#15 重圧
石室の壁面に、名前が刻まれていた。
大沈黙を実行した文法守のメンバー。十三名の名前が原始文法で列記されている。藤堂教授が一つずつ音読みに変換していく。
「第一席、タルシュ。第二席、エンメ。第三席——」
藤堂の指が止まった。
「……第三席。この発音は——」
言の構文聴覚が、石に刻まれた名前の振動を拾った。
——詠。
第三席の名前は、現代日本語の発音に変換すると「詠」と同一だった。
* * *
地上に戻った。林の中に設営されたVMBの仮設テントで、言は詠の前に立った。紬と律が横にいる。
メモ帳に一行書いた。飽和域内なので声は出せない。
『石室に、文法守のメンバーリストがあった。第三席——あなたの名前がある』
詠はメモを読み、目を閉じた。
長い沈黙。テントの外で風が木々を揺らす音だけが聞こえた。
詠が目を開いた。
端末に文字を打ち込んだ——飽和域内だから、詠も声を使わない。
『そうだ。私は文法守の一人だった。第三席、詠。歌を司る者。大沈黙を実行した十三人のうちの一人だ』
紬がタブレットに打った。
『五千年前の……本当に?』
『本当だ。仲間たちは封印の代償として声を失い、やがて死んでいった。私だけが——歌の力で肉体を維持し続けて、今日まで生きている』
律が端末に打った。
『なぜ今まで黙っていたのですか』
『信じてもらえると思えなかった。それに——全てを話すには、まだ準備ができていなかった。私自身の』
言はペンを止めた。詠の打った文字を見つめている。
詠が続けた。
『もう一つ、伝えなければならないことがある』
詠の指が端末を叩く。
『言。お前の構文聴覚。それは偶然ではない。お前の血に——文法守の血が混じっている』
言の手が止まった。ブレスレットを掴んだ。
『文法守は十三人だけの集団ではなかった。その家族、弟子、子孫がいた。大沈黙の後、彼らは世界に散った。数千年の間に血は薄まったが、稀に——極めて稀に——文法守の能力を受け継ぐ者が生まれる。構文を聴く力。お前は——文法守の末裔だ』
言は文字を読み返した。三度読んだ。
——末裔。
文法守の。
母の顔が浮かんだ。ブレスレットの革紐。「おかえり」の声。
構文聴覚が自分に宿っている理由が、初めて分かった。偶然ではなかった。血だ。五千年前から受け継がれてきた、声を聴く血。
メモ帳にペンを走らせた。手が震えていた。
『それは——母方からですか』
詠が頷いた。
『文法守の血筋は母系で継承される。お前の母の家系を辿れば、文法守の末裔に行き着くはずだ。母親自身に能力はなくとも、血はつながっている』
母の手編みのブレスレットを、言は強く握った。
出雲の風が、テントの幕を揺らしていた。
* * *
東京に戻った翌日。藤堂教授がVMB本部に呼ばれた。
会議室には氷見局長、言チームの四人、そして藤堂教授。計六人。VMBの他の職員は入室を許可されていない。国家安全保障レベルの機密として扱われることが、既に決まっていた。
藤堂がスクリーンにグラフを映した。
「出雲の石室から得たデータと、世界各地の飽和域の拡大速度を照合しました。大沈黙の抑制構文の劣化速度を数値化した結果です」
横軸が年。縦軸が抑制強度。右肩下がりの曲線が、ゼロに向かって落ちていく。
「現在の劣化速度が維持された場合——抑制構文が完全に機能を失うまで、約五年です」
会議室が静まった。
「五年後、全人類の全ての発話が言質化します。我々はこの状態を——大解沈と呼んでいます」
律が口を開いた。
「全発話が言質化する世界……怒りの一言が人を傷つけ、嘘をついた者の体が崩壊する。日常会話すら武器になる」
「そうです。大解沈が到来すれば、現代社会の維持は不可能です」
氷見局長が腕を組んだ。
「五年」
低い声だった。
「大沈黙を修復する方法は」
藤堂が首を振った。
「不明です。大沈黙は五千年前の文法守が実行した技術です。現代の人間には再現できない——少なくとも現時点では」
氷見が詠を見た。
「詠さん。あなたは大沈黙を実行した文法守の一人だと聞きました。修復は可能ですか」
詠は窓の外を見ていた。しばらくの沈黙の後、答えた。
「大沈黙は十三人で実行した。十二人は死んだ。私一人では——同じことはできない」
* * *
会議の後。氷見局長が言チームに正式な辞令を出した。
「本日付で、篠宮言、音無紬、氷室律、及び協力者・詠の四名を、VMB特別対策班——通称『第零班』として編成する。任務は大沈黙の調査、および大解沈への対策の研究」
律が辞令書を受け取った。紬が小さく頷いた。詠は窓際に立ったままだった。
言はメモ帳に一行書いた。
『了解しました』
氷見が言を見た。
「篠宮さん。あなたは文法守の末裔であり、構文聴覚の持ち主です。大沈黙を理解できる可能性があるのは、世界であなただけかもしれない」
言は何も書かなかった。ブレスレットに指先が触れた。
五年。
五年で世界が変わる。それを止められるかもしれない人間が、自分の声を最も恐れている。
——それでも。
聴くしかない。全てを聴いて、理解するしかない。
それが、文法守の末裔にできることだ。




