止まった。


「それでも私は待った。言葉を正しく使う人間が現れるのを」


 詠が言を見た。


「お前の構文聴覚を感知したのは、二年前だ。東京で、構文を聴ける人間がいる。文法守の末裔が、目覚めた。私はこの街に来た」


 言はメモ帳を見つめていた。何も書けなかった。ブレスレットの革紐を、親指でなぞっていた。


 詠が微笑んだ。五千年分の疲労と、かすかな希望が同居した笑み。


「お前たちと過ごしたこの数ヶ月は、五千年で最も騒がしい時間だった。悪くなかった」


 紬が手話で言った。


 〈孤独は、もう終わり。わたしたちがいるから〉


 詠は答えなかった。窓の外を見ている。東京の夜景が、五千年前の星空の代わりに輝いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ