23. マフィン
この世界の甘味は果物が主流だ。生の果物をそのままか、もしくは乾燥させたものを花の蜜に漬けたものを食す。
あとは、街の屋台では小麦と砂糖を練って焼いたものが売られている。この前アスカと街散策したときに見かけたハルカだったが、購入には至らなかった。アスカが酷い顔をしていたので、前を通り過ぎるのみで終わったのだ。聞くと、非常に甘く、食感が悪く、平たく言えば不味いらしい。アスカの評も、以前イエディに聞いたものと変わらなかった。腹には溜まるしエネルギー源にもなり保存も効くため、冒険者が非常食としたり一般庶民が小腹を満たすために食べはするが、味を好んで食べるという嗜好品の役割は持たない。
知らなければそれを当然として受け入れられるが、知っていると不足を不満に思ってしまう。しかしないものは仕方がない、と手段がなければ諦めることはできるが、手段があれば諦めることすら難しい。
ハルカは街散策で手に入れた新たな調理器具の中から一つを選んで、軽い足取りで厨房へと向かった。手が空いたらアッシュにも手伝いに来てもらうように伝えてある。昼時を過ぎた厨房はちょうど休憩時間でがらんとしており都合が良い。
今日はマフィンを作ろうと、ハルカは朝から意気込んでいた。数日前からどうしても甘い焼き菓子が食べたい気分だったのだ。フルーツを食べても引かない欲望を昇華するためには、自分で作るしか方法がない。
ハルカは一般的な家庭料理はそれなりに作れるとは言え、お菓子作りがとても得意と言えるわけではない。暇つぶし程度に何度か作ったことがある程度だ。その際に大体の理論自体は頭に入っている。凝った菓子は難しいが、今日作る予定のマフィンはあまり難しくないものなのでなんとかなるだろうと見積もっている。
積み重ねられた紙カップの束。以前、こっそりとパンケーキを作ったときは数を用意できなかったが、今日は違う。しっかりと材料を用意したので多少は量産が可能だ。パンケーキと違ってマフィンであれば大人数でも分けやすい。パンケーキが上手く作れたので、ある程度の自信もある。
いそいそと調理台の上に材料を並べて準備を整えていると、用事を済ませたアッシュがどこか瞳を輝かせながらやってきた。主人の命令だからと嫌々手伝うようではなくて何よりである。
「よし、じゃあ始めようか」
「はい」
気合いを入れたハルカは、ボウルの上で器用に卵を卵黄と卵白に分けていく。たぽ、たぽ、と濃い黄色の黄身をボウルに落として、卵白は別のボウルへ移す。すべての卵を割り終われば、卵白の入った方のボウルを砂糖と一緒にアッシュへと手渡した。
「これを、前と同じように泡立ててくれる? 泡立ってきたら砂糖を入れていって、角が立つくらいまで」
「つの?」
「つの」
「……」
アッシュは難しい顔をして黙り込んだ。お菓子を作ったことがなければ、メレンゲやホイップクリームを作ったことがなければ、‟角が立つ”の意味が分からないのは当然だろう。角と聞いたアッシュは、自分が知る限りの角を思い浮かべているのだろう。真顔ながらも、瞳をきょろきょろと宙に彷徨わせている。この世界は家畜だけでなく魔物もいるので、立派な角を持つ動物が多そうだ。ハルカは可笑しそうに笑い声を溢した。
「しっかりともこもこになれば大丈夫だよ」
「……分かりました」
主人の意を汲み取れなった、と少ししゅんとしたアッシュは、ハルカにぽんぽんと頭を撫でられることで気力を回復する。
水魔法が得意なアッシュがボウルの上に手を翳して魔法を展開すると、ボウルに入った卵白がぐるぐると回り出す。一度やったことのある作業なので任せておいても大丈夫だろう。ハルカは自分の作業の取り掛かるべく、新たなボウルを手に取った。
マフィンの作り方は至ってシンプルだ。この前のパンケーキと必要な材料も作業も大きく変わらない。バターを滑らかになるように練ったあとに砂糖を入れてさらに練り混ぜる。卵黄を入れて、さらに混ぜる。牛乳を入れつつよく混ぜて、小麦粉を入れてさっくりと混ぜる。どんどんと混ぜていくだけだから簡単だなあ、とハルカは一番大変な作業を担ってくれているアッシュへと心の中で改めて感謝した。
「ハルカ様、もこもこ……とはこれくらいでよろしいでしょうか」
アッシュの手にはもこもこになった卵白があった。ばっちりだとハルカが微笑めば、アッシュはあからさまにほっとした表情を見せた。アッシュが作ってくれたメレンゲを混ぜ込めば、生地は完成だ。
先日の国王との街散策で購入した紙カップを、天板の上に一つずつ並べていく。王宮にあるオーブンは魔石が嵌め込まれており、魔力が上手く使えない人間でも使えるようになっている魔道具だ。便利で助かる。並べたカップに生地を流し込んで、余熱をしておいたオーブンで二十分ほど。
今回はプレーンなものを作ったが、チョコレートやナッツ、ドライフルーツを入れるバージョンも良いかもしれない。焼き上がりを待つ間、アッシュとそんな話をしていれば甘い香りがふわりと漂ってくる。日本でよくあるオーブンのような中を覗けるタイプではないので、上手く膨らんでいるかは焼き上がるまでのお楽しみだ。
「いい匂いだね」
「はい、とても」
これだけ良い香りがするのだから、味は問題なさそうである。膨らみが悪くとも、多少食感が残念になるだけで食べられないわけではないのだ。
もうすぐ焼き上がりそうだと、ハルカは皿を用意する。アッシュはお湯を沸かしているのでお茶の用意だろう。
「部屋に持って行って食べようか。他にも食べたい人いるかな」
(食べたい人……。ハルカ様の作られたものは、誰でも食べたいのでは)
甘い物が苦手なアスカを除いた王族たちの顔を思い浮かべつつ、アッシュは少し悩んでから、この時間ならエドワードが手が空いているかもしれないと答えた。声を掛けてみようね、とハルカは嬉しそうだ。
「イエディ様方にはどうなさいますか」
「仕事の休憩に食べてもらえるように持って行こう」
「承知しました」
大量に焼いたマフィンは、もちろん王族たちの分もある。むしここで彼らに供さなければ、バレたときが怖いだろう。間食の文化はあまりないが、お茶の休憩時間を取ることはあるのでその時に出してもらえばいい。ハルカは「気に入ってもらえたら良いのだけれど」と言うものの、アッシュは一切心配していない。
「あ、焼き上がったよ」
ハルカの明るい声に、アッシュもお茶の準備の手を止めてオーブンの前へと早足で向かった。開けるよ、と言ったハルカはガコン、と重いオーブンの扉を開いた。ぶわりと熱気が溢れるのと同時に、何とも言えない幸福の匂いが辺りに充満する。先ほどまで漏れていた香りとは段違いだ。
「あ、上手く焼けてる」
素手で触れれば火傷する熱さの天板を、布を使いながら慎重に取り出す。ふんわりと丸く膨らんだ、綺麗な黄金色に焼き色が付いたマフィン。ほかほかと湯気を立てるその姿に、ハルカは満足そうだ。隣のアッシュはごくりと生唾を飲み込んでいる。こんな焼き菓子、見たことも食べたこともなくても、美味しいのが分かる。
ハルカとアッシュが綺麗に焼けたマフィンを前に感嘆の声を漏らしていると、がらりと厨房の扉が開いた。
「わ~、なんかすごいイイ匂い」
廊下まで漂ってたよ、と言いながら軽い足取りで近づいてきたのは、ここ王宮の副料理人を務めるフィルだった。休憩中だが、何かいい匂いがすると厨房に立ち寄ったらしい。青みがかった灰白の髪を髪紐でまとめつつ、ハルカに向かってひらりと手を振る。
「フィルさん」
「これなぁに?」
「マフィンというお菓子です。たくさんあるので、あとで皆さんで分けてください」
へえ、と見たことがない料理に、フィルの瞳がすっと細まる。一見すると軽薄そうに見えるフィルだが、その実力は王宮の副料理長にふさわしい。今まではそもそも料理のレベルが高くはなかったため味の面では何とも言えないが、フィルの真価は盛り付けなどの細かい作業にある。ハルカが来る前の王宮の料理が見た目には素晴らしかったのは、彼の能力が存分に発揮されていたからだ。
今ではしっかりとハルカから料理の技術を盗み味の方も上達していっているし、ハルカが教える普段は使わなくてもいいような見栄えを良くするためのちょっとしたコツなんかも吸収して、以前にも増して綺麗な料理を作っている。
ちなみに日頃の調理では彼の得意な風魔法がハルカを手助けすることも多く、ハルカは大変助かっている。センスがある、と言えば陳腐だが、フィルはハルカの希望を汲み取るのが上手い。こんなふうに混ぜてほしい、という見たこともない調理方法を再現するのが抜群に上手だ。
(もっと難しいお菓子を作るときはフィルさんに手伝ってもらえばいいかも)
手先が器用な彼のことだ、デコレーションが必要なお菓子なんかも向いているかもしれない。暇な時にでも誘ってみようとハルカは決めた。
ひとしきり観察し、あれこれハルカに質問を終えたフィルが丸まっていた背を伸ばすように顔を上げた。
「これはもう食べられるの?」
「あ、じゃあみんなで味見してみましょう」
焼きたての焼き菓子を食べられるのは、作り手の特権だ。冷めてしっとりとしたものもそれはそれで美味であるが、焼きたての温かいふんわりとしたマフィンも捨てがたいものだ。
天板の上から平皿へとマフィンを移動させていたハルカがその手の止めて、一つ手のひらに乗せた。紙カップをぺりぺりと剥がして、手でふわりと割る。ほわん、と上がる湯気に自然と頬を綻ばせながら適当に三つに分けて、一つずつアッシュとフィルへと手渡した。
ほこほことしたマフィンを口に含めば、ふんわりとした食感が口の中に広がる。ほんのりと甘く、バターの風味がが鼻に抜ける。軽い口当たりで一瞬でなくなってしまった。
「うわっ、うま」
「……!」
フィルとアッシュも、目を輝かせながら舌鼓を打っている。気に入ってもらえたようだ、とハルカはほのほのと笑いながら、残りのマフィンを皿へと並べていった。
自分たちの分と、王族たちの分。そして残りは料理人たちの分。平皿の上で冷ますのをかねて重ならないように並べたマフィンを数える。本当は網の上で冷ますのが正解だが、細かいことは気にしない。料理人たちの分は、おそらく全員に一つずつ渡るほどの数はない。早い者勝ちにするか、一つを二人で分けてもらうかは、副料理長のフィルへと一任した。
自分たちの分を部屋に持って行ってもらうようにアッシュに頼んだハルカは、王族たちの分を手に持って厨房を出た。




