32. サンダーサーモンのムニエル
釣りを始めてから数時間。太陽が頂点に昇り少し傾いたころ。バケツの中ではサイアスが釣り上げた立派なサンダーサーモンがばちゃばちゃと蠢いている。日差しを受けた水面はキラキラと輝き、何かの魚が小さく飛沫を上げた。
「腹減ってきたあ」
小鳥が木々の間を羽ばたいてく音が聞こえる長閑な昼下がり。くあ、と欠伸をしながらサイアスが気の抜けた声で言う。ハルカはそんなサイアスを横目に見てくすりと笑った。
「そろそろ休憩しますか」
昼時を少し過ぎた時間帯は、確かに空腹を覚えてくる時間だ。魚が掛かる気配もないので、いったん引き上げてもいいだろう。ほかほかと温まった頭頂部をぺたりと片手で撫でる。風に揺られる釣り糸をなんとなしに見た、そのとき。
「あ、」
ぐん、と引っ張られる身体。川へ引きずり込まんとばかりの強さで引かれるそれに身体のバランスは崩れ、踏ん張ることもできない。
片手でしか持っていなかった釣り竿を落とさないように咄嗟に握りしめた。
「わ」
それが間違いで、岩縁へ向かってたたらを踏む。なんとか抗おうとするも力強い引きに負け、そして釣り糸の先にいるであろう魚も諦めることはなく。
そこそこの勢いで流れる水面が眼下に広がる。落ちても死にはしないと思っていたが、こうしてバランスを取れないまま落ちれば頭を打ちつけるかもしれない。水流に押し流されてしまうかもしれない。滝を落ちるのは痛そうだ。
爪先が岩からはみ出る。
「主ッ!?」
がっしりとした腕に支えられて、ハルカの躯体がガクンと揺れる。釣り竿を落としそうになり両手で掴んでも、身体は川へと向かわなかった。
引っ張り続ける釣り竿と、力強い腕。前後に引っ張られ足裏が浮くも、もう落ちる心配はなかった。
「あっぶね~! 焦ったァ!」
片腕をハルカの腰に回し、もう片腕で自分の釣り竿を支えながら、サイアスは安堵の息を吐く。
「ありがとうございます、サイ」
「いやいやいや、もうちょい焦ってくださいよ」
「びっくりしました」
こう見えてハルカはきちんと驚いているし焦ってもいる。ただ抗おうにも自身の体幹では無理だとすぐに悟り、打ちどころが悪いと困るがまあ落ちても死にはしないだろうという見積もりを信じ、できれば綺麗な受け身を取ろういう心構えをしていた。釣り竿を手放せば自身の安全は保たれたが、これはサイアスに借りたものだ。自分のものであれば躊躇なく放り投げるものの、他人の物に対してはすぐに判断ができなかった。
ちゃんと座って、しっかり竿持って、とサイアスに促され、ハルカは大人しくその通りにする。
「てか主、軽すぎッス」
「それ、トラディスさんにも言われました」
「美味い飯作れるんだからちゃんと食ってくださいよ。ほら、まだ魚引いてるから、手繰り寄せて」
特別に体重が軽いわけではなく、成人男性並みかやや瘦せ気味という程度なのだが、こう連続で言われると些か不安になってくる。食べる量だって通常かやや小食というくらいだ。騎士の基準には至っていないというだけだと思うのだが。
しかし今のように危機が迫ったときに自衛ができないのはよろしくない。馬に乗るにも筋力や体力が必要だろうから、トレーニングをしたほうがいいのかもしれない。
そんなことを考えながら、ハルカは暴れる釣り糸をせっせと手繰り寄せれば、大きなサンダーサーモンを引き上げることができた。
「やっと釣れました」
サンダーサーモンを自慢するように掲げて、隣で足を投げ出していたサイアスに顔を向けると、サイアスは仕方なさそうに眉を下げ、目元を緩めて笑った。
「よかったッスねぇ」
「はい」
「俺は腹減りました」
「そうですね、お昼にしましょう」
念願の釣果を得たハルカは、ほくほく顔で岩辺から降りる。
木陰の、座りやすそうに木の根が盛り上がったところに座り、バスケットを開いた。隣に座ったサイアスが目を輝かせて覗き込んでくる。
中には照り焼きチキンのサンドイッチと紅茶のボトル。紅茶をカップに注いでいる間に、サイアスがサンドイッチへと手を伸ばした。
「これなんスか!?」
「照り焼きチキンのサンドイッチです」
断面に見える鶏肉はジューシーで、緑が綺麗なレタスとのバランスがよく非常に食欲を掻き立てる。照り焼きのタレが滲みて茶色く染まったパンも美味しそうだ。
「いっただきまーす!」
「どうぞ」
ぱかりと大きな口を開けたサイアスが、豪快にサンドイッチに齧り付いた。じゅわりと溢れるタレ。はみ出るチキン。落とさないように手で抑える。大きな一口を咀嚼し飲み込み、指先についたタレを舐めとったサイアスは真顔で告げた。
「うっま」
「よかった」
スンとした表情ではあるが、口に合ったようで何よりだ。ハルカは紅茶を一口飲む。乾いていた喉に染み込むアイスティーが心地よい。サイアスが真顔のまま、サンドイッチにガンを付けるように見つめて呟く。
「すんげェうまい」
「サイ、顔が怖いです」
ハルカが苦笑すると、バッと勢いよくその怖い顔が向く。
「いや、美味すぎ。こっち来てから主の料理食ってたけど、やっぱり美味すぎッス」
「外で食べるとより美味しく感じますしね」
ハルカもサンドイッチを手に取り、ぱくりと一口齧る。木洩れ日の中で食べるご飯はどうして美味しく感じるのか。シャキシャキとしたレタスとぎゅっと身の締まったチキン。照り焼きの甘辛い味とマヨネーズのコクが合わないわけがなく、いくらでも食べられそうだ。
「……そういうことじゃないと思うんスけど」
怪訝な顔をしながらもばくりと大口でサンドイッチに齧り付き、サイアスは「うめェ」と繰り返した。
サンドイッチを食べたあとに釣りを再開してしばらく。サイアスがさらにサンダーサーモンを釣り重ね、ハルカがかろうじてもう一匹を釣り上げたので帰路に着いた。馬の上で揺れるハルカの後ろで、水に浸かったサンダーサーモンがぴちゃりと跳ねている。
「サンダーサーモン、どんな料理にしましょうね」
美味しいらしいというサンダーサーモン。味はハルカの知るサーモンと同じなのだろうか。この世界の食材は日本のものと見た目も中身も似たものが多い。若干色や形が違うこともあるのだが、味や食感は同じなので調理しやすくて助かっている。
ただそれは普通の食材に限った話で、魔物については比べようもない。オークは豚に似た肉質であったが。サンダーサーモンも、サーモンに似た味だとやりやすい。
「普通はただ焼いて食うだけッス」
ハルカの前で馬を操るサイアスが返事をする。なるほど、とハルカは頷いて、この世界の食文化を思い出して納得する。焼くか煮るくらいしか調理手段が浸透していないこの世界は、魚も同様らしい。生では食べられないのだろうか。生食の文化自体は元の世界でもレアな方ではあったのでこの世界でなくても不思議ではない。生食にリスクが付きまとうのは世界線が変わっても同じだろう。日本でも、サーモンの類は生で食べられるものと加熱が必要なもので種類が違ったはずだ。異世界で食あたりは避けたいのでリスクを冒してまで生で食べようとは思わない。
「それも悪くないですよね」
「え~でもせっかくなら主の調理したのが食いたいッス」
「そんなに凝った料理を作れるわけではないんですけど……」
ハルカは魚料理のレパートリーが多いわけではない。一般的な家庭で出てくるものであればなんとなく分かるが、一人暮らしで魚料理を頻繁に作ることはなかった。どうしても肉に偏りがちだったのは男の一人暮らしならそんなものだろう。
しかしサイアスが期待してくれているなら、できる範囲で応えたいとも思う。
「んー……、サーモンと言えば、ムニエルですかね」
「むに?」
王宮に帰ってきたハルカは、早速厨房に立っていた。ちょうど夕食の準備をしているところで、厨房内は料理人たちで賑わっている。
釣り上げたサンダーサーモンは十匹ほど。ハルカとサイアスで分けるにはもちろん多く、しかし王宮の夕食のメニューにするには数が足りない。どうしようかなと考えつつ、ひとまずサンダーサーモンの下拵えから取りかかる。
まな板にギリギリ乗るサイズの大きな鮭といった相貌のサンダーサーモンを捌いていく。鱗を取って腹に包丁を入れ、内臓を取り出して頭を落とす。背骨を取るように二枚に下ろし、ひれや腹骨など食べられない部位を適当に削ぎ落してく。あまり上手ではないかもしれないが、食べられれば良いのだ。ざっくりと鮭を捌き終えれば食べやすい大きさの切り身に切り分ける。やや黄色みを帯びた身は違和感があるが、肉質はやはり見慣れたサーモンに似ている。
「お、サンダーサーモンか」
切り分けたサーモンに塩を振っていると、レタスを両腕に五つずつ抱えたジャックが顔を覗かせた。
「はい、釣ってきたんです」
「大量じゃないか!」
「俺は二匹釣りました」
「あー……、残りはサイアス殿か……。よかったな! ボウズにならなくて!」
「はい」
ニコっと微笑むハルカに、ジャックはもニッカリと笑顔で返してそのまま夕食準備へと戻っていく。ハルカは二匹でも立派な釣果だと思っている。心底。
塩を振ったサンダーサーモンの表面の水気を拭き取り、小麦粉をまぶせばムニエルの準備は完了。フライパンに油を引いて、皮目を下にしてサーモンを並べて火を点ける。
「弱火……」
魔導コンロの火加減は、魔法を使えなくてもある程度はできるようになっているが細かい調整は難しい。このままでも焼けるだろうが、焦げそうな気もする。
誰かに助けてもらおうか、と顔を上げたハルカが見つけたのは、先ほど良い笑顔を見せてくれた料理長。
「ジャックさん」
「お、どうした」
「火を少し調整したくて」
「ああ」
ハルカが魔法を使えないのは厨房内では周知の事実だ。ジャックはサラダを作っていた手を止めてコンロの前まで移動する。
腰を屈めて火の様子を見つつ、ハルカに確認しながら火の勢いを弱める。
「サンダーサーモンの焼き魚か?」
「ムニエルっていう料理です。小麦粉をまぶして焼いてます」
「へえ。流石、ハルカだな」
ちょうど良い火加減にしてもらったハルカは、ジャックにお礼を伝えて「そういえば」と言葉を続けた。
「これ、全員分はなくって。誰に食べてもらおうかなって悩んでて」
サイズは大きく、切り身にすればそれなりの数にはなるものの、王宮内に勤める全員分にはやはり満たない。料理人で分けてもらっても一人一切れは難しそうだ。どうしたらいいか、と気軽な気持ちで尋ねたハルカだったが、ジャックは鬼気迫った顔でハルカに向き直った。
「戦争になるぞ」
「そこまででは……」
ハルカは困ったように笑うも、ジャックは至って真剣だ。
ハルカの料理を知っている者であれば誰でも譲ることはできない。誰かが食べられて、誰かが食べられないなんて状況が生まれれば、血で血を洗う争いになるだろう。かくいうジャックも、全力で勝ちに行く。これでも料理人には見合わない筋力を持っているのだ、ここで活かさずにどこで活かすというのか。
しかし王宮内で、厨房内で、料理を巡って血を流す闘争をするわけにはいかない。
「……王族の皆様は召しあがるだろう。残りは厨房内で分けよう、俺がなんとかする」
「よろしくお願いします」
ジャックに任せれば大丈夫だろう。喧嘩にならないように上手に分けてくれるはずだ。安心だ、というようにハルカは頷いた。
弱火でじっくりと焼き、こんがりと色づいたら裏返して余分なあぶらを取り除きつつ身に火を通していく。全体に火が通れば、フライパンにバターを入れて溶かしながら全体に絡める。焦げないように身をひっくり返しつつ、バターの香りを全面に纏わせればサンダーサーモンのムニエルの完成だ。
丁寧に焼いたサンダーサーモンは黄色みがかったピンク色の身がふっくらとしており、黄金色の皮目がパリッと焼き上がっている。ただ焼いただけと言えばそれまでだが、やはり普通の焼き魚とは一線を画す料理になった。
「できた」
「バターの香りが凄く良いな」
「ですね。ジャックさん、一緒に味見してみましょう」
「あーるーじ、俺も!」
「サイ」
音もなくハルカとジャックの間に現れたサイアスに、ハルカはこともなげに名を呼びジャックはびくりと肩を揺らす。相変わらず気配を消すのが上手だなあ、とハルカはのんびりと構えているがジャックの心臓は煽りっぱなしだ。
(ハルカの護衛騎士になったサイアス殿、流石だな……)
ハルカはもちろんだが、ジャックもいつサイアスが現れたのか分からなかった。おそらく周りの料理人たちもそうだろう。誰も騎士であるサイアスに挨拶をした素振りがないのがその証拠だ。いったいどんな技なのかという憧れの気持ちと、騎士に必要なのかという疑問が同時に浮かぶも口にはしない。
「はい、どうぞ」
ハルカが切り分けたサンダーサーモンのムニエルをフォークに刺して、ジャックとサイアスに手渡す。受け取った二人はそのままばくりと大きな一口に放り込んだ。
「んっま~!」
「ふっくらとした身とパリッとした皮が非常に良いな。バターの風味もよく合っている」
上々な二人の感想を聞いてから、ハルカも一口齧る。サンダーサーモンの味が分からないまま作っていたが、日本で食べていたサーモンよりも脂が乗っていて身がしっかりとしている。そう大きく変わりなく、サーモンとして扱って良さそうだ。ムニエルもぴったりと合っている。味が濃厚なので、ソースはなくても大丈夫そうだ。
「うん、上手くできました」
「主の料理は流石っすねぇ。あのサンダーサーモンがこんなに美味くなるんスから」
「サイが釣りに連れて行ってくれたおかげです」
「楽しかったッスね~! また行きましょうねっ」
にこーと人懐こい笑顔を見せるサイアスに、ハルカも頷いた。
「料理長!! ここは平等にくじで!!」
「いーや、腕相撲だ!! イカサマできないように実力で勝負だ!!」
「一口ずつなら全員食べられるんじゃない?」
「嫌だ! もっと食べたい!!」
「お前、前にハルカさんが作った賄いいっぱい食ってただろ!」
「あんときはあんとき、今は今だ!」
「うるっせェ!! 大人しく分けられねぇなら誰にもやらねぇぞ!!」
はあ、と大きな溜息を吐くジャックは、ほんの少しだけハルカを恨む。ハルカがもっと釣りの腕前が良ければ、と。




