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26. 無口なだけ

「……」

「あっ、スリィ!」


 ハルカの肩辺りで、艶やかな黒髪が揺れる。ふっと上げられた瞳も、同じ漆黒。透き通るように白い肌は一歩間違えれば病的に見えるだろうに、彼の纏う雰囲気が儚さと美しさへと昇華している。


「スリィ、くん?」


 誰かが叫んだのは、数字ではないのだろう。明確にこの隣の彼に向けられたそれに、名前かなとハルカは口にしてみた。こくり、と頷く姿から間違ってはいないようだ。

 彼は確か、先ほどまで食糧庫の整理をしていたはず。普段は、皿洗いや清掃をしていることが多い。コックコートを着ているからここの料理人として働いているのだろうが、いわゆる下働きなのだろうか。まだ若そうだし、とハルカは勝手な予想を立てる。

 少し幼さが残る顔を覗き込むと、黒い宝石のような瞳がゆらりと揺らめいた。


「あー、ハルカさんすみません。スリィは喋られなくって」

「あ、そうなんですか」


 先刻彼の名前を呼んだ料理人が、補足するように説明してくれる。スリィは孤児であり、運良くこの王宮の世話好きの騎士に拾われて幼いころからここで暮らしていること。働ける年齢になってからは、彼自身が選んでこの厨房で働いていること。話せないのか、話さないのか。どちらにせよ何かしら理由があるのだろうが、彼自身の口から何かが発せられることはないので分からないこと。医者いわく身体的な問題はないとのことなので、精神的なものだろうとされているらしいこと。

 すんと澄ました顔をしているスリィは、逆に言えば無表情で感情が読めない。でも、とハルカはその瞳をじっと見つめながら首を傾けた。


「気になる?」


 こくん、と頷かれる。年齢も分からないらしい彼だが、アッシュと同じくらいか、少し上か。トウリの方が年が近いかもしれない。残す幼さは彼を美しいと思う人間に背徳感を抱かせる。

 スリィは黒曜石のような瞳を真っ直ぐにハルカへと向ける。目新しい、何をしているか分からない、普通の料理とも違いそうだ。そんなふうに思っているのか。ハルカは柔らかく微笑んだ。


「じゃあ、一緒にやろうか」


 こくん、と頷かれる。興味を持ってもらえて嬉しい、とハルカはにこにこと頬を緩ませる。ああ、それなら俺が声をかければよかった、と後ろの料理人たちは密かに悔しそうにしている。


「と言っても、そんなに難しい作業はなくって……、あ」


 ハルカは、料理人たちが木と思っている鰹節を手に取った。


「スリィくん、魔法得意?」


 こくん、と頷かれる。後ろがざわつく。え、そうだったの、という声がハルカの耳にも届く。


「風魔法は?」


 こくこく、と頷かれる。それは助かる、とハルカは小さなナイフを手に持って鰹節に刃を掛けた。カッ、カッ、と何度かぶつけて、やっぱり上手くできないと呟きながらなんとかひとかけら削ぎ落とす。料理人たちは、やっぱり木の塊では、とその音と質感を見て若干の胡乱な目をハルカの手元へと向ける。ハルカを疑いはしないが、ハルカの持っている未知の食材は訝しんでしまう。


「こんな感じで、でもこれよりももっと薄く……、そうだな、向こうが透けるくらいの厚さに削れるかな」


 スリィはじっとその向こう側が透けもしない、ただの木の欠片みたいなハルカの見本を見つめる。それからコクリと大きく頷いて、ハルカの手から鰹節を受け取った。


「……」


 スリィの手のひらが鰹節にかざされる。ふわりと光を纏った鰹節から、するすると薄い削り節が生み出されていく。


「わ、すごい」


 ハルカは慌ててその下へボウルをセットして、ふわりふわりと新雪のように積もっていく削り節を受け止め、スリィの器用な魔法をただただ眺めた。ふんわりと光を纏っているのはなぜなのだろうか。フィルやアッシュが使っていたときは、そんな様子はなかった気がする。いやよく見ていなかっただけかも。どうだったかな、と思い返していると、ふっとスリィの目が向けられる。こてん、と小首を傾げているのは、「これで合っているか」と確認しているのだろう。ハルカが目尻を緩めて肯定すると、安心したように再び鰹節へと視線を戻す。

 

 そんなスリィとハルカの後ろで、料理人たちが驚愕している。スリィがここまで高度な魔法を使えることを知る者はいなかったのだ。ハルカはのんびりと眺めているが、スリィの手元が明るく光っているのは高難度の魔法を展開しているからだ。普通に魔法を使う分には、普通の魔力を注ぐ程度では手元は光らない。大きな魔力を使用したり高難易度の魔法を展開するとき、魔力が光の靄となって漏れることがある。熟練の魔導士ともなればその光すら抑える技術も持ち合わせるらしいが、それは今は関係ない。

 スリィが厨房で働いているのは彼の希望だと、料理人たちは聞いている。世話好きの騎士に拾われたゆえに騎士になる道も示されていたが、彼が拒否したと。騎士は随分と落ち込んでいたらしいが、快く厨房へと送り出した。

 そしてスリィがとくに調理に携わることなく皿洗いをしたり掃除をしたりといった下働きのような仕事をしているのも、彼が好んでしていることらしい。調理に携わることも選択肢として提示されたが、スリィ本人が雑用の方が良いと言ったそうだ(実際には言っていないが)。料理長のジャックがそう言うので間違いはないだろう。

 この王宮内は、とくに先王のころから実力主義な面が大きい。血筋を軽視もしないが、実力さえあればかなりの出世が望める。それに対してあからさまな否を唱える人間もこの場所にはいない。内心はどうか知らないが、実力さえあれば生まれの貴賤を問われることはない。

 それは王宮の厨房でも同様であり、つまりはスリィが孤児だからと下働きを強制しているわけではない。彼が望んでいるし、話すことができないから実際のところは分からないが、不満げな顔はしていないことも確認している。

 そんな彼がどうしてハルカの摩訶不思議な作業に興味を持ったのかは、輪をかけて分からないのだが。

 つまるところ、スリィが高等な魔法を使う機会は今までなく、使うところを見た者はいなかったし、使えることすら誰も知らなかった。


「スリィくん、器用だね」


 そんな一言で済ませるようなものではない。そう言いたい料理人たちがハルカの後ろで悶えているのを、ハルカは不思議そうに振り返った。

 スリィの魔導士にもなれるであろう高等魔法によって、たっぷりの鰹の削り節ができあがり、ハルカは上機嫌である。これが今日の作業の中で一番大変だろうと思っていたのだ。あっさりと解決して喜ばしい。

 そうこうしているうちに、初めに火にかけていた大鍋の中の湯が沸いた。沸騰しているぞ、と料理人の一人に教えてもらったハルカは、礼を言いながらスリィを連れてそちらへと向かう。


「この骨たちを入れます」


 丁寧な口調で自信ありげに手にしたボウルいっぱいに入った鶏ガラと牛ガラ。スリィは表情こそ変わらないものの、瞳が丸く見開かれている。

 素手で骨を触ろうとしたハルカに、料理人が慌てて持ってきてくれたトングを使って、ハルカはぼちゃぼちゃと骨をお湯に投入していく。スリィにやってみるかと尋ねると静かに首を振られたため、ハルカはすべて自分でやった。料理人たちも引いているようなので、骨をそのまま食べようとしていると思っているのかもしれない。何を作るかを説明していないのだからそうか、とハルカは心の中で納得している。

 ぐらぐらと煮えたぎる鶏ガラ牛ガラから、白い灰汁が浮き出てくる。これを丁寧に取り除くのが今日の作業で二番目に大変な作業だ。ハルカが手本を見せてみてからスリィに代われば、おそるおそるとレードルを液面へと浸している。ぴちゃ、ぴちゃ、と控えめながらも丁寧にスリィが灰汁を取り除いていくのを見ながら、ハルカはもう一つの作業へと移った。

 紙のようだとこそこそと言われていた昆布を浸していた鍋に火を点ける。沸騰の手前まで温めたら、昆布を別のボウルへと取り出した。そこに、スリィが作ってくれた削り節をたっぷりと入れて、お湯の中へ沈み込むのを待ち、目の細かいザルで濾せば完成だ。

 食品メーカーの叡智の結晶である顆粒出汁を使っていたときは、面倒な出汁を取る手間を省けて楽だとばかり思っていたが。実際に出汁を取ってみればそこまで面倒ではないのかもしれない。いやこれを毎日はやっぱり面倒に感じるな、とすぐにハルカは撤回する。

 しかしながら、手間をかけた出汁は非常に香り高い。ハルカは胸いっぱいに吸い込んでほうと喜色に満ちた溜息を零した。


「……ん」

「ん? ……スリィくん?」


 とん、とハルカの肩に触れたのはスリィの頭。灰汁取りは終わったらしく、大鍋の方を見れば透き通った色の液面がある。火はいったん止めてあるらしい。よくできました、と褒めるように肩をさすれば満足げに瞳が向けられる。それにしても、今のは。


「……」


 じいっと見上げてくる瞳は、何を言いたいのか。ハルカは尋ねるようにその漆黒の瞳を見つめ返すと、ゆるりとその視線がボウルへと向く。出汁が気になるらしい。


「味見してみる?」

「!」


 ぱあっと顔が輝いた。気がした。とくに表情は変わっておらず、いたって無表情だ。少し後ろから見守っている料理人たちには一切分からない。しかしハルカはしっかりとそれを汲み取り、スプーンで出汁を掬ってスリィへと差し出した。


「これは出汁って言って、スープのベースになるものだよ」

「……」


 スリィはくんくんと匂いを嗅いでから、探るように口へと運ぶ。きょとんとした顔をしていた。


「どう? あんまり味しないかも」

「……?」


 ふるふると首を振り、こてんと首を傾げる。良い匂いはするのに、味がよく分からないと思っているのかもしれない。和風出汁を単体で口にする機会は日本人でもあまりない。醤油や塩で味付けをして楽しむものだ。

 ハルカは適当なカップに出汁を取り、そこに塩と醤油を適当に入れてもう一度スリィへと渡した。


「こうやって、味付けをすればスープになるよ」


 スープと呼ぶにはあまりに簡単なものではあるが、いわゆるすまし汁だ。そう呼んでも伝わりにくいだろうとスープと呼ぶ。和風スープ、だろうか。

 カップを手渡されたスリィが、こくりと一口飲み込む。


「……ッ!」

「美味しい?」

「ん……っ! ……!」


 こく、こく、としきりに頷きながらカップに口付けるスリィに、ハルカはよかったと胸を撫で下ろす。出汁がこの世界でも受け入れられるようで安心だ。以前、国王に出汁抜きの味噌汁を作ったことがあるが、今度はこの出汁を使ったものを飲んでもらおう。こちらの方が断然に美味しいはずだ。

 よかったよかったとほのほのと微笑むハルカは、思い出したようにスリィに尋ねた。


「……スリィくん、もしかして話せる?」

「……、……」


 ハルカの問いかけに、スリィは迷うように視線をうろつかせてから、顔を傾けながら頷いた。

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