3. 勇者じゃありません
「ハルカ様、こちらへ」
ほかほかと湯気を立てながらリビングへと戻ると、窓際にあるドレッサーの前でアッシュが待っていた。促されるままに椅子へと座れば、バサリと大きな布を被せられる。
「わっ、アッシュ君?」
「少し、整えさせていただきます」
そう言って、アッシュはシルバーに輝くハサミを持ち出した。
「え」
「動かないでください。危ないので」
そう言われてしまえば、ハルカは身動きが取れない。はじめに、魔法で出したらしい柔らかな温風で軽く全体を乾かされ、それからハサミが毛先を走る。シャキ、シャキ、という小気味よい音に不安はないが、いきなりのことに動揺が隠せない。
鏡に映るのは、美少年に髪をカットされている自分の姿。
「……アッシュ君は、何でもできるんだね」
迷いのないハサミ捌きに、ハルカは感心した。日本では美容院にマメに通う方ではなかったため詳しくはないが、美容師と遜色ない動きに思える。躊躇いなく頭の上を動くアッシュの手。髪を梳く指使いは、心地よいものだ。
「執事たるもの、主人の身の回りの世話はすべてお任せいただけるようになるべきです」
「すごいんだねぇ」
「……私はまだ、見習いですが」
「あれ、そうなんだ。もう立派に執事らしいから、そうは見えないなぁ」
「……年齢制限が、あるのです」
納得していないと言わんばかりに、声色に不満が滲み出る。それが可笑しくて、ハルカはくすりと笑った。目を閉じて、とアッシュに促されるままに瞼を下ろす。そっと前髪にコームが通され、アッシュの指が額を掠めた。少しくすぐったいのを我慢して、じっと動かないように努める。
「なるほど。聞いてもいいかな、アッシュ君、いくつ?」
「13です。執事は、15歳から認められます」
「あと少しだね」
「はい。……できました」
柔らかな風で整えられたあと、目の前の鏡に映っていたのは。
「わ、すごいね、アッシュ君」
最近は美容室に行けていなかったために伸び放題だった髪が、綺麗に整えられていた。いつもなんとなく長めにしてしまっていた前髪もすっきりとしており、視界が明るい。全体的なボリュームも抑えられており、頭が一回り小さくなったように見える。
髪自体も、どこかつやつやとしている気がする。王宮のシャンプーだ、良いものだったに違いない。アッシュの整える技術も素晴らしいのだろう。するりと毛先に指を絡めると、馴染みのない良い香りが漂った。
自分であることには間違いないが、いつもよりもかっこよく見える。特段顔立ちが醜いとは思っていなかったが、整え方によっては良くなるものらしい。
「ハルカ様は、このような髪型のほうがお似合いです」
「なるほど。今まで気にしたことなかったな。これからはアッシュ君に頼むね」
「……お任せください」
鏡越しに目を合わせながらそう言うと、アッシュは嬉しそうに小さく笑った。
(お、やっぱり美少年だ)
幼さが残るものの、銀の髪に白い肌、薄紅色の唇がゆるやかに弧を描く様は、庇護欲を掻き立てられる。女性が見れば一発で恋に落ちてもおかしくない。大人になるのを待つ価値がある美形だ。
ハルカは鏡越しにその様子をにこにこと眺めていると、アッシュは気恥ずかしそうに咳払いをしてぴしりとした顔つきに戻った。
「ハルカ様、お着替えはこちらに」
「はぁい」
「うおっ、見違えたな!?」
「ハルカ様、お綺麗です!」
トウリが驚き、エミーレが喜ぶ。
「……」
「うん、やはり素材が良かったみたいですね」
アスカは横目に確認して小さく頷き、イエディはにこにこと微笑んでいる。
「えっと、ありがとうございます」
そうジロジロと見られると居た堪れない。あなたたちのほうが数百倍麗しい見目をしておりますが、と言いたいと思いつつハルカはへらりと礼を述べる。
アッシュに整えてもらったヘアスタイルに、アッシュが用意した服。平民が着るものではないことが一目で分かるほどの上等な布で仕立てられたそれに袖を通すと、ただのサラリーマンもそれなりに見えるものだ。王族たちが着るものとはもちろん違うのだが、貴族の休日用の服、といったところだろうか。
シンプルなブラウスの襟には繊細な刺繍が施されている。綺麗なブルーのベストを合わせると、華美ではない美しさが引き立つ。黒いズボンもごくシンプルな作りだが、履き心地の良さがその質を物語っている。シルバーのバックルが付いたベルトを手渡してきたアッシュは、すごく満足そうに頷いていたなとハルカは思い返した。
小綺麗になったハルカがアッシュに案内されて辿り着いたのは、王族専用の食堂だった。王族以外は別の食堂を使うらしい。こんなところに、一般人の自分が入ってもいいのかとハルカは確認するも、「陛下がそのようにと」と言われてしまえば拒否権はない。
「ハルカ様、こちらにどうぞ」
先に部屋にいたエドワードが促す椅子へと座ると、しばらくして食事が運ばれてきた。
「……さて、改めて説明する」
アスカは重々しげに口を開いた。
確かに、あの“儀式”の部屋では簡単なことしか聞いていない。どうしてハルカがこの国に呼ばれたのか。どうして手違いが起こったのか。これからどうすればいいのか。知りたいことは山ほどある。
「お願いします」
ハルカは席についたまま、頭を下げた。
「まずは、そうだな。儀式についてだが――」
ウィラウール王国で行われる年に一度の祭典、「勇者祭」。数百年前に、勇者が国を救ったのが始まりとされている。
数百年前、この世界は魔物が蔓延り人間たちは危機に陥っていた。そのとき、世界を救ったのがウィラウール王国が異世界から召喚した勇者であった。勇者は武力と魔力の両方を用い、魔物を制圧した。勇者は異世界の知識を豊富に持ち、しかしそれをひけらかすことはせず、力を誇示することもない人格者でもあった。勇者はこの世界に平和をもたらしたのち、ウィラウール王国の繁栄にも多大に貢献した――。
これが、いわゆるウィラウールの国民であれば幼いころから聞き、大人になってもある種の信望を捧げる“勇者伝説”である。人々はこの世界救済の勇者を称え、平和な世を喜ぶために祭を開くことにし、その文化は今でも連綿と受け継がれている。
しかし現代においては勇者への信仰心はあると言っても祭の在り方はすでに形骸化しており、ただの大きな祭典のように国民は認識しているらしい。伝説というのもはそういうものだ。
祭が近づくと国中が浮足立つ。他国から訪れる観光客も多いそうだ。もっとも華やかなのは王都ではあるが、大小さまざまな街や村もお祝いムードとなり国中で祭典が行われる。祭が始まるとその賑わいは数日続き、屋台や出し物がずらりと並ぶ。勇者と魔物との戦いを模した演劇は毎年老若男女問わず大人気。人々は笑顔で勇者祭を楽しむのである。
そんな中、国としてはある儀式を行うことが通例とされている。それが、今回ハルカが召喚されることになった儀式である“勇者召喚の儀式”。
国の危機と勇者の偉業を、国を統べる者として決して忘れないように。始まりは数百年前に勇者がこの世界に召喚された儀式であるが、これも現在では形だけのものになっている――はずだった。
今回行われた儀式と今までに行われていたもので、方法や魔法陣で異なるところはなかった。今まで、数百年間。この儀式を執り行い、勇者の召喚を祝ってきた。決して勇者を召喚しようと行うことはなく、ただ勇者に敬意と感謝を示すための儀式だ。
一点。今年の儀式が今までのそれらと違ったところと言えば。
「今年は、初めて王族四人で儀式を行ったんだが」
「検証はこれからですが、おそらくそのせいですね」
アスカの話に、長兄であり魔導士であるイエディが真剣な顔で頷いた。
儀式は、魔法陣に対して王族が魔力を注ぐというものである。魔法陣は当時も使用されたものであるし、注ぐ魔力も本物。そうはいっても儀式自体が形式的なものである。実際、勇者召喚のために必要な魔力は膨大であるとされており、それを数人の王族で賄うことは理論上不可能である。当時は国中から大魔導士と呼ばれるような実力者を集め、何日もかけて魔力を注入したとされているのだ。さらに、魔法陣は数百年前に描かれたものであるから、ところどころ掠れたり欠けたりもしている。正常に発動するわけがない。
それゆえに、この儀式で魔法陣が発動することは今までなかった。そう、今までは。
「おそらく、魔力が多すぎたのでしょう。私たちは、歴代の王族の中でも魔力が豊富だと言われていますから」
「俺と兄上たちの三人でやってたときは大丈夫だったのにな」
「ええ。ただ、私たち三人でも、もしかしたらギリギリだったのかもしれません。そこに、エミーレの力が加わったので」
「私のせいかしら……」
「そういうわけではありません。これは私たちの、国の失態です」
魔力が豊富な四人の王族によって儀式が執り行われた結果、召喚が成功してしまった。
「それで、どうして俺だったんでしょう?」
「偶然、ですねぇ」
「ぐうぜん」
「今回は形式的なものでしたからね。魔法陣も、どこかに綻びがあったのでしょう。そのため、無作為に異世界の人間を召喚してしまったのだと思います。ハルカがいた地点が、偶然にも魔法陣と繋がってしまったのでしょう」
イエディの説明に、ハルカは今日何度目かの気の抜けた返事をすることしかできない。
「はぁ」
運が良いのか悪いのか。生活に刺激を求めてはいたが、ここまで激烈なものでもなくてよかったのに。
「まあ、もう来てしまったものは仕方ないですね」
「……ハルカは落ち着いているな」
アスカは片方の眉を上げて口を開いた。ハルカの落ち着きぶりが気になったらしい。ハルカを見つめる瞳は咎めるでもなくただ真っ直ぐで、その奥にほんの少し滲む色は心配か、罪悪感か。ハルカはそんなアスカに言葉を返さずにこりと微笑んだ。
確かに、普通であれば発狂してもおかしくない状況ではある。とくに目的もなく、ただの偶然で、異世界に強制的に飛ばされたのだ。慌てふためき、泣き叫んでも許される。
しかしハルカは冷静であった。冷静であらざるを得ないというのかもしれない。人間はキャパシティーを超える出来事に脳の働きを鈍化させる。
そもそも、ハルカは感情の起伏が激しい方ではない。冷静と言えば聞こえは良いが、悪く言えば鈍感であり、自他への興味関心が薄いのだ。興味関心は薄いわりに、あまりハズれた言動をするのを恥ずかしいとは思う。激しい感情を表に出しても良いことはないという効率主義なところもある。そのため、ここで泣き叫ぶ自分を見たくない、という理由で落ち着いた態度を取るようにコントロールしている。
「すぐに戻れるってわけでもないんですよね」
そして、ラノベでファンタジー物を好んで読み、憧れを抱いていたにもかかわらず、きわめて現実主義な一面もある。
ハルカは、いま自分の目の前にある最大の問題をイエディに問いかけた。つまり、日本に帰ることができるのか否か。その答えを予想しつつ。
「申し訳ないですが、約束はできません。理論上、異世界と繋げるだけなら私たちの魔力があればすぐにできます。しかしながら、数ある並行世界の中のどこに繋がるかも分かりません。今まで勇者を返還した記録もないので、ハルカを元の場所に戻せる保証ができないのです。もちろん、これから全力で調べます。しかし、時間はかかるかと」
魔導士であるイエディが言うならばそうなのであろう。申し訳なさそうに言うイエディに、ハルカは軽く手を振った。すぐには日本に帰ることはできないわけだが、そこまでのショックはない。想定の範囲内であるし、日本への未練もそこまではない。
イエディ曰く、この世界と元の世界以外にも並行して世界は存在しているらしいから、強制的に返還されてまた知らない世界に飛ぶことになっても困る。幸いなことにこの世界では言語が通じ会話も成り立つ人々に出会うことができたが、次の世界がそうとは限らない。
「いいえ、まあ、戸惑ってはいますが……。むしろ俺なんかですみません」
「ちなみに、ハルカは勇者じゃないんだよな」
トウリがテーブルに肘をつきながらハルカをじっと見つめた。「え」とハルカが零すと、今度はイエディへと視線が動く。イエディの眉が、弟の遠慮のない発現に困ったようにゆるやかな弧を描く。
「ええ。勇者ではないと思います」
「……ですよね」
ハルカは乾いた笑いを浮かべて同意した。あっさりと肯定されると、分かっていても少しがっかりとしてしまう。勇者になりたいわけでもないのに、どうしてか。男心というものだろうか。多少なりの憧れというか、夢というか。
イエディの言葉にトウリはふうん、とだけ言って再びハルカに視線を向ける。その見定めるような胡乱げな視線は、本来であればアスカやイエディからも向けられていておかしくないものだろう。二人からは配慮をされていたということにハルカは初めて気づく。
「もちろん、きちんと調べてみないと断定はできませんが……。ハルカ、魔法は使えますか?」
「魔法」
「こんな感じで」
イエディが掲げた手のひらの上から、ぽっと光が生まれる。次には炎が。その次には水球、そして風が起こった。どれも小さな魔法であるが、それがすぐに、いとも簡単にできるのはきっと実力者ゆえなのだろう。
「うーん……?」
ハルカも見様見真似で同じように手のひらを掲げてみるも、何も起こりそうにない。
「勇者だと、魔法が使えるんですよね……?」
「ええ、文献上はそうされています。基本四属性に加えて、応用魔法に身体強化、その他スキルを備えていると」
「コイツなんもできなさそー」
「こら、トウリ」
バカにするうようなトウリの言葉に、しかしハルカは否定する術を持たない。おそらく本物の勇者であればチート待遇で魔法の理論だとかが頭の中に刻まれており、習わずとも自由に魔法が使えるのだろう。
しかしながら、ハルカの身には自覚できる変化は何一つとして起きていない。残念ながら。頭の中にも、魔法の使い方なんて浮かんでこないし、魔力が巡る感覚なども勝手には分からない。
「俺、勇者じゃなさそうです……」
「そうだろうな。勇者を召喚しようと思って儀式を実施したわけではない」
アスカが低い声で呟いた。威厳がこもったその声は、空気を引き締めるようだ。その言葉に、ハルカがビクリと姿勢を正す。
「あの……、俺、勇者じゃなかったら……」
おずおずと手を上げるハルカを、王族たちが一斉に見つめた。
「追い出されます?」