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言葉は鉛になる ―声が凶器になった世界で、最も危険な声を持つ男―  作者: 景都 (けいと)
大沈黙の記録

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16/30

#16 残日

 文法守の末裔。


 その言葉が、頭の中で鳴り続けていた。


 出雲から戻って一週間。言は自宅のアパートで、夜ごと天井を見上げている。防音材に囲まれた部屋。ノイズキャンセリングイヤホン。構文聴覚を遮断しても、自分の中の問いは消えない。


 五千年前、文法守たちは世界を救うために声を封じた。その血が、自分に流れている。だから構文聴覚がある。だから自分の言葉が異常に強く物質化する。


 ——だから母を三年間沈黙させた。


 ブレスレットを握った。革紐が掌に食い込む。


 文法守の力は、呪いなのか。才能なのか。


 メモ帳にペンを走らせた。何も書けなかった。


* * *


 翌日。VMB本部の屋上で、紬が言の隣に座った。


 タブレットを差し出した。


『最近、顔色が悪い。眠れてる?』


 言はメモ帳に書いた。


『大丈夫』


 紬は首を横に振った。


『嘘。目の下に隈がある。「大丈夫」って書くときの筆圧が強い。それは言さんが大丈夫じゃないときの癖』


 言はペンを止めた。


 ——筆圧の癖まで読まれている。


 紬が続けて打ち込んだ。


『文法守の末裔って聞いて、重いでしょ。わたしは少し分かる。言質化に免疫があるって知ったとき、「普通じゃない」って感じた。嬉しいとか悲しいとかじゃなくて、ただ——重かった』


 言は紬の顔を見た。紬は微笑んでいた。声のない微笑み。


『でも、重いものは一人で持たなくていいから』


 言はしばらくメモ帳を見つめ、一行書いた。


『……ありがとう』


 紬が手話で返した。


 〈どういたしまして〉


 屋上の風が、二人の髪を揺らした。


* * *


 同じ頃。分析室で律がコーヒーを淹れながら、詠と話していた。


「法的な観点から一つ、訊きたいことがあります」


 詠はお茶を啜っている。


「大沈黙は、全人類の言語能力を制限する措置です。人類の同意なく実行された。——これは、人権侵害に当たりますか」


 詠が律を見た。飄々とした表情が消え、真剣な目になった。


「その問いを発した者は、お前が初めてだ」


「答えてください」


「……人権という概念が五千年前にあったかは分からない。だが——人類の意志に関わらず、言葉の力を奪った。それは事実だ」


 律は眼鏡を外し、拭いた。


「大沈黙を修復するということは、人類に『本来の力』を返すということです。それが正しいのか。あるいは——大解沈を防ぐために大沈黙を強化するということは、再び人類の意志に関わらず力を奪うということです。それが正しいのか」


 詠は答えなかった。


「五千年間、私はその問いに答えを出せていない」


 律はコーヒーカップを置いた。


「答えが出ないまま五年を迎える可能性もある、ということですね」


 詠は微笑んだ。だが目は笑っていなかった。


* * *


 紬にも、不安はあった。


 大沈黙が解ければ、全ての言葉が物質化する。紬の免疫は言質化に対するものだ。大沈黙が完全に崩壊した世界で——免疫は、維持されるのか。


 それは紬にとって、アイデンティティに関わる問いだった。


* * *


 VMB本部の医務室。紬は定期検査を受けていた。


 言質化免疫の数値測定。VMBの研究部が開発した検査プロトコルで、半年に一度実施される。耳鼻科の検査に似た装置の前に座り、構文を含む音声を段階的に浴びせられる。紬には何も聴こえない。何も感じない。いつも通り。


 だが今回——検査技師の表情が、ほんの一瞬曇った。


 紬はそれを見逃さなかった。タブレットに打ち込んだ。


『何かあった?』


 検査技師は首を振った。


「いえ、数値は正常範囲内です。前回と変化ありません」


 紬は頷いて医務室を出た。


 廊下で立ち止まった。


 数値は正常。免疫は維持されている。今は。


 だが——大沈黙が完全に崩壊したとき、この免疫はどうなるのか。それは検査では分からない。


 紬は自分の手を見つめた。声のない世界で生きてきた手。手話を紡ぎ、タブレットを打ち、患者の手を握ってきた手。


 もし免疫が消えたら。


 もし声が——聴こえるようになったら。


 嬉しいのか。怖いのか。分からなかった。


* * *


 紬は検査結果を誰にも話さなかった。


 その日の夕方、分析室で言と並んで作業しているとき、言がメモ帳を差し出した。


『最近、何か気になることはないか』


 紬は少し迷ってから、タブレットに打った。


『ない。大丈夫』


 言はメモを読み、紬の目を見た。


 しばらく見つめてから、視線を戻した。何も言わなかった。何も書かなかった。


 ——言さんは気づいている、と紬は思った。筆圧の癖を読む人が、こちらの嘘に気づかないはずがない。


 だが言は追及しなかった。それが言の優しさだと、紬は知っていた。


 窓の外で、東京の夕暮れがビル群を赤く染めている。


 紬はブレスレットに触れている言の左手を、少しだけ長く見つめた。


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