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言葉は鉛になる ―声が凶器になった世界で、最も危険な声を持つ男―  作者: 景都 (けいと)
裏切りの声

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#25 夜路

 裏切りの傷は、まだ残っていた。


 梶原が去ってから二ヶ月。チームは三人に戻った。詠を含めて四人。仕事は回る。だが分析室の、梶原が使っていたデスクは空のままだった。誰もそこに座ろうとしない。


 ある夜。律が分析室を出るとき、言の横で足を止めた。


「篠宮さん。少し外の空気を吸ったほうがいいですよ。ここ三日、この部屋から出ていないでしょう」


 言はメモ帳に書いた。


『律は?』


「私は報告書が残っています。……音無さんと行ってきてください」


 律の声には銀色の中に微かな温かみがあった。言を送り出すための、精密に計算された提案。律らしかった。


 言は紬を誘って、VMB本部を出た。


* * *


 夜の東京を歩いた。沈黙区域の外。


 春の夜風が肌に冷たい。言はノイズキャンセリングイヤホンを首にかけたまま、電源は入れていない。構文聴覚が街のざわめきを拾っている。居酒屋の喧騒、酔客の笑い声、どこかのアパートから漏れるテレビの音——それぞれに微弱な構文が載っている。


 紬は何も聴こえない。聴こえないまま、隣を歩いている。


 二人は声を出さなかった。筆談すら、しばらく交わさなかった。ただ並んで歩いた。


 構文聴覚が拾う雑踏のざわめきは、紬の隣にいると不思議と穏やかだった。免疫が構文を吸収しているわけではない。ただ——紬の沈黙が、言の耳に安全な静寂を作っている。声を出さなくていい場所。それが、移動する沈黙区域のように言を包んでいた。


 桜並木の下を通り抜けた。花弁が歩道に散っている。紬がしゃがみ、花弁を一枚拾い上げた。言に見せて、微笑んだ。声のない微笑み。


 言の左手が、ブレスレットに触れた。そのとき——紬の指先が、言の手首に触れた。ブレスレットの革紐に添えるように。


 一瞬。


 紬は何事もなかったように手を引き、タブレットを取り出した。


『桜、きれいだね』


 言はメモ帳に書いた。手が——微かに震えていた。ロゴフォビアではない。別の何かだった。


『……ああ。きれいだ』


* * *


 公園のベンチに座った。夜桜が頭上で揺れている。


 紬がタブレットに長い文章を打ち始めた。いつもより時間がかかっている。何度か消して、書き直して。


 画面を差し出した。


『裏切られたのはつらい。でも、わたしたちは言葉の嘘も聞こえなかった。言質化が効かないわたしも、構文聴覚を持つ言さんも、結局同じ。——大事なのは言葉じゃなくて、一緒にいること』


 言は紬の文字を読んだ。


 紬の言う通りだった。構文聴覚で声の色を聴いても、梶原の裏切りは見抜けなかった。梶原は嘘をついていなかったから。妻を救いたいという切実さは本物だった。


 言葉の嘘を聴く能力がある。言質化に免疫がある。だがそのどちらも——信頼を保証する道具にはならない。


 信頼は、能力ではなく、一緒にいることの積み重ねだ。


 律のことも思い出した。律は朝倉との対話で「契約の暴力性」に直面し、自分の武器への信頼が揺らいだ。それでもチームを離れなかった。銀色の構文を毎日展開し、チームの法的基盤を守り続けている。


 詠は——五千年の孤独の中で、信頼できる相手を持たなかった。だから全てを一人で背負い、一人で歌い続けた。今、四人のチームの中で、詠は少しずつ「仲間」という概念を取り戻しつつある。文法書を読む速度が上がっている。お茶の好みを律に覚えてもらった。紬との筆談が増えた。


 ——四人でいれば、見える景色が違う。


 言はメモ帳にペンを走らせた。


『ありがとう。たぶん俺は、お前の前でだけ——いつか声を出せるようになると思う』


 紬はメモを読み、目を丸くした。


 それから——泣きそうな顔で、笑った。


 〈楽しみにしてる〉


 夜桜が風に揺れた。花弁が二人の間に落ちてきた。構文聴覚には何の構文も聴こえない。ただの花弁。ただの風。ただの沈黙。


 それが——言葉のどんな力よりも、温かかった。


* * *


 同じ夜。地球の裏側。


 サハラ砂漠。ギザ飽和域の最深部。朝倉は予定通り、最も脆弱な封印核を選んでいた。


 飽和域の最深部。砂丘の下に広がる古代の空洞。乾いた空気の中に、途方もなく古い構文が漂っている。五千年前の文法守が設置した封印の核——封印核。


 朝倉透は、封印核の前に立っていた。


 碧い瞳が、封印核の光を映した。巨大な構文の塊。金色の光を放ち、低い振動で鳴り続けている。大沈黙の心臓。これが世界中の楔を統制し、全人類の発話に抑制構文を付加し続けている源泉。


 朝倉の唇が動いた。


「見つけた」


 碧い声が、砂漠の空洞に響いた。


「——これを壊せば、全てが始まる」


 朝倉の声が微かに言質化した。碧い光が指先を伝い、封印核の表面に触れた。


 封印核が——震えた。


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