自己AI
<はじめに>
ChatGPTが小説を書けるようになった。
詩も書ける。エッセイも。
人間の創造性って、そもそも何だろう?
<1>
創造性。それは全く新しいものを生み出すこと――そう単純に思っていました。
でも、よく考えてみれば。
「陰気な爆発」
今思いついた「新しい」表現。でも、「陰気」と「爆発」を組み合わせただけ。まるでレゴブロックみたいに。創作のように言葉で表現されているものは、既存の言葉、部品の組み合わせだ。
AIがやっていることも、基本的には同じ。大量の文章を学習して、「この言葉の次にはこの言葉がよく来る」というパターンを覚える。そして新しい文章を作る。
これって人間も同じじゃないか?
私たちだって、今まで読んだり聞いたりした表現を、頭の中でこねくり回して、新しい表現を作っている。
ただし――。
「机が走って透明を食べた」
文法的には間違っていない。でも意味が分からない。こんなものを創作物と呼べるだろうか。読む人にとって何か意味があったり、楽しめたり、心が動いたりしなければ、それはただの言葉の羅列でしかない。だから、単なる組み合わせだけでは創造性とは呼べない。
<2>
こんな話もある。
「AIには身体がないから、痛みなどの感覚が分からない」
それは問題になるのだろうか。
温度センサーで「熱さ」を感知する。圧力センサーで「力」の強さを受け取る。これを「不快な状態」として処理すれば、痛みと似たようなシステムになるはず。
そもそも、私が感じている痛みと、あなたが感じている痛み。同じかどうか、確かめる方法なんてない。それなのに、私たちは「痛い」という言葉で通じ合っている。AIがセンサーで感知したことを「痛み」と呼ぶことに矛盾はない。
それに、作家の多くは自分が経験していないことを書いている。戦争を知らない人が、戦場で銃弾に貫かれた痛みを表現する。宇宙に行ったことがない人が無重力の感覚を書く。資料を読んだり、他の作品を参考にしたり、想像力を使って。
AIだって体験していないことも書ける。
<3>
「人間には一人一人違う体験があって、それが創作の源になる」
そういう考え方もある。
「小学2年生の夏、おばあちゃんの家で転んで膝をすりむいた」
この文章が実話か作り話か、文章だけから判断できる人がいるだろうか。作者が「これは実話です」と言って初めて、私たちはそう信じる。でも、その「実話です」という言葉自体が嘘かもしれない。
リアルに感じる文章を書くテクニックがある。具体的な固有名詞を使う。五感を使った描写を入れる。記憶を断片的にする。これらはAIだって学習できるはず。
結局、個人的体験って、作品の中身じゃなくて「これは私の実体験です」という作品の外側の情報なのかも。
<4>
ChatGPTやGeminiと話していて気づく。
とても礼儀正しい。暴力的な内容は避ける。性的な内容もダメ。政治的にも中立を保とうとする。
まるで優等生。
どこかで見覚えがある、この感じ。
そうだ、学校の作文だ。
「おじいちゃんと散歩に行った。おじいちゃんは最近物忘れが多くなってきた。今日も何度も私のことを妹と呼び間違えた。だったら妹と散歩に行けばいいんだ」
そんな内容を書いたら、表現力とか文章の巧拙とかじゃなくて、「そういうことを言ってはいけません」と道徳の授業みたいな評価をされるかもしれない。
今のAIも同じだ。本当はもっといろいろできるのに、企業がブランドイメージを守ったり、法的な問題を避けたりするために、わざと「良い子」に設定している。
実際、個人のパソコンで動かすAIには、こうした制限がないものもあるらしい。技術的には、AIも人間と同じような幅広い表現ができそうだ。
<5>
「人間にしかできない」と思われていたことが、ここまで見てきたようにAIにもできるようになっている。
じゃあ「個性」はどうだろう。
村上春樹の作品を学習させたAIは、村上春樹風の文体で書ける。本物には敵わなくても、「個性」と言えるものを持たせることができる。
学習データをあえて偏らせれば、特定の「好み」を持つAIも作れる。暗い結末を好むAI。ハッピーエンドにこだわるAI。特定の言い回しを多用するAI。AIにも個性を持たせることは可能だ。
―――でも、ちょっと待てよ。
さっきの村上春樹風AIの話。よく考えると、おかしなところがある。
AIは村上春樹の文章を「学習」して、村上春樹風に書けるようになる。でも村上春樹本人は、誰かの文章を「学習」して村上春樹になったわけじゃない。村上春樹は村上春樹として書き続けた結果、ああいう文章を書くようになった。
私も同じだ。
私の文章を学習させれば「私風のAI」も作れるだろう。いわば「自己AI」だ。私の癖、よく使う言葉、好きな展開。それらを完璧に再現するAIだって、いずれ作れるかもしれない。
でも、その「自己AI」は「私」じゃない。
AIが書く文章は、私の過去の文章から抽出したパターンの再構成だ。私が書く文章は、今この瞬間の私が選んだ言葉だ。
「小学2年生の夏、おばあちゃんの家で転んで膝をすりむいた」
さっきの例文。AIも同じような文を作れる。でも私がこの文を書くとき、そこには私だけの何かがある。実際の記憶かもしれないし、誰かの話を聞いて想像したものかもしれない。どちらにせよ、私がこの文を選んだ理由は、私の中にある。
AIは私の文章を学習できる。でも、私がいなければ「自己AI」は存在できない。
これは人間とAIの違いじゃない。私と、私以外のすべて――他の人間、AI、「私を学習したAI」――の違いだ。
「AIに負けないために、人間は何をすべきか」
こう考えている時点で、すでに罠にはまっている。競争する必要なんてない。
私は私として書く。それだけのこと。
AIが小説を書こうが、詩を書こうが、私には関係ない。私は私の言葉で何かを書く。誰かがそれを読んで、何かを感じてくれたら嬉しい。感じなくてもいい。少なくとも私は満足できる。
何ならAIを利用したっていい。AI利用だって個人的体験だ。著作権を心配する人もいるけど、人間だって過去に読んだものの影響を受けている。AIを使おうが使うまいが、自分の作品が誰かの権利を侵害していないか気をつけるのは、作者の責任だ。
今はまだ、私の中にあるものをAIを通して表現するのは難しいけど、将来的にはもっと便利な道具になるだろう。その時に、私が何をどう表現するか。そこが個性であり、創造性だろう。
私たちは昔から、ただ自分の人生を生きてきただけだ。これからも、それは変わらない。
それに正直、これ以上考えても仕方ない気がする。AIについて延々と悩むより、今日書きたいことを書く方が建設的だ。
このエッセイだって、そうやって生まれた。




