#11 刻言
藤堂恵一教授は、言の大学時代の恩師だった。
東京大学言語学研究室。沈黙区域に指定されたキャンパスの一角で、白髪の教授はデスクに積まれた資料の山に埋もれていた。
「篠宮くん。君の仮説を聞いたとき、最初は正直、荒唐無稽だと思った」
藤堂はコーヒーカップを置いた。
「だが調べれば調べるほど、否定できなくなった」
教授がスクリーンに資料を映した。世界各地の古代文献から抽出したデータ。
「ヴェーダの聖音オーム——音そのものに創造力があるという思想。これは哲学ではなく、物理現象の記述だった可能性がある」
次のスライド。
「古事記の言霊信仰。『言霊の幸はふ国』——言葉の霊力が国を守るという表現。比喩として読まれてきたが、言質化を前提とすれば、そのまま事実の記録として読める」
次のスライド。
「旧約聖書。『はじめに言葉ありき』。神が言葉で世界を創造した——言質化の歌唱型に、これほど正確な描写はない」
藤堂は言を見た。
「篠宮くん。世界中の古代文献に、言質化を前提とした記述が残っている。これらが全て『比喩』だったとする方が、今では不自然だ」
言はメモ帳に書いた。
『つまり、古代人は言質化を知っていた。経験していた』
「そう。そして——ある時点で、それが消えた。消えたから、後世の人間はこれらの記述を『比喩』として読むようになった」
抑制構文の付加。それが、「消えた」時点だ。
* * *
研究室を出ると、紬が廊下で待っていた。
タブレットを差し出した。
『ニュース見た?』
画面に、速報が表示されていた。
「ブラジル・サンパウロ近郊に新たな飽和域が出現。半径1.2km。南米の都市近郊では初の事例」
飽和域——日常会話レベルでも言質化が発生する区域。世界中で拡大し続けている。先月は八十三箇所だった飽和域が、今月は八十八箇所に増えていた。
〈増えてる。加速してる〉
言は頷いた。
抑制構文の劣化が進んでいる。十年前に始まった言質化は、年々強くなっている。飽和域の拡大は、その最も分かりやすい指標だった。
——このまま劣化が進めば、どうなる。
全ての言葉が言質化する世界。何気ない一言が人を傷つけ、怒りの叫びが建物を壊し、嘘をついた者が内側から崩壊する。
ブレスレットに触れた。
メモ帳に一行書いた。
『飽和域の拡大速度を、抑制構文の劣化速度と照合する必要がある。タイムリミットを算出したい』
紬がメモを読み、表情を曇らせた。
〈……タイムリミット〉
言は窓の外を見た。東京の空は晴れている。だが構文聴覚には、空の向こうで何かが——世界規模の何かが、ゆっくりと崩れ始めている音が聴こえていた。
* * *
詠が消えた。
朝、分析室に出勤すると、詠の席が空だった。VMBの監視要員が蒼白な顔で報告した。
「深夜二時頃、監視カメラの映像が二十秒間途切れ、その間に保護室から姿を消しました。ドアの開閉記録はありません」
律が端末を操作し、詠の行動予測を始めた。紬は既に外に出ている。
言は窓際の詠の席を見つめた。デスクの上に、読みかけの文法書が伏せたまま置いてある。
——戻ってくるつもりだ。
本を置いていった。だから戻る。
メモ帳に一行書いた。
『探す。俺の構文聴覚で追える』
* * *
杉並区の住宅街。言の自宅からさほど遠くない場所に、詠はいた。
小さな公園。遊具が錆びつき、砂場の砂は減り、ベンチの板が折れている。管理が行き届かなくなった、寂れた公園。
詠が歌っていた。
言はイヤホンを外さず、公園の入口から見ていた。構文聴覚が虹色の構文を拾う。
歌が広がるにつれて、公園が変わっていった。
錆びたブランコが輝きを取り戻す。砂場に白い砂が満ちる。折れたベンチの板が軋みながら接合し、元の形に戻る。地面の亀裂が塞がり、枯れた植え込みから緑が萌え出す。
美しかった。
虹色の光が公園全体を包み、朝の光の中で宝石のように輝いている。子供が一人、通りかかって目を丸くした。
歌が止まった。
詠が公園のベンチに腰を下ろした。修復したばかりのベンチ。
言が近づいた。
「……なぜ逃げた」
声を出した。喉が締まったが、出した。
詠は空を見上げていた。
「逃げたのではない。歌いたかっただけだ。あの箱の中では歌えないからね」
言はベンチの反対側に座った。
沈黙が流れた。
五分ほど経った頃、言は気づいた。
公園の変化が——薄れ始めている。
ブランコの表面に、再び錆が浮いてきた。砂場の砂が、端から消えていく。植え込みの緑が、ゆっくりと褪せていく。
歌が止まれば、効果は消える。
詠は穏やかな顔でそれを見ていた。
「言葉で作ったものは、言葉が消えれば消える」
錆びたブランコが、元の姿に戻っていく。
「本当に美しいものは、声なしでも残るものだけだ」
詠が言のほうを見た。
「お前の隣にいるあの娘——声のない娘。あの娘の手話は、歌が止まっても消えない。あれが本物だ」
言は何も言えなかった。ブレスレットに指先が触れた。
* * *
公園を出て、VMBに戻る道すがら。詠が数歩先を歩いている。
言は詠の背中を見ていた。
そのとき——一瞬だけ、見えた。
詠の横顔が、別人のものになった。皺だらけの、枯れ木のような老人の顔。銀髪ではなく白髪。指先は骨と皮だけ。
一瞬。まばたきほどの時間で、詠は元の姿に戻った。若々しい肌、銀の髪、透き通る瞳。
言は足を止めなかった。見なかったふりをした。
だが構文聴覚がざわめいていた。詠の体の奥で、何かが——歌の構文の残滓が——肉体を「維持」するように脈動している音が聴こえた。
歌で、自分の体を修復し続けている。
言葉で作ったものは、言葉が消えれば消える。
——詠の「若さ」もまた、歌で作られたものなのか。




