13. 外に出たいです
ハルカの朝は社会人のときよりは幾分遅くから始まる。とは言っても太陽が昇って間もない時間である。カーテンからうっすらと差し込む光が目覚めの合図。しばらくすると、アッシュのノックが正しい起床時間を知らせてくれる。
他の従者たちは日の出前から活動を始めているが、王宮の料理人として働き始めたハルカは彼らよりは朝寝坊することが許されていた。
はじめの頃、皆と同じように起床し廊下に出ると、掃除中のメイドに恐縮をされ、厨房に行っても同じくだった。別に気にしないとハルカが言っても、それは大した効力を持たなかった。ただの平民で、王族のお目こぼしで王宮に住まわせてもらっているだけの存在だというのがハルカの自認だが、周りからすれば王族の客人だ。異世界からの召喚者ということはごく一部の人間しか知らされていないが、アスカたちが目を掛けている存在というだけで従者たちにとっては平身低頭するに値する人間だ。
そういうわけで、ハルカは王宮内の朝の掃除が終わったタイミングで部屋を出ることにしている。
アッシュが用意してくれた衣服に袖を通す。元の世界とは違う、いわゆるファンタジーの世界の衣装で、学芸会や舞台なんかでしか見ないようなものだったが、少しずつ慣れてきた。一挙手一投足の世話を断ったがゆえに刻まれていたアッシュの眉間の皺も、今日は見えない。
ハルカがこの世界に来て数週間が経っていた。
朝、昼、夜の食事を作ることがハルカのこの世界での仕事だ。とはいっても凝ったものは作れないので、王宮内にある食材を使ってぱぱっと調理するのみだ。仕事だなんて呼べば、日本で家事をする全人類に怒られるだろう。
しかし毎日、否、毎食、厨房では拍手喝采が起こる。毎食、王族も喜んでくれる。悪い気はしないものの、やはり過剰な反応だと、一週間が経ってもこれには慣れなかった。
料理をする以外は、エドワードやイエディからいろいろなことを教わって過ごす。世界の情勢や文化については、大雑把にではあるが大体のことが理解できてきた。
魔法についても座学で基礎を教わりつつ、手のひらの上での魔法展開を練習する日々だ。いまだに、火も水も風も上手には使えていない。ほんの少しずつ、できるようになっている、とハルカは信じている。
もちろんこれらの勉強は義務として課せられておらず、アスカからの命令もあり休暇日とされ、ただのんびりと過ごす日もある。とくに何となく王宮内の庭を散歩してみたり、図書室を覗いてみたり。暇だからと部屋の掃除をするとアッシュに怒られるが、まあまあと宥めて簡単に掃除をしてみたり。そんな日でも、食事の用意だけはする。強制されていないが、休むと王族も料理人たちもあからさまにがっかりするし、結局は自分の食事になるのだからやぶさかではない。
今日も、一日予定のない日である。朝食作りが終われば自由時間だ。
窓の外はぽかぽかとした日差しが降り注いでいる。庭の草木は元気よく揺らめき、若草色を茂らせている。窓を開くと、ぶわりと爽やかな風が部屋に舞い込んでくる。顔を出せば、視界に広がるのは庭師によって美しく整えられた王宮の庭。丁寧に世話をされた花々は、いきいきと可憐な姿を披露している。この視界を切り取ってそのまま絵画として飾れそうだ。
過ごしやすい気温に、綺麗な青空。外で過ごすには、良い季節だ。
ハルカに気づいた庭師が、地上から頭を上げてくるのに合わせて会釈を返す。
(今日は何をしようかな)
サラリーマン時代は、休みがあれば家に引き籠っていたかった。しかし、こうも穏やかで、大した仕事もしていない今は、そればかりではつまらないと感じる。せっかく異世界に来たのだから、この世界のいろいろなところを見てみたい。
まだこの世界に慣れたとは言えないハルカは、国王であるアスカから王宮の外に自由に出ることを禁止されている。禁止といっても、ハルカのためを思ってのことだ。
この国は周辺諸国と比較しても平和で治安が良く、とくにここ王都は騎士や冒険者といった守る側の人間も多いため人々は安心して生活を営んでいる。とはいっても、犯罪者がいないわけではないし、王都を少し外れればガラの悪い者の巣窟があったりもする。王都をぐるりと囲う外壁から一歩出れば、自然豊かな森も広がっている。そこには魔物も生息しているのだ。
この国の治安ですら、ハルカが住んでいた国とは異なるということを知ったアスカは、しばらくは一人で王宮内から出ないようにとハルカに言い含めた。そのときのアスカの眉間に寄った険しい皺。悔しそうに引き結ばれた唇。
(……俺たちのせいでこの世界に無理やり召喚したというのに、自由に生活させてやることもできないとは)
チッ、と舌打ちをしたアスカに、ハルカは不思議そうに小首を傾げた。別に構いません、とこともなげに了承したハルカは、本当にとくに困ることはないと思っていた。そんなハルカに、アスカはさらにむっとするのだが、それ以上は何も言わなかった。
意図せず召喚された身ではあるが、ただの平民には変わりない。王宮内で生活させてもらえて、心底助かっている。金銭を持たされて森へポイ、とされなくて本当に良かった。ハルカはただその気持ちが強い。
もちろん、そのうち街にも行ってみたいとは思うが、この国のことをよく知る前に一人で冒険したいなんて無謀なことは思わない。この国の犯罪者、盗人や人身売買があるらしいこの国の闇の部分に、何かの拍子に触れてしまえば生還できる自信はないし、魔物だって怖い。身を守る術を持たず、達者な口も持たないのだ。成人済みの大人としていつまでもというわけにはいかないが、今は守られておくべき存在だという自覚がある。
しかも、アスカからの命令は「一人で」「自由に」出歩かないように、ということだ。と、いうことは、である。
(ちょっと外に出られないか、相談してみようかな)
ハルカは、アッシュと共にアスカの執務室を訪れた。アッシュやエドワードに尋ねても良かったが、彼らは判断を下せる立場にはいない。どのみちアスカに訊きに行くことになるのだから、それは二度手間だ。
王宮内の廊下は、やはり豪華だ。華美な装飾は現王族たちの趣味ではないらしく、煌びやかだというわけではないが、飾られている絵画や花瓶、蝋燭台などはやはり洗練されたものばかりだ。そもそも、天井、壁、床に至るまで、上質な素材でできている。その幅は日本の一般家庭のリビング程度のサイズ感である。
すれ違う文官たちが礼をしていく。彼らが不満な態度をハルカに示さないのは、王命のおかげだ。内心思うことがある者もいるが、それを顔に出してアスカたち王族の不興を買うようなバカな真似をする人間は王宮内にはいない。――正しくは、そのようなバカな人間はこの王宮内では生き残れていない。
加えて、彼らもハルカの料理の恩恵に預かっており、一度知った味を失うような惜しいことはしたくないと、文官の間で結託しているところがある。
平民だから、どこぞの馬か知らないから、とは思う気持ちはなくなるわけではないものの、アスカをはじめとした王族たちの決定に異を唱えることも、美味しい三食の食事を手放すことも、誰もしたくなかった。
さらに言えば、ハルカの感じの良さはこの短い間に王宮内で広く知られていた。厨房で料理人たちと仲良く調理をしているらしい。王族たちは彼と彼の料理をいたく気に入っているらしい。この国についてエドワードから熱心に学んだり、イエディと魔法の練習をしたりしているらしい。アッシュを始めとしたメイドや庭師などにも柔和な態度で、偉ぶったりはしていないらしい。
ハルカが文官と直接会話を交わす機会はあまりないが、こうして廊下ですれ違えば控えめに微笑みつつも丁寧に会釈をするハルカに、悪い印象を抱く者は少なかった。
ハルカの手の甲が、重厚な扉を数回叩く。普通は横に控える従者たちが対応するのだが、ハルカがするがままに任せていた。
「陛下、ハルカです」
「入れ」
専用の執務室で、アスカは書類仕事をしているようだった。机に向かうアスカの顔は、漆黒の髪に遮られていて表情は分からない。顔を上げないままのアスカに「少し待て」と言われ、ハルカはメイドに促されるがままソファに腰掛ける。
カチャカチャと音がする方を見ると、メイドが二人分のティーカップを準備していた。どうやらアスカも休憩をするらしい。ちょうど良いタイミングだったからなのか、ハルカが来たからなのかは、ハルカには分からない。
アスカの側に控えている王族付きの秘書であるマクレイが、アスカからの書類を受け取った。何やら仕事の話を交わしてから、丁寧に頭を下げて踵を返す。瞬間、バチリとハルカと目が合った。
その視線は、あからさまな嫌悪こそないがあまり歓迎していないということは伝わる。彼は文官たちの暗黙の了解に則ったりはしない性質らしい。
別に構わないが、とハルカはへらりと笑って会釈をした。
「マクレイさん、お久しぶりです」
「ええ」
マクレイと会ったのは初日と、そのあと一回のみ。王族付き秘書であるマクレイは、かなり多忙であるとエドワードから聞いている。アスカだけでなく、イエディやトウリのサポートをしたり、他の貴族の統率を図ったりもするらしい。
「お忙しいと聞きました。お元気ですか」
「変わりありません。私は仕事がありますので、失礼します」
カツカツと控えめに踵を鳴らしながらマクレイは部屋を出て行った。
社会人として当たり障りのない社交辞令を選んだつもりだが、マクレイはお気に召さなかったようだ。ハルカが少し考え込むように瞼を伏せると、向かいのソファへどかりと座ったアスカが「気にするな」と言った。
ぱっと顔を上げると、アスカの綺麗な顔が真っ直ぐにハルカへと向いている。
「あいつは頭が固いところがあるからな。お前に不利益なことはしないように言いつけてあるから、放っておいていいぞ」
「あ、はい、大丈夫です。気にしてません」
勤めていた会社にも、愛想の悪い人間というのは一定数いた。マクレイのように愛想が悪いだけでなく、話しかけても無視する、挨拶も返さない、なんて存在もゼロではなかった。そんな人間に対しても、ハルカは当たり障りなく接するタイプだ。決して善人になりたいわけではない。こちらが無視をしたり嫌な態度を取ることは、それはそれでエネルギーを使うからだ。それにこちら側に非がある状態にもしたくない。無視し続ける相手にも適度な愛想で接していれば、「悪いのはあちらでこちらは善である」と周りは認識してくれる。往々にして、本人にもうっすらと罪悪感が芽生える。これはハルカなりの省エネな処世術である。そんな彼らに比べれば、一言二言とはいえ会話を交わせるマクレイは随分とマシだと思える。
アスカは眉間の皺を緩めた。しかし、続いたハルカの台詞に再び皺が寄る。
「でも少し、仲良くなれたいいなとは思います」
「……」
むっすりとして黙り込んだアスカに、ハルカはあれと首を傾げる。陛下?と顔を覗き込むと、紺青色の瞳がじぃっと見つめてきた。
「……前にも、こんなことがありましたね?」
綺麗な瞳を見つめ返しながら、ハルカはふふと微笑んだ。すると、刺々しかった空気がフッと和らぐ。
タイミングを見計らうように供された湯気が昇るティーカップを手に取り、アスカは口を開いた。
「それで、どうした」
「森に行ってみたいなと思いまして」
「森?」
怪訝そうな顔をするアスカが、音を立てずにティーカップを置いた。
「あ、もちろん一人では行きません」
「当たり前だ、許さない。しかし、なぜ森なんだ」
(そろそろ、外に出たいと言ってもおかしくはないと思っていたが……)
アスカは眉間に皺を寄せたままハルカを見つめる。むしろ今までよく我慢しているとは思う。もっと早く、街に行きたいと言い出すのではというのがアスカの予想だったが、ハルカはその予想を二つも裏切ってきた。
特段王宮内の暮らしには不満がないようではあったが、数週間も経った。さらに、街ではなく森ときた。
街に行けば、買い物や出し物があるだろうに、なぜ、森なのか。
「今日は天気が良いので、自然の中で過ごすのもいいかなと思いまして」
「……なるほど」
あまり納得できる理由ではないが、こんなところでハルカが嘘を吐くメリットもない。ということは大した理由はないということなのだろう。気晴らしに外に出たいというのは理解できる。
「街はいいのか」
「そうですね、今日は森の気分で。街には今度行ってみたいです」
「ならば、そのときは俺が案内しよう」
アスカの言葉に、ハルカの目が大きく見開かれた。驚いている。淡々とした様子に見えるハルカだが、意外とその表情はくるくると変わり、面白い。アスカはくっと喉を鳴らし、長い脚を組みなおしてティーカップの縁に口を付けた。
「なんだ、不満か?」
「いえ、そういうわけでは。ありがとうございます」
アスカは満足そうに鼻を鳴らして、温くなった紅茶を一気に煽った。
(国王が街に出るとなると警備とか大変そうだけど、いいのかな)
こういうときのアスカに逆らう術がないことはすでに学んでいる。断ったところで、無意味だ。抵抗するだけ無駄なので、ハルカはすぐに受け入れた。なんとかなるのだろう。
空になったティーカップをテーブルに置いたアスカは、控えていた従者を指で呼び寄せた。
「そうだな。トラディスを呼べ」
「トラディス、さん?」
「森へ同行させる。あと何人か付けるが、まああいつがいれば大丈夫だろう。あまり遠くには行くなよ、厄介な魔物に会いたくなければな」
「はい」
トントン。扉を叩く音が室内に響いた。聞こえたのは、先ほど会話に登場したばかりの男の名前だ。従者が執務室から出て行って数分しか経っていないはずだが。ハルカは驚きつつ、扉を見た。
扉が重たげな音を立てながら締まると、その男はビシリと踵を揃えて直立した。
「お呼びですか、陛下」
「崩していいぞ」
来い来い、とアスカが手招くのに合わせて、男は大股にソファへと歩み寄ってくる。ハルカはソファに座ったまま、その大きな男を見上げた。
(でっか)
がっしりとした体躯に恵まれた背丈。身長自体は、すらりとした長身のアスカと大差はないかもしれないが、圧が凄い。身体の幅と厚みがあるせいか。屈強な武人という言葉がぴったりだ。厨房で見るジャックも頑強な躯体を持つと思っていたが、比べれば一回りは大きく見える。
それは、かっちりとした騎士の制服を身に着けているのも理由の一つだろう。
「何用です」
「ハルカが森に行きたいらしい。お前、護衛として付いていけ」
「はっ」
「ハルカ、こいつはトラディス。ここの騎士団長だ」
「え!?」
「トラディス・イゾルデだ。よろしく、ハルカ殿」
手袋を外しながらずいと差し出されたトラディスの手は、その体格に似合いのがっしりとした分厚い手だ。反射的に立ち上がり、ハルカも片手を前に出す。そんなに力は込めていないであろうが、「わ」と声が出るくらいには力強く握られた。ゴツゴツとした、剣を握る人間らしい手のひらをしている。
「ハルカ・イーダです。いいんですか? ただ森に散歩に行きたいだけなんですが……」
ハルカは、アスカとトラディスを交互に窺った。とくに魔物討伐に行くわけでも、危険な奥地に行くわけでもない。ただその辺をぶらりと散歩したいというだけである。そんなお気楽なお出かけに、騎士団の長という重要な役割を持つ人間を充てて良いものなのだろうか。
「構わん。浅いところとはいえ、森に入ればどこで魔物に襲われてもおかしくはない。初めてこの敷地から出るんだ。お前に何かあっては困るからな」
「アスカ様がそう仰るのであれば、俺は構わない」
「テディに任せておけば、万が一もないだろう」
「テディ」
アスカの口から発せられた名前。それは愛称であり、いつもへの字に曲がっているアスカの唇が紡ぐのは意外性がある。
ハルカが思わずオウム返しのようにその愛称を呟き、その名で呼ばれるにはいくぶん雄々しい騎士を見上げた。
「……アスカ様、人前ではおやめください」
大きな手のひらで顔を隠して言うトラディスは、嫌がっているのか、はたまた恥ずかしがっているのか。指の隙間から見える頬がうっすらと赤いから、おそらく後者だろう。
くつくつと楽しげに笑うアスカが、ハルカにした説明曰く、年が近い二人は乳兄弟らしい。幼い頃から、王族と騎士として過ごしてきた時間が多いそうだ。アスカがトラディスのことを「テディ」と親しみを込めて呼ぶのは自然のことである。が、あまりに幼さのある愛称であることが、トラディスを照れさせる。
さらに言えば、トラディスはアスカのことを「アスカ様」と呼ぶ。これも、騎士たちの中では希少な存在である。騎士たちから敬愛を受けるアスカであるが、そこには畏れも多分に含まれている。それゆえ、アスカを名前で呼ぶ度胸を持つものはあまりいない。
「ハルカを頼んだぞ、テディ」
にぃ、と美しく口の端を歪めたアスカに、トラディスは小さく溜息を吐いて、拳を胸の前に当てて敬礼をした。




