#16 残日
文法守の末裔。
その言葉が、頭の中で鳴り続けていた。
出雲から戻って一週間。言は自宅のアパートで、夜ごと天井を見上げている。防音材に囲まれた部屋。ノイズキャンセリングイヤホン。構文聴覚を遮断しても、自分の中の問いは消えない。
五千年前、文法守たちは世界を救うために声を封じた。その血が、自分に流れている。だから構文聴覚がある。だから自分の言葉が異常に強く物質化する。
——だから母を三年間沈黙させた。
ブレスレットを握った。革紐が掌に食い込む。
文法守の力は、呪いなのか。才能なのか。
メモ帳にペンを走らせた。何も書けなかった。
* * *
翌日。VMB本部の屋上で、紬が言の隣に座った。
タブレットを差し出した。
『最近、顔色が悪い。眠れてる?』
言はメモ帳に書いた。
『大丈夫』
紬は首を横に振った。
『嘘。目の下に隈がある。「大丈夫」って書くときの筆圧が強い。それは言さんが大丈夫じゃないときの癖』
言はペンを止めた。
——筆圧の癖まで読まれている。
紬が続けて打ち込んだ。
『文法守の末裔って聞いて、重いでしょ。わたしは少し分かる。言質化に免疫があるって知ったとき、「普通じゃない」って感じた。嬉しいとか悲しいとかじゃなくて、ただ——重かった』
言は紬の顔を見た。紬は微笑んでいた。声のない微笑み。
『でも、重いものは一人で持たなくていいから』
言はしばらくメモ帳を見つめ、一行書いた。
『……ありがとう』
紬が手話で返した。
〈どういたしまして〉
屋上の風が、二人の髪を揺らした。
* * *
同じ頃。分析室で律がコーヒーを淹れながら、詠と話していた。
「法的な観点から一つ、訊きたいことがあります」
詠はお茶を啜っている。
「大沈黙は、全人類の言語能力を制限する措置です。人類の同意なく実行された。——これは、人権侵害に当たりますか」
詠が律を見た。飄々とした表情が消え、真剣な目になった。
「その問いを発した者は、お前が初めてだ」
「答えてください」
「……人権という概念が五千年前にあったかは分からない。だが——人類の意志に関わらず、言葉の力を奪った。それは事実だ」
律は眼鏡を外し、拭いた。
「大沈黙を修復するということは、人類に『本来の力』を返すということです。それが正しいのか。あるいは——大解沈を防ぐために大沈黙を強化するということは、再び人類の意志に関わらず力を奪うということです。それが正しいのか」
詠は答えなかった。
「五千年間、私はその問いに答えを出せていない」
律はコーヒーカップを置いた。
「答えが出ないまま五年を迎える可能性もある、ということですね」
詠は微笑んだ。だが目は笑っていなかった。
* * *
紬にも、不安はあった。
大沈黙が解ければ、全ての言葉が物質化する。紬の免疫は言質化に対するものだ。大沈黙が完全に崩壊した世界で——免疫は、維持されるのか。
それは紬にとって、アイデンティティに関わる問いだった。
* * *
VMB本部の医務室。紬は定期検査を受けていた。
言質化免疫の数値測定。VMBの研究部が開発した検査プロトコルで、半年に一度実施される。耳鼻科の検査に似た装置の前に座り、構文を含む音声を段階的に浴びせられる。紬には何も聴こえない。何も感じない。いつも通り。
だが今回——検査技師の表情が、ほんの一瞬曇った。
紬はそれを見逃さなかった。タブレットに打ち込んだ。
『何かあった?』
検査技師は首を振った。
「いえ、数値は正常範囲内です。前回と変化ありません」
紬は頷いて医務室を出た。
廊下で立ち止まった。
数値は正常。免疫は維持されている。今は。
だが——大沈黙が完全に崩壊したとき、この免疫はどうなるのか。それは検査では分からない。
紬は自分の手を見つめた。声のない世界で生きてきた手。手話を紡ぎ、タブレットを打ち、患者の手を握ってきた手。
もし免疫が消えたら。
もし声が——聴こえるようになったら。
嬉しいのか。怖いのか。分からなかった。
* * *
紬は検査結果を誰にも話さなかった。
その日の夕方、分析室で言と並んで作業しているとき、言がメモ帳を差し出した。
『最近、何か気になることはないか』
紬は少し迷ってから、タブレットに打った。
『ない。大丈夫』
言はメモを読み、紬の目を見た。
しばらく見つめてから、視線を戻した。何も言わなかった。何も書かなかった。
——言さんは気づいている、と紬は思った。筆圧の癖を読む人が、こちらの嘘に気づかないはずがない。
だが言は追及しなかった。それが言の優しさだと、紬は知っていた。
窓の外で、東京の夕暮れがビル群を赤く染めている。
紬はブレスレットに触れている言の左手を、少しだけ長く見つめた。




