走れ稔麿
京の夏は暑い。
三方を山で囲まれているために底である町に湿気が溜まる。
さらにこの日は祇園祭の宵々闇であった。周辺より祭を見ようと人が集まる。自然と人の熱気で暑くなる。
こんな立っているだけでも充分に汗をかける夜の町をわざわざ走る御苦労な若者が一人。長州藩士、吉田稔麿。彼は右手に槍を抱えて走っていた。
不意に足がもつれた。槍は土に刺さり、彼は顔から転んだ。汗のためねっとりとした土が付いた顔を上げる。
「くそっ」
槍を杖代わりにして立ち上がる。彼の脳裏には先ほどの光景が浮かんでいた。
「し、新撰組が池田屋に!」
一八六四年七月八日、京都は三条小橋にある旅館「池田屋」に集まっていた尊王攘夷派の志士を江戸幕府より京都警護を任された新撰組が襲撃した。
世に言う「池田屋事件」である。
稔麿は池田屋の二階にいたが、運よく長州藩邸へと逃れた。
迎えたのはいかにも涼しげで知性が顔から滲み出ている男だった。彼は稔麿を落ち着かせようと、水を頼んだか、稔麿は頭を振った。
「そんなものはいりません、僕の槍を持ってきて下さい」
稔麿はその槍で池田屋に残っているであろう同士を助けに行くと告げた。
「なぜだ、稔麿君。せっかく拾った命を!」
稔麿を止めようとする男に彼は反論した。
「桂さんは池田屋の同士たちを見捨てるのですか? 本来ならあなたもあそこにいたでしょうに」
男――桂小五郎――も池田屋にいるべき者の一人であった。しかし着いたのが早すぎたため、近くの知り合いの所で時間を潰していたところ、事件を知り藩邸へと戻ったのだ。
「確かにぼ……、いや私は……」
一瞬言葉に詰まった桂だがすぐに気を取り直し、説得を続けた。
「君が来る前に杉山君が事件を聞いて、向こうへ行ってしまっている。君も行くことは無いだろう?」
このやりとりを聞いていたのか誰かが槍を持ってきた。稔麿はそれを持つと素早く立ち上がり、
「池田屋に行くのは僕が最後です!」
と叫んで桂に背を向けて走り出した。止める桂の声を耳に入れながら夜の京を駆ける。
立ち上がって再び走り出そうとした稔麿だったが、人の気配を感じ小道に逸れた。そして何かを踏んで体勢を崩しまた転んだ。
追手は池田屋の新撰組だけとは限らない。池田屋への道中で彼らに見つかって斬られる可能性もある。そう、稔麿が今しがた踏んだ男のように。
「な……」
それは杉山だった。土を塗した顔は青白い。
「杉山君……」
稔麿が杉山の元に座り込むと、虚ろであった杉山の眼が突然光り、稔麿を見ると押し殺したような声で話しかけてきた。だがこの「声」は杉山の物ではない。
『貴様も桂と同じ選ばれし者なのだ。そんな貴様がなぜわざわざ死にに行く? 同士を助けると言ったがどうせみんな死んでいるだろうよ。引き返せ、自分だけ生き残るのは恥ではない』
後に伝えられている池田屋事件の被害や桂の功績を見るに「声」の「選ばれし者」は的を得ている。「声」は時代の意志なのか。
それを聞いて稔麿は来た道をちらりと目にして、戸惑いながら答えた。
「いや……、僕は池田屋の同士を助けなくては……、ならないのです」
『必ず助けられるのか?』
稔麿は再び元来た道を見る。槍を持つ力が少し弱くなった。
杉山は少し口元を緩めると話を続けた。
『貴様には新撰組に勝てる腕もなかろう。こんなつまらんことで命を落とすとは、吉田松陰が知ったら草葉の陰で泣くだろうよ』
「声」は「吉田松陰」の名を出せば稔麿が帰ると思ったのだろう。しかしこれが仇となった。
追われている身でありながら、稔麿は気合とともに杉山の頭上を槍で払った。
「僕は松陰先生の弟子だ! だからこそ僕は、池田屋の同士を助けに行かなければならないのです!」
沈黙した「声」――杉山――を置いて稔麿は再び京の闇を走る。「声」は稔麿の迷いだったのか。
ここで吉田松陰について触れなければならない。
吉田松陰は長州藩の兵学師範であり、稔麿の師匠・桂の同士でもある。自分を語る時は必ず「僕は」から始まり、それは稔麿が松陰を思い出す時に欠かせない光景であった。
また自分の信念のためならば当時の法律を平気で破る男であった。
一八五四年にアメリカはペリー率いる黒船が品川の沖合いに押し寄せたとき、黒船に乗って当時では御法度とされた海外渡航を企てたのは有名な話である。
それ以前にも同士である肥後藩士、宮部鼎蔵との約束を守るために藩の許可も得ずに旅に出た。許可申請をすれば手続きの時間で宮部を待たせることになるのが理由である。下手をすれば脱藩ととられて死罪の可能性もあったが、松陰は命よりも宮部との約束を大切にした。
今日、池田屋で志士たちが集まったのは宮部の呼びかけによるものである。当然、彼も襲撃されている。
松門四天王と評されるほど松陰を愛した稔麿にとって、師が命を賭けても大切にした宮部を見捨てるわけにはいかなかった。
(桂さんは松陰先生が認めた才能を守って生きるがいい、僕は松陰先生の信念を守る)
稔麿は人通りの少ない道を選んで池田屋へと走る。
「……」
池田屋の中に入り稔麿は青ざめた。目に入ったのは先ほどまで稔麿と楽しげに酒色を共にした同士達の死体だった。
その一人、元林田藩士の大高又次郎。彼はいつも線を引いたような細い目を見せる男であったが、今はその目が大きく開かれ、天井を睨みつけるようにして息絶えている。
その隣に中空を睨みながら自の腹を刀で切り開いた男がいる。これが宮部であった。
「宮部さん!」
稔麿は宮部の下へと駆け寄った。しかし返事は無い。思いきり横に開かれた口を見ると奥歯の一部が欠けている。
再び声をかけようとした稔麿の言葉が詰まった。見ると胸から刀が生えている。それがゆっくりと抜かれると、稔麿は宮部の膝へと突っ伏した。
命が消えるまで僅かな時がある。
その間稔麿の耳に入ったのは激しい咳だった。
事件発生時の桂の居場所や、稔麿の死に場所に関しては諸説あるようですが、
その中で書きやすいものをチョイスしました。
読んでいただきありがとうございました。
この後も他の参加者様の五分作品をお楽しみください。