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言葉は鉛になる ―声が凶器になった世界で、最も危険な声を持つ男―  作者: 景都 (けいと)
裏切りの声

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23/33

#23 分裂

 朝倉透は、函館の海を見ていた。


 原声会の幹部会議を終え、一人でアパートに戻った夜。テーブルの上には封印核の位置を記した地図が広がっている。


 三つの封印核。出雲、チチカカ湖、ギザ。


 そのうち一つでも破壊すれば、大沈黙は加速度的に崩壊する。五年のタイムリミットが、数ヶ月——あるいは数週間に縮まる。


 朝倉はそれを望んでいた。


* * *


 十七歳の冬を、朝倉は今でも覚えている。


 父が書斎で首を吊っているのを見つけたのは、朝倉だった。


 遺書には一行だけ書いてあった。「正直に生きた。それだけだ」


 葬儀には誰も来なかった。デマが生き残り、父の名誉は死んだまま。半年後に対立候補の汚職が発覚し、父の無実が証明されたとき——マスコミは小さな訂正記事を出しただけだった。


 朝倉は大学で法学を学び、検事になった。嘘を暴く仕事を選んだ。だが法廷には限界があった。証拠が不十分なら嘘つきは無罪になる。巧妙な嘘は法の網を潜り抜ける。


 言質化が始まった年——二〇一七年——朝倉は気づいた。


 言葉が力を持てば、嘘は自動的に罰せられる。嘘型の言質化は話者の体を蝕む。完全な言質化社会では、嘘をつくこと自体が自殺行為になる。


 ——それこそが、正しい世界ではないか。


 朝倉は検察を辞め、原声会を設立した。


* * *


 函館の夜風が窓から入り込んだ。


 朝倉は地図を見つめた。


 封印核の位置情報は、VMBの内部から流れてきた。情報提供者の名前は知っている。梶原という男。動機は家族の治療——嘘型の蓄積で体が蝕まれている妻を、古代の治癒文法で救いたい。


 朝倉は梶原に治癒の約束はしていない。ただ「可能性がある」と伝えた。嘘ではない。可能性は、確かにある。


 ——嘘はついていない。


 碧い瞳が、地図の上を滑った。


 出雲は日本国内でVMBの監視が厳しい。ギザはエジプト政府がIVMAと協力して警備を強化している。


 ギザ。サハラ砂漠の奥地にまで拡大した飽和域。三つの中で最も古く、最も劣化が進んでいる。


 朝倉は立ち上がった。


 壁の家族写真に目をやった。幼い自分。父の笑顔。


「待っていてくれ。もうすぐ——嘘のない世界が来る」


 碧い声が、函館の夜の空気を微かに震わせた。


 朝倉は翌朝の飛行機を予約した。行き先はカイロ。そこから陸路でサハラへ。


 封印核が、待っている。


* * *


 梶原司が自首したのは、情報漏洩の調査が始まって四日目だった。


 VMB本部の聴取室。梶原は椅子に座り、テーブルの上に両手を置いていた。三十代の、真面目そうな顔。目の下に隈がある。


 言と律が向かいに座っていた。紬は隣室のモニター室にいる。


「俺が原声会に情報を流していました」


 梶原の声に、構文聴覚が色を映した。——黒はない。嘘をついていない。


「理由を聞かせてほしい」


 律の声は平坦だった。だが構文聴覚には、銀の奥に微かな揺れが聴こえていた。


「妻が——嘘型の言質化の蓄積で、体が蝕まれています。言質病です。現代の医療では治せない」


 梶原の手が震えた。


「原声会は古代の治癒文法の研究をしていると聞きました。原始文法による祝福型の言質化で、言質病を治せる可能性がある、と。……妻を救うためなら、何でもすると思いました」


 言はメモ帳に書いた。


『治癒の約束は受けたのか』


「いいえ。朝倉さんは『可能性がある』とだけ。約束はしていません」


 嘘ではない。構文聴覚が確認している。梶原は嘘をついていない。朝倉も嘘をついていない。——だが「可能性がある」という言葉で、人の切実な希望を利用した。


 言の喉が締まった。


* * *


 律が「真実の契約」を提案した。


「梶原さん。以後、第零班の情報を外部に漏らさないという誓約型契約を結びます。これにより——」


 律の銀色の構文が展開された。契約の文言が空中に浮かぶ。


 梶原が契約に同意し、律の構文が梶原の胸元に触れた瞬間——梶原の体が激しく痙攣した。


 黒い文様が、梶原の首筋に浮かんだ。


「……っ!」


 梶原が苦痛に顔を歪める。律の契約と、梶原の体に既に刻まれていた別の構文——原声会側からの拘束——が衝突したのだ。「情報を止めるな」という呪詛型の拘束が、梶原を縛っていた。


 律の手が止まった。自分の契約が、梶原に苦痛を与えている。


 ——言葉で人を縛ることは。


 律の瞳が揺れた。父の顔が脳裏をよぎった。正論で人を追い詰める弁護士。言葉の暴力。


「篠宮さん——」


 言は既に動いていた。構文聴覚で梶原の体の二重拘束を聴き取り、原声会側の呪詛型拘束の構造を分析する。


「——呪詛型。対象拘束の構文。接合部に意志の強制がある。本人の同意なく刻まれた拘束だ」


 声が琥珀に光った。


「強制意志を以て、拘束構文を解除する」


 原声会の呪詛がほどけた。黒い文様が光の粒子に分解され、梶原の首筋から消えていく。


 梶原が大きく息を吐いた。痛みが消えている。


 律の契約構文は——律自身が取り消していた。銀色の光が消え、契約は不成立。


 律の手が震えていた。


* * *


 梶原はVMBを去ることになった。


 聴取室を出る前に、梶原は振り返った。


「篠宮さん。氷室さん。……一つだけ」


 言と律が梶原を見た。


「朝倉さんの言うことは——間違ってない部分もあると、今でも思います」


 ドアが閉まった。


 律がコーヒーカップを握ったまま、しばらく動かなかった。


「……契約で人を縛ることが、正しいのか。父と同じことを、私はしようとした」


 言はメモ帳に書いた。


『違う。律は途中で止めた。それが——律と、律の父親の違いだ』


 律は眼鏡を外し、目を閉じた。


 紬がモニター室から出てきた。何も言わず——何も打たず——律の隣に座った。


 三人の間に、沈黙が流れた。


 言はブレスレットに触れた。梶原の「間違ってない部分もある」という言葉が、頭の中で鳴り続けていた。


 朝倉は嘘をつかない。梶原は妻を救いたかった。律は言葉の暴力を恐れている。


 ——全員が、正しい。全員が、間違っている。


 答えはまだ見えなかった。だが問いは、確実に深くなっていた。


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