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言葉は鉛になる ―声が凶器になった世界で、最も危険な声を持つ男―  作者: 景都 (けいと)
裏切りの声

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#24 飽和

 世界が、声で壊れ始めていた。


 二〇二八年春。VMB管制室のスクリーンに映る世界地図は、もはや赤い点で埋め尽くされていた。飽和域——百五十箇所を突破。三ヶ月前の九十箇所から、六十箇所以上増えている。加速が止まらない。


 言は管制室の隅でモニターを見ていた。梶原が去ってから二ヶ月。チームの傷は癒えていない。だが世界は待ってくれなかった。


「篠宮さん。ナイロビの映像です」


 管制室のオペレーターがモニターを切り替えた。


 ケニア・ナイロビ近郊。飽和域の中に取り込まれた住宅地の映像。住民の日常会話が言質化し、命令型の構文が建物の壁にひびを入れ、誓約型が通行人を足止めし、呪詛型が子供の体に黒い文様を刻んでいた。


 意図的な攻撃ではない。ただの日常会話が、飽和域の中では全て物質化する。「静かにしなさい」が子供を硬直させ、「もう出ていけ」が夫を家から物理的に弾き出す。


 言質化暴走。大解沈の予行演習のような光景だった。


 構文聴覚が、映像の向こうの残響を拾おうとして——拾えなかった。距離が遠すぎる。だが映像だけで十分だった。あれが世界中で起きる日が来る。


 律が端末を操作しながら言った。


「現地のVMB支部が沈黙区域の仮設を急いでいますが、飽和域の拡大速度に追いつけていません。住民は避難を始めています」


 紬がタブレットに打ち込んだ。


『声を出せない世界。……わたしにとっては普通だけど、あの人たちにとっては地獄だね』


 言はブレスレットに触れた。紬の言葉が、胸に刺さった。


* * *


 藤堂教授がVMBに来た。緊急の報告がある、と。


 会議室で、教授はスクリーンにグラフを映した。大沈黙の劣化曲線——前回の予測から更新されたバージョン。


「飽和域の増加速度が、予測を上回っています。三ヶ月前の計算では大解沈まで五年でしたが——」


 藤堂はグラフの先端を指した。曲線が急激に下降している。


「最悪のシナリオでは、二年以内です」


 会議室が静まった。


 氷見局長が口を開いた。


「……三年、短くなった」


「はい。飽和域が増えるほど、劣化が加速する。正のフィードバックループが発生しています」


 詠が窓際で言った。


「楔が一つ壊れれば、隣の楔に負荷がかかる。ドミノだ。五千年前の設計には冗長性があったが——もう限界が近い」


 言はメモ帳に書いた。


『修復の方法は見つかっていない。二年以内に見つけなければ——大解沈が来る』


 二年。それは「時間がある」ではなく「時間がない」の宣告だった。


 律が手を挙げた。


「封印核の防衛状況は」


 氷見が答えた。


「三箇所の封印核のうち、出雲とチチカカ湖はIVMAとの共同監視下にあります。しかしギザの封印核はサハラ砂漠の奥地にまで飽和域が拡大しており、範囲が広く監視の網が薄い。原声会の動きがある以上、ギザが最も危険です」


 詠が付け加えた。


「サハラの楔は三つの中で最も古い。最も劣化が進んでいる。朝倉が狙うなら、そこだろう」


 言はメモ帳に書いた。


『ギザの封印核を優先的に防衛すべきだ。サハラ方面の監視体制を強化してほしい』


 氷見が頷いた。


「IVMAに要請します。ただし——原声会は各国に支持者を持っています。政治的な妨害が入る可能性も覚悟してください」


* * *


 会議の後。分析室で、言は一人でデスクに向かっていた。


 構文聴覚を開放し、東京の構文残響を聴いている。抑制構文の脈動が、半年前より確実に弱くなっている。街を歩く人々の何気ない発話に含まれる構文の振動が、少しずつ閾値に近づいている。


 詠が分析室に入ってきた。お茶を二つ持っている。一つを言のデスクに置いた。


「深刻な顔だな」


 言はメモ帳に書いた。


『深刻にならない方が難しい』


「五千年前も同じ顔をした男がいた。文法守の長だ。全てを一人で背負おうとして、最初に倒れた」


 詠がお茶を啜った。


「お前は一人じゃない。それだけで、あの男よりましだ」


 あと二年で、全ての声が凶器になる。


 紬が分析室に入ってきた。言の隣に座り、タブレットを差し出した。


『藤堂教授の報告、重かったね』


 言はメモ帳に書いた。


『重い。だが——聴くしかない。構造を理解すれば、道が見えるかもしれない』


 紬はメモを読み、少し考えてから打った。


『言さんは、いつも「聴く」って言うね。わたしは聴こえないから、「見る」しかできない。でも——見えるものもあるよ。言さんには見えないもの』


 言は紬を見た。


『例えば?』


 〈言さんの顔。今、すごく怖い顔してる。でも怖がってるんじゃなくて、怒ってる。世界がこうなっていることに〉


 言の手が止まった。ブレスレットの革紐を、無意識に握っていた。


 ——そうだ。紬の言う通りだ。拳を握りしめていた。爪が掌に食い込んでいた。構文聴覚は他者の声の色を聴くが、自分自身の内側には気づかなかった。


 紬が手話で付け加えた。


 〈怒っていいよ。声に出さなくても、ちゃんと届いてる〉


 言はメモ帳に一行書いた。


『……ありがとう』


 窓の外で、東京の空が曇っていた。構文聴覚の奥で、世界の封印が軋む音が——少しずつ、大きくなっている。


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