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言葉は鉛になる ―声が凶器になった世界で、最も危険な声を持つ男―  作者: 景都 (けいと)
歌う怪物

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11/29

#11 刻言

 藤堂恵一教授は、言の大学時代の恩師だった。


 東京大学言語学研究室。沈黙区域に指定されたキャンパスの一角で、白髪の教授はデスクに積まれた資料の山に埋もれていた。


「篠宮くん。君の仮説を聞いたとき、最初は正直、荒唐無稽だと思った」


 藤堂はコーヒーカップを置いた。


「だが調べれば調べるほど、否定できなくなった」


 教授がスクリーンに資料を映した。世界各地の古代文献から抽出したデータ。


「ヴェーダの聖音オーム——音そのものに創造力があるという思想。これは哲学ではなく、物理現象の記述だった可能性がある」


 次のスライド。


「古事記の言霊信仰。『言霊の幸はふ国』——言葉の霊力が国を守るという表現。比喩として読まれてきたが、言質化を前提とすれば、そのまま事実の記録として読める」


 次のスライド。


「旧約聖書。『はじめに言葉ありき』。神が言葉で世界を創造した——言質化の歌唱型に、これほど正確な描写はない」


 藤堂は言を見た。


「篠宮くん。世界中の古代文献に、言質化を前提とした記述が残っている。これらが全て『比喩』だったとする方が、今では不自然だ」


 言はメモ帳に書いた。


『つまり、古代人は言質化を知っていた。経験していた』


「そう。そして——ある時点で、それが消えた。消えたから、後世の人間はこれらの記述を『比喩』として読むようになった」


 抑制構文の付加。それが、「消えた」時点だ。


* * *


 研究室を出ると、紬が廊下で待っていた。


 タブレットを差し出した。


『ニュース見た?』


 画面に、速報が表示されていた。


「ブラジル・サンパウロ近郊に新たな飽和域が出現。半径1.2km。南米の都市近郊では初の事例」


 飽和域——日常会話レベルでも言質化が発生する区域。世界中で拡大し続けている。先月は八十三箇所だった飽和域が、今月は八十八箇所に増えていた。


 〈増えてる。加速してる〉


 言は頷いた。


 抑制構文の劣化が進んでいる。十年前に始まった言質化は、年々強くなっている。飽和域の拡大は、その最も分かりやすい指標だった。


 ——このまま劣化が進めば、どうなる。


 全ての言葉が言質化する世界。何気ない一言が人を傷つけ、怒りの叫びが建物を壊し、嘘をついた者が内側から崩壊する。


 ブレスレットに触れた。


 メモ帳に一行書いた。


『飽和域の拡大速度を、抑制構文の劣化速度と照合する必要がある。タイムリミットを算出したい』


 紬がメモを読み、表情を曇らせた。


 〈……タイムリミット〉


 言は窓の外を見た。東京の空は晴れている。だが構文聴覚には、空の向こうで何かが——世界規模の何かが、ゆっくりと崩れ始めている音が聴こえていた。


* * *


 詠が消えた。


 朝、分析室に出勤すると、詠の席が空だった。VMBの監視要員が蒼白な顔で報告した。


「深夜二時頃、監視カメラの映像が二十秒間途切れ、その間に保護室から姿を消しました。ドアの開閉記録はありません」


 律が端末を操作し、詠の行動予測を始めた。紬は既に外に出ている。


 言は窓際の詠の席を見つめた。デスクの上に、読みかけの文法書が伏せたまま置いてある。


 ——戻ってくるつもりだ。


 本を置いていった。だから戻る。


 メモ帳に一行書いた。


『探す。俺の構文聴覚で追える』


* * *


 杉並区の住宅街。言の自宅からさほど遠くない場所に、詠はいた。


 小さな公園。遊具が錆びつき、砂場の砂は減り、ベンチの板が折れている。管理が行き届かなくなった、寂れた公園。


 詠が歌っていた。


 言はイヤホンを外さず、公園の入口から見ていた。構文聴覚が虹色の構文を拾う。


 歌が広がるにつれて、公園が変わっていった。


 錆びたブランコが輝きを取り戻す。砂場に白い砂が満ちる。折れたベンチの板が軋みながら接合し、元の形に戻る。地面の亀裂が塞がり、枯れた植え込みから緑が萌え出す。


 美しかった。


 虹色の光が公園全体を包み、朝の光の中で宝石のように輝いている。子供が一人、通りかかって目を丸くした。


 歌が止まった。


 詠が公園のベンチに腰を下ろした。修復したばかりのベンチ。


 言が近づいた。


「……なぜ逃げた」


 声を出した。喉が締まったが、出した。


 詠は空を見上げていた。


「逃げたのではない。歌いたかっただけだ。あの箱の中では歌えないからね」


 言はベンチの反対側に座った。


 沈黙が流れた。


 五分ほど経った頃、言は気づいた。


 公園の変化が——薄れ始めている。


 ブランコの表面に、再び錆が浮いてきた。砂場の砂が、端から消えていく。植え込みの緑が、ゆっくりと褪せていく。


 歌が止まれば、効果は消える。


 詠は穏やかな顔でそれを見ていた。


「言葉で作ったものは、言葉が消えれば消える」


 錆びたブランコが、元の姿に戻っていく。


「本当に美しいものは、声なしでも残るものだけだ」


 詠が言のほうを見た。


「お前の隣にいるあの娘——声のない娘。あの娘の手話は、歌が止まっても消えない。あれが本物だ」


 言は何も言えなかった。ブレスレットに指先が触れた。


* * *


 公園を出て、VMBに戻る道すがら。詠が数歩先を歩いている。


 言は詠の背中を見ていた。


 そのとき——一瞬だけ、見えた。


 詠の横顔が、別人のものになった。皺だらけの、枯れ木のような老人の顔。銀髪ではなく白髪。指先は骨と皮だけ。


 一瞬。まばたきほどの時間で、詠は元の姿に戻った。若々しい肌、銀の髪、透き通る瞳。


 言は足を止めなかった。見なかったふりをした。


 だが構文聴覚がざわめいていた。詠の体の奥で、何かが——歌の構文の残滓が——肉体を「維持」するように脈動している音が聴こえた。


 歌で、自分の体を修復し続けている。


 言葉で作ったものは、言葉が消えれば消える。


 ——詠の「若さ」もまた、歌で作られたものなのか。


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