17. 雨の日のおかずパンケーキ
今日は朝から雨が降っていた。ざあざあと窓を濡らす雫を、ハルカはのんびりと眺める。庭の緑は雨粒を纏って色を深め、常とは変わった美しい景色を作っている。
今日はイエディから魔法を教わる予定だ。いまだにまともに魔法を使えないが、始めたころよりは魔力の扱い方が分かってきた気がする。手のひらの上に作れる小さな火が、少しばかり安定してきた、気がする。ハルカが座学で教わることはおおよそ終わり、あとは知らないことが出てきたらその都度聞いている。
いつも通りハルカの部屋にやってきたイエディと、いつものように魔法の勉強を始めていたときだった。今日は雨だから、火魔法よりも水魔法の方が扱いやすいと言われ、手のひらの上に水球を作る練習をしていた。実際のところ、慣れさえすれば雨の日だろうが濡れない限り火魔法を使えるし、魔導士レベルになれば雨の中でも火魔法を使える。しかしながら初心者には湿度の影響や心理的なところから使いにくいらしい。
ハルカの手のひらの上の水球(正確には球体にはなっておらず、ただの水の塊である)が、数秒はなんとか形を保つようになったころ。ドアの前で何やら声がしたと思えば、ノックもなく勢いよく扉が開かれた。現れた人物の後ろで、騎士たちが慌てている。
「トウリ、どうしましたか。ノックをしないなんて、無礼ですよ」
優しい口調ながらも、イエディが窘めるように視線を向ける。騎士たちの方が青ざめてぺこぺこと頭を下げているが、当の本人はぷいとそっぽを向いたままだ。
いきなりの訪問者は三男のトウリだった。むっすりとした顔と粗暴な態度から、不機嫌であることが明らかだ。しかしハルカには身に覚えがなく、一体どうしたのだろうかと首を傾げる。ちなみに、ハルカの手のひらはびしょ濡れになっており、アッシュが床を綺麗に拭き上げている。トウリが現れた瞬間に、驚いて水球が崩れたせいだ。
「トウリ様?」
ツカツカとハルカの前までやってきたトウリが立ち止まる。むっすりとしたまま腕を組み、ハルカを見上げた。
「お前……」
キッとキツイ眼差しを向けられたハルカは、濡れた手のひらを隠すように背中に回した。そっとその手に清潔なタオルを渡すのはアッシュだ。何やら不機嫌な王族が目の前にいるにもかかわらず、肝が据わっている。
ハルカは一切身に覚えがないが、何かトウリの気に障ることをしたらしい。今朝の朝食は、トウリも美味しそうに食べていたはずだが。昨日の夕食も。少なくとも料理関係ではなさそうだ。しかし他に何かあるだろうか。トウリとの接点は食堂以外では多くはない。時々こうしてハルカの部屋で一緒に勉強することもあるが、そのときも変わったことはなかったはずだ。
ハルカは記憶を洗いながら、やはり身に覚えはないと小首を傾げるしかなかった。
目の前のトウリは、むすりとしたまま口を噤んでいる。何か言いたげに開いた唇は、すぐにへの字に閉じられる。その様子から、怒っているというより拗ねているとかの方が正しいのかもしれない、とハルカは考える。深いブルーの瞳も、憤怒に燃えてはいない。しかし何かが気に食わないと、訴えている。すぐに言わないのは、何故なのか。明らかにハルカに非があるのであればすぐに言及すればいいのに。
言いにくいことなのか、とハルカがもう一度トウリの名前を呼ぶと、トウリは意を決したように口を開いた。
「お前! 俺に出していない料理があるだろう!」
「え?」
ん?とハルカはトウリの言葉を頭の中で反芻する。そして、んん?と首を傾げる。何のことか。ハルカが作った食事はすべて王族たちに提供しているはずだ。トウリが知らない料理はない。
「そんなことはないと思いますよ。俺が作った料理は毎食皆さんにも食べていただいているので」
「違う!」
「え?」
王族の三男であり、正当な王位継承権を持つ王子が、ぷんぷんと頬を膨らませて怒っている。顔面蒼白になり、身を縮こませるのが正しい反応かもしれないが、正直なところハルカにとっては怖くなかった。彼が一言告げればハルカの首が飛ぶのは間違いないのだが、不思議なことに怖くはない。次兄のアスカに似たつり目をさらに吊り上がらせ、眉を逆ハの字にし、頬を膨らませている姿は、イケメンな少年が可愛らしく拗ねているようにしか見えない。
違う、と怒るトウリに、ハルカは戸惑った。真剣に身に覚えがないのだ。謝ろうにも謝れない。
イライラとした様子を隠さないトウリは、靴底でたんたんと床を鳴らして髪をぐしゃりと掻き乱した。綺麗な黒髪がぱらぱらと散る。
「ここで! 食事以外の時間にこっそり何かを食べていたのだろう!」
「……ん」
ここというのは、ハルカの部屋のことだ。ここで日々勉強をして過ごしているのは周知の事実であり、こっそり過ごした覚えはないのだが、ここで食べたものと言えば。
「あ、パンケーキ」
「それだ!!」
「トウリ様、どなたからそれを?」
そういえばそうだ。この前、小腹が空いたからとおやつの時間を設けたのだった。初めて作ったにしてはなかなか上手にできた。
あれを一緒に食べたのは、今ここにいるメンバーのみである。なんとなくバレたら面倒くさそうだと思ったため、軽く口止めをしたのだった。皆もその真意を汲み取っていたと思う。しかしトウリが知っているということは、その誰かから漏れたということ。
ハルカの問いかけに、トウリはついと指を持ち上げた。
「……イエディ様?」
その指の先は、イエディを指している。告発されたイエディは、きょとんとした顔をした。
「ぱんけぇきを食べたとは言ってませんよ。美味しいものを頂いたとだけ」
「同じですね」
悪びれないイエディに、ハルカは呆れを含んだ溜息を吐いて苦笑いをするしかない。別に良いのだが。
さて、バレたからにはこうなることは分かっていた。つまるところトウリはそれを自分にも食わせろということだ。
「分かりました。昼食にお出ししますね」
「それで許してやる!」
ふんと鼻息を鳴らしたトウリは、満足げだ。ぱっと晴れた顔に、まあいいか、とハルカは跳ねたトウリの前髪を指で梳くように直してやる。
「なんだよ!」
「跳ねていたので、つい」
ハルカがふわりと笑えば、トウリはその直った前髪を手のひらで抑えて耳を赤くした。すみません、とハルカが軽く謝ると、顔をそっぽを向ける。
昼食をちゃんと用意しておけよ!という言葉を残して、足音を鳴らしながらトウリは部屋を出て行った。
「トウリってば、雨だからご機嫌が斜めですねぇ」
ほのほのと微笑むイエディは、可愛い弟の癇癪だなあというくらいにしか思っていない。そこに自身の失言が原因という反省は微塵もない。ハルカは諦めて適当な相槌を打って、魔法の練習に戻っていった。
しかしあの不機嫌はパンケーキを食べられなかっただけでなく、雨も原因だったとは。今もせっせと大地に水やりをしている天を見上げてハルカは同情する。確かに、雨の日は気分が滅入るのは分かる。雨でイライラとしていたところに、イエディのパンケーキ情報を知り、部屋に乗り込んでくるほどの苛立ちに変わったのだろう。
窓の外の雨は強く、ざあざあと窓を叩いている。もう少し練習したら、厨房に行って昼食の準備をしようとハルカは手のひらにぐにゃりとした水球を作りながら思った。
「お待たせしました」
王族たちの前に皿を並べていくと、イエディはおやと目を見開いた。トウリはわくわくとしており、エミーレもいつものように嬉しそうに微笑んでいる。ちなみにアスカはやや不服そうである。その理由はおそらく肉が少ないからだ。肉が少ない料理のときはいつもこの顔をするので、ハルカはもう気にしていない。
「ハルカ」
イエディがハルカを呼び寄せる。ちょいちょいと手招きをして、ハルカの耳元に顔を近付けた。
「これ、この間のものとは違うようですが」
ひそひそと控えめな声は、トウリに聞かれないようにとの配慮だろう。ここで普通に言えば、またトウリの苛立ちを引き起こしかねない。まさかイエディがそんなことを気にするなんて、とハルカが驚いていると、イエディはふわりと微笑んだ。その瞳がちらりとアスカを見遣る。ああ、とハルカは納得して小さく頷いた。ここで騒ぎになればアスカが煙たがるということだ。
「食事に出すので、少し違ったものにしました。同じパンケーキですよ」
こそこそと返事をすると、イエディはそうですかとゆったり頷いてフォークとナイフを手に取った。
昼食に用意したのは間違いなくパンケーキだが、この前作ったバターと蜂蜜で食べるシンプルなパンケーキとは異なる。食事に甘いパンケーキはどうだろうということで、今日は‟おかずパンケーキ”だ。甘じょっぱい味が癖になるはず。
といってもメインのパンケーキはシンプルに同じ。トッピングとしてカリカリに焼いたベーコン、黄身を半熟に仕上げた目玉焼きにサラダと焼きトマトを添えたものだ。味付けにはバターと蜂蜜だけでなく、マヨネーズも選べるようにしている。
このマヨネーズは、初めて出したときから好評で、今では厨房にストックされている。魔法が得意な料理人たちが作ってくれるので、ハルカとしては楽で助かっている。
「トウリ様、いかがでしょうか」
普段は自ら料理の感想を求めないハルカがトウリに尋ねる。今回はトウリのリクエストなのだから、トウリが満足してくれなければ意味がない。お気に召してもらえただろうかと、トウリの横で腰を屈めた。
(返事は聞かなくても分かるかな)
勢い良く食べ進めていたトウリの皿は、もう少しで綺麗になるところだ。トウリはゴクゴクと水を飲んでぷはりと息を吐いた。
「美味い! おかわりはあるか!?」
「ええ、もちろん」
「ぱんけーきというものは、いいな。甘くてしょっぱい。こんなものは食べたことがない」
「いろいろと種類がありますよ。今日は食事に合うようにしました。また機会があれば、違う種類のものをお出ししますね」
気に入っていただけたようでなにより、とハルカはにこにことその場をあとにした。給仕も終わったので厨房に戻り自分たちの賄いの準備をしようとしたハルカを、アスカの視線が呼び止める。声のない呼びかけに、それでもハルカはきちんと気づいて「どうしましたか」とアスカの元へと歩み寄った。いつも通りに淡々とした表情からは、感情を読み取るのは少し難しい。
「肉はないのか」
あっさりと告げられたのは、そんな言葉。やっぱり、と思いつつもハルカは小さく頭を下げる。
「申し訳ありません。今日は……」
「……謝らなくてもいい。たまには軽い食事も悪くない」
「夕食には肉料理をお出ししますね」
頷いたアスカは、彼にしては珍しくおかわりをすることなく食事を終えていた。こういった甘いものはあまり好きではないのかもしれない。悪いことをしたかな、とハルカは少し罪悪感を抱きつつも、しかし文句を言われるわけでも食べてくれないわけでもないからいいかと開き直った。本気で気に入らないならば、一口目で手をつけるのをやめて別のものを用意させればいいのにそうはしなかったのだから。
夕食には何の肉を出そうか、などとのんびりと考えながら、綺麗に磨かれたシルバーの台車を転がして厨房へと戻っていった。




