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第12話:光の向こう側

白い天井。 それは、私の世界の全て。 佐久間 陽菜。小学三年生。 私の身体は、いつも、この白いシーツの上にあった。 病院の匂い。消毒液のツンとくる刺激。それは、私の日常を包む、薄い膜。 窓の外には、青い空。 しかし、その空の下を、自由に駆け回ることはできない。 私の身体は、ガラス細工。触れれば壊れる。少しの衝撃で、砕け散る。 病気。 それが、私の名前。私の運命。 熱。咳。息苦しさ。 それは、私の身体を蝕む、見えない影。日に日に濃くなる、死の足音。


それでも、私の世界には、光があった。 お兄ちゃん。 佐久間 修。 私の、たった一人のお兄ちゃん。 病室のドアが開く音。 その音だけで、私の顔に、自然と笑みがこぼれる。 「ひな、来たぞ」 少し照れくさそうに、でも、優しい声。 彼の存在。それは、私の病室に差し込む、唯一の太陽。 彼が持ってくるもの。 ゲーム雑誌。新作ゲームの情報。 アニメのDVD。ヒーローたちの冒険。 任侠映画のパンフレット。彼がこっそり見ている、大人の世界。 「これ、面白いぞ。今度の敵は、めちゃくちゃ強いんだ」 彼は、いつも、目を輝かせながら話してくれた。 ゲームの話をする時のお兄ちゃんは、別人だった。 現実では、ちょっと引っ込み思案で、いじめられてるって、たまに話してくれたけど。 ゲームの中では、お兄ちゃんは最強の勇者。 敵を倒すための、とっておきの戦略を、私に話してくれた。 「この技とこの技を組み合わせると、とんでもないダメージが出るんだ」 「このダンジョンは、こうやって進むと、罠にかからずに済む」 彼の話を聞くたびに、私の心は、この白い天井から解放された。 私も、お兄ちゃんと一緒に、冒険しているかのようだった。 彼の話す、我流の格闘術や剣術の話も、大好きだった。 「もし俺が剣を持ったら、こうやって斬るんだ」 彼は、病室のベッドの横で、空想の剣を振る。 その姿。私には、まぶしく見えた。 「ひなも、強くなりたい?」 お兄ちゃんが、私の頭を優しく撫でてくれた。 その手。温かい。安心する。 「うん!お兄ちゃんみたいに、強くなりたい!」 私の言葉に、お兄ちゃんは、はにかんだように笑った。 その笑顔。私の宝物。


でも。 病気は、私を、容赦なく蝕んでいった。 呼吸。だんだん苦しくなる。 熱。身体が燃えるように熱い。 意識。朦朧とする。まるで、夢の中にいるかのよう。 お母さんの顔。お父さんの顔。 心配そうな瞳。涙。 「ひな……」 お母さんの声。震えている。 「大丈夫だよ……」 私は、精一杯の笑顔を作った。 お兄ちゃん。 病室の隅で、彼は、静かに座っていた。 彼の顔。いつもの元気がない。 私を見つめる、その瞳。深い悲しみ。 「お兄ちゃん……」 私は、手を伸ばした。 彼の手に、触れたい。 彼の温もりを、感じたい。 彼が、私の唯一の光。


夜。 病院の静けさ。 点滴の音。ピッ、ピッ。それは、私の命のカウントダウン。 呼吸。浅く、速く。まるで、水中で溺れているかのよう。 意識が、薄れていく。 まぶたが、重い。 身体が、鉛のように重い。 夢。 私は、夢の中にいた。 お兄ちゃんと、二人で。 広い草原。風が吹く。 空は、どこまでも青い。 「ひな!行くぞ!」 お兄ちゃんが、私の手を引いて、走り出す。 私も、全力で走る。 身体は、軽やか。どこまでも走れる。 息苦しさなんて、どこにもない。 笑い声。二人の声が、空に響き渡る。 それは、私の、一番の願い。 お兄ちゃんと、一緒に、自由に、笑い合いたい。


しかし、夢は、ゆっくりと色を失っていく。 草原の緑。薄くなる。 空の青。灰色になる。 お兄ちゃんの声。遠ざかる。 「お兄ちゃん……」 私は、手を伸ばす。 しかし、彼の姿は、霞んでいく。 「ひな!大丈夫か!?」 遠くから、お兄ちゃんの声が聞こえる。 焦っている。悲しんでいる。 「大丈夫……だよ……」 私の声。彼には届かない。 身体が、冷たい。 全身が、氷漬けになるかのよう。


光。 突然。 私の視界いっぱいに、まばゆい光が広がった。 それは、病室の天井を突き破り、私を包み込む。 温かい光。 それは、冷たくなった私の身体を、優しく包み込む。 光の中へ。 意識が、吸い込まれていく。 それは、闇ではない。 温かく、優しい、光の奔流。 その光の中で、私は、もう、苦しくなかった。 息苦しさもない。熱もない。痛みもない。 ただ、安らぎ。 それは、母親の腕の中のような、絶対的な安心感。 「お兄ちゃん……」 最後に、心の中で、彼の名前を呼んだ。 そして、私の意識は、光の中に溶けていった。 それは、まるで、一粒の砂が、大海に還るかのよう。 私の命。終わり。


深い、深い、闇。 しかし、それは、冷たい闇ではない。 温かい。胎内のような、安らぎ。 そして、その闇の中に、微かな光。 その光が、徐々に大きくなっていく。 意識が、覚醒する。 それは、ゆっくりと。しかし、確かな感覚。 「ん……?」 目を開ける。 そこは、白い天井ではなかった。 木々の葉。 青い空。 そして、聞こえるのは、鳥のさえずり。 空気。温かい。そして、清らか。 身体。 軽い。 それは、ガラス細工のように脆かった、私の身体ではない。 自分の手を見る。 小さな手。しかし、健康的な肌の色。 「動く……」 指を動かす。掌を広げる。 足。動かしてみる。 立ってみる。 身体は、軽やか。どこまでも走れるかのよう。 息苦しさなんて、どこにもない。 「私……?」 声を出してみる。 私の声だ。しかし、少し幼い。 周囲を見渡す。 見慣れない木々。 見慣れない花々。 そして、遠くに見える、奇妙な形の山。 ここは、どこ? 混乱。しかし、それに勝る、身体の自由への喜び。 私の病気は、治ったのだろうか。 私は、病院にいたはずなのに。


私の頭の中に、奇妙な感覚。 何かが、欠けている。 大切な何か。 思い出そうとする。 白い天井。病院。 そして……。 「お兄ちゃん……」 その言葉が、私の口から、自然とこぼれ落ちた。 しかし、彼の顔が、はっきりと思い出せない。 彼の名前。佐久間 修。 それは、覚えている。 でも、彼の顔。彼の声。彼の温もり。 全てが、ぼんやりとした霞の中。 まるで、遠い夢の中の出来事のよう。 なぜ。 私の大切な、お兄ちゃん。 なぜ、思い出せないのだろう。 心の奥底に、微かな痛みが走る。 それは、失われた記憶への、悲鳴。


私は、森の中で、一人、立ち尽くしていた。 病気は治った。 身体は自由だ。 しかし、なぜ、こんな場所にいるのか。 なぜ、お兄ちゃんの顔が思い出せないのか。 その答えは、どこにもない。 私の周囲には、見慣れない鳥が飛び交い、奇妙な鳴き声を上げている。 遠くから、獣の咆哮。 ここは、危険な場所。 私の身体は、確かに自由になった。 しかし、この世界で、私はどうすればいいのか。 不安。 その感情が、私の心を包み込む。 その時。 私の心の中に、微かな声。 それは、私を呼ぶ、優しい声。 「ひな……」 お兄ちゃんの声。 しかし、それは、記憶の奥底から聞こえてくる、遠いこだま。 私は、その声が、どこから聞こえてくるのか、分からない。 しかし、確かなこと。 私は、この世界で、一人ではない。 お兄ちゃんがいる。 きっと、この世界のどこかに。 私は、その声を辿るように、森の奥へと歩き出した。 目的。それは、お兄ちゃんを探すこと。 そのための旅。 私の、新たな命の、始まり。


(第12話終わり)

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