6 畳
しかしそれは未来の話。今はやはり会いたくない。それで他人の家の中に入ってしまう。立派な鉄の柵が半分空けられた、その中に……。
邸宅というほどの大きさではないが庭がある。その庭にいくつもの樹木が植わっている。種々の自然が香り立ち、不思議な時空感を醸し出す。街の喧騒まで遠くに行ってしまったかのよう。が、所詮都会の家。すぐ玄関に到達する。引き戸の前に花弁が落ちている。何を示すのか。中に入れという意味なのか。それとも単に拾えば良いか。逡巡するが、決め手はない。それでも引き戸には手を伸ばす。他人の気配が感じられない。その間隔がわたしを大胆にしたようだ。
今ではわたしもそれなりに穢れ、昔の潔癖症は跡形もないが、本質はさほど変わらない。昔の臆病なわたしがそこにいる。わたしの目線でその子の手がわたし自身の手に摩り替わる。その手が微かに震えている。けれども引き戸を開けるのだ。ついで、おずおずと中を覗きつつ、「ごめんください」と声をかける。けれども返ってくる声はない。ひっそり閑とした気配だけだ。それがわたしに戻ってくる。だから、わたしはその家には本当に住人がいないのだと納得する。納得はするが信じられない。それで次の一歩に惑うのだ。
懸念の彼はもういないだろう。だから、わたしの緊急避難場所としてのこの家の意味は消えている。それで残るのが花弁探索というわけか。家の玄関を開け、すぐに気づく。長い廊下の先々に花弁が落ちていることに……。
靴を脱ぎ、廊下に上がる。まるで泥棒にでもなったような気分だ。ギイと床が鳴ると肝を冷やす。会社の名刺は財布の中にあるが、それが保障するものなど何もない。家宅不法侵入は犯罪で何も盗まなくとも犯罪だ。廊下を突き当たると木の戸がある。たぶんそうだろうと思い開けるとやはりトイレ。いや、ここでは御不浄というべきか。御不浄の手前に花弁がある。御不浄の中に花弁はない。それで探すと左手側の和室の畳に花弁がある。障子の一部、飾り硝子の向こうに見えたのだ。それで、わたしが障子を開ける。すると僅かに饐えた臭いが鼻をつく。
……と同時に畳の香りも鼻をつく。わたしは本物の井草の香りを知らないが、畳の香りなら知っている。
今はないが、実家がある路地を出、その先の少し大きな道を抜けると道路を挟んで八百屋があり、その向かって左側に畳屋があったから。畳屋が面した路地は過去には暗く、更にその先に個人医院があったため、妄想逞しいわたしは夜に歩きたくなかったもの。今ではすっかり明るい夜道に変わっている。わたしより臆病な子供でも怖がることはないはずだ。
その頃のわたしはまだ一人っ子で友だちの都合が悪ければ独りで遊ぶ。その遊びの一つが畳屋さん鑑賞だったというわけ。
殆どがオートメーション化された今でも、その本質は変わらないだろうが、畳というのは縫い物なのだ。まず畳床を板に縫い付ける。いや、床を畳床に縫い付けるという方が正しいか。ブスリと力を込め、針を刺し抜き、また刺し抜き、針を刺し抜き……を繰り返す。それが終われば縁付け作業。すなわち平刺し。畳の縁の仕上がりを決める。余った部分は包丁で落とす。その次が返しと呼ばれる畳の縁横部分を縫う作業。このとき畳の裏に藁を縫い付け、畳の厚みを調整する。これが上手く行かないと畳の上を歩く感覚が当然のように悪くなる。畳職人の腕の見せ所なのだ。それが終われば框を縫う。框とは畳の縁が付いていない部分のこと。畳を裏返してから縫っていく。ここでも藁を入れ、畳の厚みを調整する。 この作業をするときは畳表が見えないので、「それを傷つけないように注意するんだよ」と畳屋のお爺さんがわたしに教える。時折お婆さんの姿も見えるが、わたしには一切関わらない。後は寸法を確認し、正しければ完成。
あの畳屋はお爺さんの代で終わったと思う。ついでに言えば、お爺さんが引退するずっと前、わたしは畳屋さん鑑賞に興味を失っている。特に知り合いというわけでもない。だから、お葬式にも行かなかったはず。
わたしの中で畳屋のお爺さんの顔は当時のままだ。あの時期の妙に熱心だったわたしの顔を畳屋のお爺さんはどう見たのだろう。変わった子がいると思ったか、それとも可愛い子が見てくれてくれると喜んだか。あるいはわたしが興味をなくしたとき、同時に興味をなくしたか。