プロローグ:灰色の日々と、一筋の光 佐久間修の異世界召喚
放課後の教室。冷え切った空気。 机の周りを囲む影。佐久間 修にとって、それは日常の一部。抗うことのできない、避けようのない時間。
吉田。その声。低い、嘲るような響き。 「おい、佐久間。今日のジュース代、足りねぇんだよ」 机に投げ出された汚れたスニーカー。制服のズボンの裾。その全てが、修の視界を支配する。逃げ場のない、四角い檻。 クラスメイトたちのざわめき。それは修に向けられた、刃のような好奇の目。あるいは、無関心の氷壁。どちらも、修の心を凍らせるには十分。 「あ、あの……」 唇から漏れる、か細い声。それはまるで、枯れた木の葉の囁き。吉田の耳には届かない。届いても、気にも留めない。 彼らの間では、修の財布は自動販売機。いや、もっと悪い。感情を持たない、無限に金が出てくる何か。
震える指先。財布の硬い革の感触。 開かれたファスナーの音。それは、修の心が引き裂かれる音。 中身。僅かな紙幣。今日の昼食代。明日の交通費。 千円札。薄い紙切れ。しかし、修にとっては、明日を生きるための命綱。 その命綱が、無造作な指先によって引き抜かれる。 吉田の指。太く、節くれだった。修の手の倍はあろうかという大きさ。その指が、千円札をまるでゴミ屑のように掴み取る。 「お、助かるわー。サンキューな、佐久間」 笑い声。吉田の口からこぼれる、不快な響き。 取り巻きたちの哄笑。それは、耳の奥で反響する、邪悪な合唱。 「じゃ、明日は新作ゲームの金、頼むな」 追撃。それは、修の心を砕く、最後の一撃。 心臓がズキンと痛む。物理的な痛み。胸の奥に、鋭いナイフが突き立てられたような感覚。 明日。また、繰り返される地獄。 新作ゲーム。修にとって、それは聖域。唯一、現実の呪縛から逃れられる場所。その聖域への入り口が、彼らの手によって塞がれていく。
なぜ。 なぜ、こんなにも。 修の脳裏に浮かぶ疑問符。しかし、答えは見つからない。見つけようとしても、深い霧に閉ざされている。 拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込む痛み。だが、それは内側の痛み。外には決して見せられない。 身体は鉛。足は根を張ったように動かない。睨みつけたいのに、視線はいつも足元に吸い寄せられる。靴の先の汚れ。床の木目の模様。 そこに、世界の全てが凝縮されているかのよう。狭い、息苦しい、小さな世界。 「いや、なんでも……ありません」 声。また、か細い声。風に吹き飛ばされる綿毛のような、頼りない響き。 吉田の顔。嫌な笑み。勝ち誇ったような歪み。 「なんだよ佐久間、なんか文句あんの?」 その一言が、修の身体を硬直させる。条件反射。脊髄反射。 反射炉で焼き固められたかのような、全身の強張り。 心臓の鼓動。ドクン、ドクン。異常な速さ。 呼吸。浅く、速く。まるで水中で溺れているかのよう。
彼らが去った後。教室に残る、冷たい空気。 残像。彼らの背中。修を囲む、透明な壁。 静寂。それは、彼らの喧騒よりも重い。耳鳴りのように響く、苛烈な沈黙。 修はゆっくりと顔を上げた。窓の外。茜色に染まる空。 夕焼け。それは、彼の心の燃え盛るような怒り。あるいは、悲しみの血の色。 「いつか……いつか、俺も強くなりたい」 唇から漏れる、心の叫び。誰にも届かない、小さな願い。 「こんな現実に、打ち勝てるくらいに……」 その願いは、虚空に溶けて消える。
修にとって、ゲームは単なる遊びではなかった。それは、彼の魂の避難場所。 攻略本。擦り切れるまで読み込んだページ。 キャラクター。彼の分身。現実ではありえない、圧倒的な力。 レベルアップ。数値の上昇。確かな成長。 スキル習得。新たな可能性の開花。 ダンジョン。困難。それを乗り越えた先の達成感。 ゲームの世界では、努力は必ず報われた。時間をかければ、強くなれた。アイテムを組み合わせれば、新たな武器が生まれた。どんな敵にも、攻略法は必ず存在した。彼の「我流格闘術開発」や「我流剣術開発」も、このゲームから派生した空想の遊びだった。 現実では、いくら努力しても、吉田の鉄拳一発には及ばない。
任侠映画。それは、彼の精神の拠り所。 主人公。傷だらけの男たち。しかし、その眼差しには、決して揺るがない信念の光。 暴力。それは醜い。しかし、その奥に潜む、譲れない「筋」と「義理」。 逆境。絶体絶命のピンチ。しかし、決して諦めない。 不屈の精神。それは、修が最も欲しかったもの。 素手。あるいは、手近なもの。鉄パイプ、木刀、あるいは折れた傘。 全てが武器。使い方次第で、凶器へと変貌する。 彼らが魅せる、喧嘩のセオリー。相手の裏をかく動き。間合いの駆け引き。最小限の動きで、最大の効果を叩き出す。 修は、映画の動きを何度も反芻した。脳内で完璧な型を練り上げる。カウンター。連撃。急所への一撃。 もし、あの吉田が相手でも……と、何度も想像した。しかし、それはいつも空想の中で終わった。
アニメ。それは、彼の希望の光。 ヒーロー。理不尽に立ち向かう者たち。 異能力。常識を超えた力。 友情。絶対的な絆。 巨大な敵。世界を脅かす悪。 彼らは、どんな困難にも臆さず、仲間と共に立ち向かう。そして、勝利する。 特殊な力。それは、修が最も憧れたもの。彼には何もない。ただの凡人。 しかし、アニメのキャラクターは、時に弱くても、知恵と勇気で強大な敵を打ち破る。 「そうか、知恵と工夫……」 その言葉が、修の心に小さな光を灯す。 彼の「我流剣術開発」は、アニメの高速戦闘や、剣士たちの華麗な動きを模倣するところから始まった。 想像の中で、彼は最強の剣士。どんな敵も、一刀両断。 しかし、現実の彼の体は、想像とはかけ離れた非力なもの。竹刀すら満足に振れない。
その夜、修はいつものようにベッドに潜り込んだ。 部屋の隅。積み上げられたゲームソフト。散らばった漫画雑誌。 液晶画面の残像。目に焼き付いた、バーチャルな世界。 明日のこと。考えたくない。明日も、明後日も、同じ日の繰り返し。 重い瞼。落ちていく意識。 せめて夢の中だけでも、強く、自由に、誰にも邪魔されない世界でいたいと願った。 彼の意識が、ゆっくりと闇に沈んでいく。 深い、深い、海の底。 静寂。安らぎ。 心の奥底からの、切なる願い。 「もし、生まれ変われるなら……もっと強く、もっと自由に……」
その闇が、突然、まばゆい光に包まれた。 視界を焼く純白。それは、まるで宇宙の誕生。あるいは、時間の終焉。 耳朶を劈く轟音。地響き。雷鳴。 修の身体が、宙に浮く。無重力。方向感覚の喪失。 全身を駆け巡る、激しい痺れ。神経が焼き切れるような感覚。 「う……あ……!」 声にならない叫び。口から漏れるのは、ただの呻き。 脳裏を駆け巡る、走馬灯。 吉田の嘲笑。クラスメイトの冷たい視線。 ゲームのBGM。任侠映画のテーマ曲。アニメのオープニング。 我流格闘術の型。我流剣術の閃き。 その全てが、混沌の渦に飲み込まれる。 光の奔流。時間の歪み。空間のねじれ。 修の意識は、薄れていく。 そして、最後に感じたのは、底知れない、未知への落下感覚。
意識が、覚醒する。 それは、硬い床の感触。 重力。現実。 だが、そこは、見慣れた自分の部屋ではなかった。
冷気。肌を刺すような。 空気の匂い。カビと、香木の混じった、古めかしい匂い。 目を開ける。 そこは、薄暗い広間。 巨大な魔法陣。床に刻まれた、見慣れない文様。 周囲には、ローブを纏った人々。神官らしき者たち。 そして、彼らの視線の先には……。 見慣れた顔。 クラスメイト。 吉田。佐藤。田中。鈴木。 彼らもまた、修と同じように、戸惑いと、どこか高揚した表情でそこに立っていた。 異世界。 その確信が、修の心を支配した。