第2話:選ばれし者たち、そして『無能』の烙印
闇。 深い、底の見えない闇。それは、修の日常を包む、重い毛布。 修の意識は、その中に沈んでいた。 それは、安らぎ。現実からの逃避。わずかな慰め。 しかし、突然。 その闇が、裂ける。 強烈な光。 網膜を焼き尽くす純白。それは、まるで宇宙の誕生。あるいは、神の怒り。絶対的な存在。 耳朶を劈く轟音。地響き。雷鳴。耳の奥で反響する、世界の崩壊。 修の身体は、宙に浮く。無重力。まるで、宇宙空間に放り出されたかのよう。 方向感覚の喪失。上下左右、全ての概念が失われる。彼の世界が、根本から揺さぶられる。 全身を駆け巡る、激しい痺れ。神経が焼き切れるような感覚。それは、肉体の悲鳴。 「う……あ……!」 声にならない叫び。喉から絞り出される、ただの呻き。 脳裏を駆け巡る、走馬灯。 吉田の嘲笑。クラスメイトの冷たい視線。彼を囲む、透明な壁。 ゲームのBGM。任侠映画のテーマ曲。アニメのオープニング。彼の魂を形作った、無数の記憶。 我流格闘術の型。我流剣術の閃き。それは、彼の内なる世界での、唯一の武器。 その全てが、混沌の渦に飲み込まれる。それは、世界の終わり。 光の奔流。時間の歪み。空間のねじれ。彼の存在が、分解されていく。 修の意識は、薄れていく。 そして、最後に感じたのは、底知れない、未知への落下感覚。それは、永遠に続くかのような、深い落下。
意識が、覚醒する。 それは、硬い床の感触。冷たい石の肌触り。現実の、無慈悲な重み。 重力。確かな存在。 だが、そこは、見慣れた自分の部屋ではなかった。
冷気。肌を刺すような。それは、異世界の洗礼。 空気の匂い。カビと、香木の混じった、古めかしい匂い。それは、歴史の香り。 目を開ける。 そこは、薄暗い広間。 巨大な魔法陣。床に刻まれた、見慣れない文様。それは、古代の象形文字。神秘の象徴。 周囲には、ローブを纏った人々。神官らしき者たち。 厳かな表情。祈りの言葉。それは、異国の調べ。 そして、彼らの視線の先には……。 見慣れた顔。 クラスメイト。 吉田。佐藤。田中。鈴木。 彼らもまた、修と同じように、そこに立っていた。 戸惑い。困惑。しかし、その奥に潜む、かすかな高揚感。それは、選ばれし者の特権。 「ここは……どこだ?」 誰かの声。それは、修の心の声でもあった。 異世界。 その確信が、修の心を支配した。それは、現実を超えた、新たな幕開け。
神殿。 荘厳な空間。天井の高さ。天へと続く柱。 ステンドグラスから差し込む光。それは、七色の祝福。 玉座。その上に座る、威厳ある人物。国王。その瞳は、国の運命を背負う重み。 その隣に立つ、厳めしい神官。彼の存在は、神の代理。 そして、周囲を固める、鎧を纏った兵士たち。鋼の壁。 彼らの視線は、魔法陣の上に立つ、高校生たちに集中していた。それは、希望への眼差し。
「おお、勇者たちよ!」 国王の声。それは、広間に響き渡る、祝福の言葉。それは、彼らを特別な存在へと変える響き。 神官が、一人ずつ、魔法陣の中のクラスメイトたちの前に歩み出る。 手にした宝珠。輝き。それは、真実を映す鏡。 それは、鑑定の儀。
最初の生徒。佐藤健。 クラスのムードメーカー。スポーツ万能。陽の光のような存在。 神官が宝珠をかざす。光が佐藤を包み込む。 「佐藤健殿!貴殿に与えられしは、【剣聖の加護】!」 神官の声。広間に響き渡る、歓喜の嵐。それは、期待の具現化。 「おおおっ!」 「剣聖だと!?」 クラスメイトたちの興奮。ざわめき。それは、羨望の声。 佐藤の顔。自信に満ちた笑み。拳を握りしめる。それは、新たな力の確信。 「マジかよ!最強じゃん!」 まるで、漫画の主人公になったかのような表情。彼の未来は、輝きに満ちている。
次。田中優。 クラスの秀才。冷静沈着。知性の塊。 神官の宝珠。光。 「田中優殿!貴殿に与えられしは、【魔導の賢者】!」 再び、歓声。それは、知への畏敬。 「無詠唱で魔法が使えるようになった気分です……」 田中の呟き。しかし、その瞳の奥には、秘められた野心。それは、知の探求。
そして、鈴木美咲。 クラスのマドンナ。優しく、穏やかな性格。慈愛の天使。 神官の宝珠。 「鈴木美咲殿!貴殿に与えられしは、【治癒の聖女】!」 今度は、安堵のどよめき。それは、救済への願い。 「これで、みんなを助けられる……」 鈴木の顔。慈愛に満ちた微笑み。それは、聖女の証。
次々と。 クラスメイトたちに、強力な能力が与えられていく。 【剛力の戦士】。 【俊足の盗賊】。 【千里眼の弓使い】。 誰もが、この世界で活躍できる、特別な力を手に入れた。 彼らの顔。高揚。期待。それは、未来への希望。 まるで、ゲームで初めてチート能力を手に入れたプレイヤーのよう。無限の可能性。 互いに能力を自慢し合う声。それは、歓喜の歌。 「俺、火球が出せるぜ!」 「私、空飛べるようになった!」 「これ、剣、めちゃくちゃ軽い!」 彼らは、すでに自分たちがこの世界の「勇者」であると確信していた。
修。 佐久間 修。 彼は、魔法陣の端に立っていた。 その耳には、クラスメイトたちの歓声。それは、彼を打ち砕く音。 その目には、彼らの輝く姿。それは、彼を覆う闇。 心臓の奥底。冷たい、空虚な空間。凍り付いた感情。 「俺には……何もない」 いじめられていた頃の、あの無力感。体中の力が抜けていく感覚。 教室の隅で、息を殺していたあの感覚。 それが、この広大な神殿の空間で、何倍にも増幅される。 彼らの視線。 クラスメイトの視線。それは、刃のように修に突き刺さる。 同情。憐憫。そして、軽蔑。一つ一つの視線が、彼を貶める。 特に、吉田。 修のいじめグループのリーダー格。暴力の象徴。 彼の番が来た時、神官の宝珠は、これまでで最も強い輝きを放った。それは、強者の証。 「吉田直人殿!貴殿に与えられしは――【剛腕の勇者】!」 吉田の身体から、まばゆい光が迸る。それは、彼の自信の具現化。 その光に包まれながら、吉田は修を見た。 ニヤリ。下卑た笑み。それは、修を嘲笑う顔。 「見てろよ、佐久間!ザコはどこへ行ってもザコなんだよ!」 その言葉が、修の胸に、重い鉛のようにのしかかる。それは、過去の悪夢の再来。 再び、全身を硬直させる、嫌悪感。鳥肌が立つほどの寒気。 吉田の勝利。それは、修の敗北。彼の存在の否定。
そして、ついに、修の番。 神官が、静かに修の前に歩み出る。その足音は、運命の足音。 宝珠。かざされる。 修の身体を包む光。しかし、それは、他のクラスメイトたちのようなまばゆい輝きではなかった。 微かな、頼りない光。まるで、消えそうな蝋燭の炎。 神官の顔。困惑。眉間に刻まれた深い皺。それは、予想外の出来事。 宝珠に浮かび上がる文字。 『佐久間 修』 『能力:収納:∞(インフィニティ)』 『その他:全て最低値』 神官の声。それは、広間に響き渡る、失望の宣言。それは、彼の存在を否定する声。 「収納……無限……?」 ざわめき。クラスメイトたちのひそひそ話。それは、彼を嘲笑う風。 「なんだよ、それ?」 「インベントリか?荷物持ち?」 「シュウくん、役立たずじゃん!」 嘲笑。隠そうともしない、侮蔑の笑い声。それは、彼の心を蝕む毒。 「それは、勇者の力ではございません……」 神官が国王に報告する。その声には、深い困惑。それは、期待外れの報告。 国王の顔。露骨な失望。顔中に広がる、不快感の影。それは、彼の価値の否定。 「無限の収納?それは荷物持ちか何かか?この国の危機を救う勇者としては全く役に立たぬ!」 国王の声。それは、雷鳴。修の心を打ち砕く。彼の希望を粉砕する。 「恐らく、これは神の思し召しではございません。無用な者かと…」 神官の進言。それは、修の存在を否定する言葉。それは、彼の居場所を奪う言葉。 無用。無価値。 まるで、元の世界で「使えない」「いらない」と言われた言葉が、そのまま現実に突きつけられたかのようだった。 彼の存在そのものが、否定された瞬間。彼の人生が、再び、袋小路に入る。
他の勇者たち。 クラスメイトたちの視線。 憐れみ。そして、軽蔑。 「やっぱ、佐久間はどこへ行ってもダメだな」 吉田の蔑むような声。それは、彼の耳の奥で反響する、呪いの言葉。彼を縛り付ける鎖。 修は、ただ、うつむいていた。 全身から力が抜けていく。 まるで、魔法陣の光が、彼の生気まで吸い取っていくかのよう。生命力の枯渇。
そして、国王の宣告。 冷酷な声。断罪の言葉。それは、彼の運命を告げる鐘。 「この佐久間修とやらは、我が国の戦力とはなりえぬ。他の勇者殿方には滞在していただくが、この男は城下町より追放せよ!」 追放。 それは、捨てられること。ゴミのように。不要なものとして。 最低限の旅費。僅かな金貨。それは、嘲りの報酬。 食料。パン一つと水筒一つ。それは、彼の生命線。 それだけを渡され、「明日、城下町から追放する。二度とこの国に戻るな」と告げられる。それは、永遠の訣別。 修の目には、国王の冷たい表情。神官の無関心な横顔。 そして、クラスメイトたちの、勝ち誇ったような顔。 「ザコは異世界でもザコってことかよ!」 吉田の言葉が、耳の奥でこだまする。彼の心を刺し貫く刃。 その言葉一つ一つが、かつてのいじめの記憶を呼び起こし、修の心を深く抉った。 彼は、再び一人、絶望の淵に突き落とされた。 暗闇。深い、暗い、孤独の淵。 それは、元の世界でいじめられていた頃の、彼の心の風景。 しかし、今回は、それに加えて「異世界」という、広大な、未知の絶望が広がっていた。
夜。 修は神殿の一室に閉じ込められていた。 薄暗い部屋。窓。しかし、そこから見えるのは、分厚い壁と、遠くの森のシルエットだけ。それは、閉ざされた未来。 与えられた食料。パン一つ。水筒一つ。 それが、彼の全財産。彼の命の重み。 このままでは、野垂れ死ぬか。 あるいは、魔物に襲われるか。 未来。それは、暗く、閉ざされていた。希望の見えない闇。 「なんで……俺だけ……」 声。また、か細い声。それは、彼の悲鳴。 ベッドに座り込む。頭を抱え込む。 震える手。 無力感。全身を支配する絶望。 しかし、その震えの奥底に、小さな違和感。 「無限の収納……インベントリ……」 脳裏に浮かぶ、神官の言葉。 ただの収納。そう言われた。 でも、本当に、それだけなのか? ゲームの知識。 インベントリ。それは、アイテムを収納する場所。 しかし、ただ収納するだけでなく、そこから「取り出す」こともできる。 そして、ゲームでは、アイテムの組み合わせや、使い方の工夫で、予想外の能力を発揮することが多々あった。 「もし……」 小さな、しかし確かな疑問符。それは、暗闇に灯る、小さな光。 彼は、部屋の中を見渡した。 埃。壁の漆喰の破片。小さな石ころ。 手近なもの。彼の目の前に広がる、無限の素材。 修は、掌に収まるサイズの石ころを拾い上げる。 そして、意を決して、それを「収納」してみた。 ――吸い込まれるような感触。まるで、掌にブラックホールが生まれたかのよう。 石ころは、まるで水に溶けるように、掌から消えた。 重さ。全く感じない。まるで、空気のように軽い。 「消えた……?」 そして、次に「取り出す」と念じる。 掌に、再び石ころが現れる。 その速さ。 「……瞬時」 修の目。見開かれる。それは、驚きと、興奮の光。 これは。 ただの収納じゃない。 彼は、さらに試した。 掌から、石ころを、ゆっくりと、まるで羽毛が落ちるように、ふわりと取り出す。 次には、拳を振り下ろす速さで、勢いよく石ころを叩きつけるように取り出す。 石ころは、修の意図した通りの速度で現れた。 さらに。 彼は、意識を集中する。 掌から、石ころを、真っ直ぐに、窓の方向へ向けて、取り出す。 石ころは、彼の意図した通りの向きで、まるで弾丸のように飛び出した。 それは、窓枠にぶつかり、カツンと小さな音を立てて床に落ちた。 「好きな速度で……好きな向きに……」 その瞬間、修の全身に、鳥肌が立った。それは、冷たさではない。熱い興奮。 これは、ただのインベントリではない。 これは、物質の運動制御。 いじめられていた頃の彼なら、ここで諦めていただろう。 しかし、彼の脳裏には、任侠映画で見た、どんなに劣勢でも決して諦めない男たちの姿。その闘志。 アニメで見た、知恵と工夫で強大な敵を打ち破るヒーローの姿。その閃き。 そして、彼自身が空想の中で磨いた、我流の剣術と格闘術の型。その応用。 全てが、この能力と結びつく可能性。 「これを……何でも……武器にできる?」 その疑問は、やがて確信へと変わる。それは、彼の未来を照らす光。 「よし、決めた」 彼は、部屋の中にある、掌サイズのあらゆる「普通の物」を、貪欲に収納し始めた。 石ころ。木片。埃。漆喰の破片。 それは、彼の、この世界での最初の反撃。彼の未来への投資。 無能と蔑まれた彼が、その夜、静かに覚醒した瞬間。彼の人生が、新たな段階へと進む。 「地球へ帰る」 その目的を胸に、佐久間 修は、暗闇の中で、静かに牙を研ぎ始めた。それは、彼の魂の叫び。 彼の異世界サバイバルは、ここから始まる。彼の伝説が、今、幕を開ける。
(第2話終わり)