後日談(勇者パーティ視点)
地下深くにある『ドルグ魔鉱山』。そこは、陽の光が決して届かない、絶望と瘴気が吹き溜まる場所だ。
ツルハシが岩を叩く乾いた音が、終わりのないリズムのように坑道に響き渡っている。ここにあるのは、肌を刺すような硫黄の臭いと、重労働に喘ぐ男たちの荒い呼吸、そして時折聞こえる監視官の怒号だけだ。
「おい、そこの108番! 手が止まってるぞ! 今日中にノルマを達成できなきゃ、晩飯抜きだ!」
鞭が空を切り、ピシャリと地面を叩く音が響く。
ビクリと肩を震わせて顔を上げたのは、かつて『光の勇者』と持て囃された男、グレインだった。
だが、今の彼にその面影はない。輝く金髪は泥と埃にまみれて灰色にくすみ、脂ぎってぺたりと額に張り付いている。頬はこけ、目の下には濃いクマができ、かつて王都の女性たちを虜にした端正な顔立ちは、過酷な労働と栄養失調で見る影もなく憔悴していた。
「くっ……わかってるよ、今やる……」
グレインは掠れた声で答え、震える手で重いツルハシを握り直した。
以前なら、こんな鉄の棒など小枝のように軽く感じたはずだ。だが今は、鉛のように重い。一振りするたびに、錆びついた関節が悲鳴を上げ、手のひらの豆が潰れて血が滲む。
「クソッ……なんで俺が、こんな……」
ガツッ。ガツッ。
岩肌を叩くたびに、衝撃が肩に走り、全身の筋肉が軋む。
魔鉱石の採掘は、ただの肉体労働ではない。この鉱石は周囲の魔力を吸収する性質があり、触れているだけで体内のマナを根こそぎ奪っていくのだ。魔力枯渇による吐き気と目眩が、常に彼らを襲っている。
「痛い……もう無理……指が……」
すぐ隣で、啜り泣くような声が聞こえた。
見ると、そこには薄汚れたボロ布をまとった小柄な女がうずくまっていた。かつて『美少女魔導師』として名を馳せたリーネだ。
自慢だった栗色の巻き髪は、手入れもされずに鳥の巣のように絡まり、シラミが湧いている。白磁のように滑らかだった肌はひび割れ、泥汚れで黒ずんでいる。
彼女は杖ではなくツルハシを握らされているが、その細腕では岩を砕くことなど到底できない。ただ岩に傷をつける程度の力しかなく、爪は割れ、指先は血だらけだった。
「なんで私がこんなことしなきゃいけないのよぉ……。私、魔法使いなのよ? 手荒れなんて絶対ダメなのに……ハンドクリームもないなんて信じられない……」
彼女はうわ言のように呟きながら、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を袖で拭った。その袖もまた汚れており、汚れを広げているだけだったが。
「弱音を吐くな、リーネ。……監視官に見つかったら、また水責めだぞ」
低い声で注意したのは、巨漢のボルグだ。
かつて鉄壁の戦士と呼ばれた彼だが、今の姿はあまりにも痛々しい。
四十階層でゴーレムに折られた左腕は、まともな治療を受けられないまま放置され、変な方向に曲がったまま骨が固まってしまっている。
彼は片腕だけでツルハシを振るっていたが、かつての爆発的な筋力は失われていた。筋肉は落ち、代わりに皮膚がたるみ、目は虚ろだ。
「なぁ、グレイン……。俺たち、いつまでここにいなきゃならねぇんだ?」
ボルグが、息を切らしながら問いかける。
その質問は、ここに来てからもう何百回も繰り返されたものだ。
「……借金を、返済するまでだ」
グレインは機械的に答えた。
だが、その言葉には何の意味もないことを、彼自身が一番よくわかっていた。
俺たちの借金は三千万ゴルド。さらに、違約金の利子は法外な高利で設定されており、ここでどれだけ働いても、一日数千ゴルドにしかならない。
つまり、返済など不可能なのだ。俺たちはここで死ぬまで、この魔鉱石を掘り続けるしかない。
「ふざけんなよ……。俺は勇者だぞ? 世界を救うために選ばれた男だぞ? なんでこんな薄汚い穴蔵で、モグラみたいな生活しなきゃならねぇんだ!」
グレインは激情に任せてツルハシを叩きつけた。
だが、岩は欠片も砕けず、逆に衝撃でツルハシの柄が折れた。
「あっ……」
乾いた音が響き、グレインは折れた柄を見つめて呆然とした。
それは、かつて『聖剣』が折れた時の光景と重なった。
「おい108番! 商売道具を壊したな!?」
監視官の男が、鬼のような形相で歩み寄ってくる。
「ち、違うんです! こいつが脆かっただけで、俺は普通に……!」
「言い訳すんじゃねぇ! 道具を大事にできねぇ奴はクズだ! 罰として今日の飯は抜きだ! それと、修理代として借金に追加しておいてやる!」
「そ、そんな! 飯抜きなんて殺す気か! 昨日だってカビたパン一個しか食ってないんだぞ!」
「うるせぇ! 働かざる者食うべからずだ!」
ドスッ!
監視官のブーツが、グレインの腹部に深々と突き刺さる。
「がはっ……!?」
グレインは無様に地面を転がり、胃液を吐き出した。
以前なら、こんな蹴りなど蚊に刺された程度にも感じなかっただろう。俺が身につけていた鎧には、アルドが『衝撃吸収』と『自動治癒』の加護を付与していたからだ。
だが今は、生身の肉体にダイレクトに痛みが響く。
「ひぃっ、ご、ごめんなさい……許して……」
グレインは泥水をすすりながら、監視官の足元にすがりついた。
勇者のプライド? そんなものは、ここに来て三日で消え失せた。今はただ、痛みを避けたい、少しでも楽をしたいという、動物的な本能しか残っていない。
「はんっ、情けねぇ元勇者様だ。ほら、代わりのツルハシだ。さっさと働け」
投げつけられた古いツルハシを、グレインは這いつくばって拾い上げた。
その惨めな姿を、他の囚人たちが冷ややかな目で見ている。
「見ろよ、あれが『光の剣』の成れの果てだぜ」
「仲間を捨てた報いだな」
「ざまぁみろってんだ」
ひそひそ話が耳に届く。
ここの囚人の多くは、元犯罪者や借金苦の冒険者だ。かつて栄光の頂点にいたグレインたちは、彼らにとって格好の嘲笑の的であり、鬱憤晴らしのサンドバッグだった。
作業は深夜まで続いた。
就寝の合図である鐘が鳴り、俺たちは重い足を引きずって牢屋へと戻った。
湿った藁が敷かれただけの冷たい床。壁からは水が染み出し、ネズミが走り回っている。ここが俺たちの「家」だ。
「腹減ったなぁ……」
ボルグが力なく呟き、壁に背を預ける。
結局、グレインだけでなく、連帯責任として三人全員が夕食抜きにされた。空腹で胃がねじ切れそうだ。
「ねぇ、グレイン。私、思い出したんだけど……」
リーネが虚ろな目で天井を見上げながら口を開いた。
「アルドがいた頃は、こんなことなかったわよね」
その名前が出た瞬間、牢屋の空気が凍りついた。
禁句だった。ここに来てから、誰もその名だけは口にしないようにしていた。それを認めてしまえば、自分たちの愚かさに押しつぶされてしまうからだ。
だが、極限状態の今、その封印は脆くも崩れ去った。
「……ああ。そうだな」
ボルグがポツリと漏らす。
「あいつが作るシチュー、美味かったよなぁ。ダンジョンの野営でも、あいつがいれば温かい飯が食えた。硬い黒パンだって、あいつが魔法でふっくらと焼いてくれた」
「ベッドだってそうよ。あいつが整えてくれた寝袋は、高級宿みたいにフカフカだった。どんな岩場でも、あいつがいるだけで快適だった……」
リーネの目から涙が溢れ出す。
「私の肌、あいつが作った美容クリームのおかげでツルツルだったの。髪だって、あいつが毎晩梳かして、トリートメントしてくれたから……。私、あいつのこと、ただの便利な召使いだと思ってた。でも違ったのよ。あいつが、私の全てを支えてくれてたの」
「やめろ……言うな……」
グレインは耳を塞いだ。聞きたくない。
だが、記憶は止めどなく溢れてくる。
剣の切れ味。鎧の軽さ。
冬のダンジョンでも寒さを感じなかったのは、あいつが防寒の付与をしてくれていたから。
毒を受けてもすぐに治ったのは、あいつが解毒ポーションの品質を極限まで高めていたから。
何より、あいつはいつも笑顔で言っていた。
『グレインたちが無事でよかった』
『最高のコンディションで戦えるようにするのが俺の仕事だから』
「俺は……俺はなんて馬鹿なことを……」
グレインの目からも涙がこぼれ落ちた。
あいつは無能なんかじゃなかった。
世界で一番、有能なサポーターだった。
それを「修理屋なんていくらでもいる」と切り捨てたのは、他ならぬ自分自身だ。
その時、牢屋の鉄格子の向こうを、見回りの兵士たちが通りがかった。
彼らは何やら興奮した様子で、一枚の新聞紙を広げて話していた。
「おい見ろよこれ! 今日の号外だ!」
「すげぇな、また新しい発明か?」
「ああ。『自動修復機能付きの農具』だとよ! これがあれば、農民の作業効率が十倍になるって話だ。国中が大騒ぎだぜ」
兵士たちの会話に、グレインは顔を上げた。
新聞。外の情報。
彼は鉄格子に駆け寄り、必死に声をかけた。
「た、頼む! その新聞、見せてくれ! 一瞬でいいんだ!」
「あぁ? なんだ108番か。……まぁいいぜ、どうせ読み終わったゴミだ」
兵士は気まぐれに、クシャクシャになった新聞紙を牢屋の中に放り投げた。
グレインはそれを狂ったように拾い上げ、広げた。
リーネとボルグも這い寄って覗き込む。
トップ記事に掲載されていたのは、大きな写真だった。
王宮のバルコニーと思われる場所。
煌びやかな正装に身を包み、国王と並んで手を振っている男。
そしてその隣で、幸せそうに男の腕に抱きついている、美しいドレス姿の王女シルヴィア。
「アルド……」
そこに写っていたのは、紛れもなくアルドだった。
だが、俺たちが知っている卑屈な荷物持ちの顔ではない。自信に満ち溢れ、知性と気品を漂わせた、真の英雄の顔だった。
記事の見出しが目に飛び込んでくる。
『伝説の鍛冶師アルド・ノヴァ、新たに男爵位を叙爵!』
『剣聖姫シルヴィアとの婚約を発表! 国中が祝福の嵐!』
『彼が開発した新技術により、我が国の軍事力・経済力は飛躍的に向上。近隣諸国からも同盟の申し出が殺到中』
そこには、俺たちが夢見ていた「栄光」の全てがあった。
地位、名誉、富、そして愛する人。
それら全てを、かつて俺たちが「ゴミ」として捨てた男が手にしている。
「嘘だ……嘘だろ……」
グレインは震える手で記事を読み進めた。
記事の最後には、記者によるアルドへのインタビューが掲載されていた。
――『アルド男爵、かつて所属していたパーティについてはどう思われますか?』
グレインの心臓が跳ねた。
もしかしたら、俺たちのことを気にかけてくれているかもしれない。
「彼らにも感謝しています」とか、「いつかまた会いたい」とか。
そう言ってくれれば、俺たちの待遇も変わるかもしれない。淡い期待が胸をよぎる。
だが、そこに書かれていた回答は、無慈悲なほど簡潔だった。
『過去のことは、あまり覚えていませんね。今の私には、守るべき大切な人たちと、未来を作る仕事がありますから。後ろを振り返っている暇はないんです』
「あ……あぁ……」
新聞紙が、グレインの手から滑り落ちた。
覚えていない。
俺たちのことは、もう彼の記憶の片隅にも残っていない。
憎まれているわけでも、恨まれているわけでもない。
ただ、「どうでもいい存在」として忘れ去られたのだ。
それが何よりも堪えた。
俺たちは彼にとって、もう人生の登場人物ですらない。
「うわぁぁぁぁぁぁぁん!! アルドぉぉぉ!! ごめんなさいぃぃぃ!!」
リーネが半狂乱になって泣き叫んだ。
「戻ってきてよぉ! 私の髪を直してよぉ! このシワシワの手を治してよぉ! あんたがいなきゃ、私ただのオバサンじゃない! イヤぁぁぁ!!」
「ちくしょう……ちくしょう!! 俺の盾……俺の腕……。あいつがいれば、こんなことには……」
ボルグが頭を床に打ち付けて悔やむ。
そしてグレインは、膝から崩れ落ち、ただ乾いた笑い声を漏らすしかなかった。
「ハハ……ハハハ……。終わった……全部……」
自分たちが捨てたのは、ただの荷物持ちではなかった。
自分たちの未来そのものだったのだ。
そのことに気づくのが、あまりにも遅すぎた。
「おい、うるさいぞ! 静かにしろ!」
監視官が戻ってきて、警棒で鉄格子をガンガンと叩く。
「明日は早朝から『魔物の巣』の掃除だ! 危険な任務だからな、死にたくなきゃ寝ておけ!」
魔物の巣の掃除。それは、最も死亡率の高い懲罰的な任務だ。
武器もない、体力もない、魔法も使えない俺たちがそんなところに行けば、どうなるか。
答えは明白だ。餌になるだけだ。
「やだ……死にたくない……」
「助けて……誰か……」
絶望の闇が、牢屋の中を重く塗りつぶしていく。
新聞紙の上のアルドは、どこまでも眩しく微笑んでいる。
その笑顔は、地獄の底にいる俺たちをあざ笑っているようにも、あるいは全く視界に入っていないようにも見えた。
翌朝。
俺たちは虚ろな目で、死地へと向かう列に並んだ。
足元には、誰かが捨てた錆びた剣が転がっていた。
かつて俺が「なまくら」と呼んで蹴り飛ばした剣にそっくりだった。
グレインはその剣を拾おうと手を伸ばしたが、指先に力が入らず、取り落とした。
カラン、と寂しい音が響く。
それが、元勇者グレインがこの世に残した、最後の音だったのかもしれない。
王都の空は今日も青く澄み渡り、新しい英雄の誕生を祝福している。
だが、その光が鉱山の底に届くことは、永遠になかった。




