第三羽໒꒱ 空虚の卵
飛べない雛も居る。先天性で翼の力が弱いのだ。そうでなくても本来は親元で練習を重ね、巣立つもの。だけど、卵の中で幼児期すら過ぎたはずの僕は……親を知らない。導くのは、記憶の中の鵬美の声と、鵬飛の掌への思慕だけ。
――飛ばなければ、墜ちて死ぬ！ 一発本番で決めろ！
風鳴りとビリビリする危機感に溺れないように、必死に羽ばたく！ 僕の虎柄の翼は何の為にあるんだ！ 金無垢の半月を晒す黑が怖くとも、空へ広げる為じゃないのか！
ある瞬間、煽られた翼がピッと張った。翼と身体の下を凍えた風が通る。気流に乗ったのだ。ホッと息を着き、暫し安心して翼を任せるも……我に返る。眼下に見えてきた建物達は……屋根の形に見覚えが無い。ここは何処？ 焦れば、ふいに薄くなった気流から見放された。
「風の裏切り者！ 雛禽を見捨てるな！」
今度こそお終いだ！ 墜落する眼下、ポカンと僕を見上げる少女の黄水晶の瞳！ 非常にヤバッ！
「全力で避けて――ッ！ 着地の仕方も分かりませんッ！ 」
「ハワワッ！？ 空から、見知らぬ禽さんが！？」
ギュッと目を閉じた瞬間、落下が止まる。恐る恐る目を開けると……僕は小柄な少女の大きな翼に包まれていた。違和感に、瞬く。
「大丈夫ですかぁ……？ 」
ぴょこんと触覚モドキの冠羽。黄茶色のふわふわボブの少女は咲う。桃の花を両耳に飾り、着物の衿上に黄色タータンチェックのスカーフを巻いていた。巨大な右翼の彼女には、左腕しか無い。右腕が生来、茶の斑模様の右翼と合着しているのか。片翼では無く、小さな左翼が見えた。
「僕は鵼です。ありがとう……」
「私は【陰ノ右鶉】、鏡鶉です。迷い禽さんですかね……？ 」
【陰ノ駒】……？ 嫌な予感に、僕は血の気が引いていく。
「もしかして……ここは、【陰ノ地】だったりする？ 」
「もしかしなくても、【陰ノ地】ですねぇ」
「はぅあ……完全にやらかしました。迷い禽です。でもここまで来たならば腹を括って、鵬美に会わないと。鏡鶉、鵬美の居場所を知らない？」
ふいに、鏡鶉の微笑が曇る。お馬鹿な刺客だと思われただろうか……？
「何故、鵬美様に会いたいのですか？ 」
「大切な人に再会して欲しいからでもあるけれど……僕が青白磁の卵の中に居た頃に、【陰ノ地】で一緒にいたはずの鵬美に会いたくて」
鏡鶉は晴れる微笑どころか、僕を映す黄水晶の垂れ目を見開き、やがて辛そうに細めると、潤ませた。ウォーターオパールみたいな涙は、泳ぐ虹光を閉じ込めて……ほんのり紅潮する白頬に伝うんだな。
「良かった、生きて孵化出来たのねっ……！ 鵼はっ……私が無くしてしまった卵なの」
僕を左手と右翼で抱き寄せた鏡鶉から、日向の香りがした。優しい抱擁のはずなのに、心臓が切なく締め付けられるのはなんでだろう。
――決して、泣いてはいけません。
眼窩からツンと込み上げる刺激に、囁かれた鵬美の言葉を思い出した。もうすぐ彼女は、僕の中の幻想じゃなくなる。
「私は鵬美様に、鵼の抱卵役を仰せつかっていたの。一手を受け、戦禍に巻き込まれぬように卵を繁みに隠した後、僅かな間に盗られてしまった。……恐らくは対戦した、弓使いの〖陽ノ鶴〗」
目の端に赤みが残る鏡鶉は時折振り返りながら、僕の先を歩く。案内される【陰ノ城】の中は〖陽ノ城〗と似ているのに……焚かれている香が違った。ここは白檀じゃなくて、沈丁花の甘く爽やかな香りがする。
「鵬飛は戦利品の卵だとしか言ってなかったよ？ 」
「〖陽ノ鶴〗が、何処まで〖陽ノ鵬〗へ真実を話しているか疑問だけど……鵼について既知の事実があるから、卵を攫ったのかも。……私も伝えないといけないことがあるの。『鵼』が生まれた理由を」
得体が知れないと付けられた名で、歩む足を『空虚な無意識』へ引き摺り込まれる気がした。通り廊下の鏡の中に浮かぶ、自らの漆黒の虎眼。それは夜空の黑よりも深く、『未知』で恐ろしい。
鏡鶉と共に辿り着いた御簾の内で立ち止まり、我に返る。透ける向こう、右上の貴き御簾へ、跪いているのは……帰還した羅鶴！？ ここは謁見の間か。羅鶴に見つかったら、結局【陰ノ地】へ辿り着いてしまった僕を鼻で笑うに違いない……今は会いたくないな。
幸い羅鶴は報告を終えたようで、直ぐに去っていった。鏡鶉は羅鶴と入れ替わるように、僕を連れて謁見の間へ招く。……相対した貴き御簾の向こうに居るのは、まさか。
「青白磁の卵の雛を連れてきたわ。真名は、鵼」
「驚いた……羅鶴が奪還に失敗したはずなのに。何故、城内の鏡鶉が連れてきたのかしらね」
開かれた貴き御簾の中、十二単を身に襲るのは赤白橡色の長髪の女。視線が交差した伽羅色の瞳が一瞬、金に閃いた気がした。やがて、柔らかに綻ぶ顏。既視感のある穏やかな微笑に、鷹翼。僕は落胆よりも、驚嘆を覚えていた。
「……誉鷹？ 」
「誉鷹に会ったのですね。私は彼の再従姉であり、許婚です。鵬美様の影武者を勤める、【陰ノ鷹】……鷹子と申します」
「何で影武者……？ 鵬美は何処なの……？ 」
先程の羅鶴のように、【陰ノ駒】にまで正体を伏せる必要は無いだろうに。僕の問いに、鷹子と鏡鶉は睫毛を伏せた。
「この事は鏡鶉と妹と、 鷹子しか知らないの」
「鵼。……こちらへ」
鷹子が貴き御簾と自分自身の背で隠していた彼女の姿を示せば、僕は冀求の針に脊髄を貫かれた！ 引けば心が痛む操り糸に……ふらふらと歩む。
日没の東空の髪は、薄紅梅色に輝く雲の輪郭を淡紅藤色で長く揺蕩わせる。三つ編みにした前髪から見える額には、『王の証』である紅電気石か。透ける正絹の羽衣纏う彼女は、橄欖石の杏眼で、望む蒼穹を見上げていた。水平弧の七色の翼あれど、伸ばす指先は……何処にも届かない。絹本に触れた僕の手にも。
「掛け軸の中じゃ、共同幻想になっただけじゃないか！ 本物の鵬美に会わせてよ！ 僕は鵬美と交わさないといけない約束があるんだ！ 鵬飛が、僕らを待ってるのに……」
「鵬美様は、『空』に居られます」
冷静な鷹子の声が、宣告する。吸った息って、どうやって吐くんだっけ？ 耳鳴りで頭が真っ白になる僕は、鵬美への消された帰り道を無意識に問うていた。
「何それ……死んだって事？ 」
「分かりません。王に成られてから鵬美様は、この空将棋盤上の戦いを憂いておられました。繰り返される戦いを終わらせる為の方法を、伝承と遺跡を巡り思案し、やがて『空』に全てがあると考えておられたようです。【陰ノ城】を最後に飛び立った日も『空』へ行くと仰られて……そして、『空』から戻ることはありませんでした。この手紙をご覧になって下さい。残されていたのは一部ですが……きっと、鵼に宛てた物です」
空に憧れた海の魚は、
巨大な翼を生やしてまで
空を支配したくなる。
この支配欲を
『空将棋盤と禽駒』として生み出した、
私達『鵬』の祖先のことです。
『鵬』は元々、禽ですら無いの。
子孫の私達ですら、本能的に空へ憧れて
『王禽の駒』となってしまう。
だから、独善的な私は願いました。
『 海に繋がる空が、
無くなってしまえばいいのに。
生命は翼に換えられない 』
すると『君』の卵が、
空から齎されたのです。
子孫の私の『無意識』には、
世界に干渉できる恐ろしい力が
僅かに残っていたのでしょう。
生まれてすらいない
『君』に期待してしまう私は、
【陰】の王に相応しいのかもしれません。
酷い母の私は『君』だけを抱けませんでした。
鵬飛と私が愛した空は、
私達の生命を選ばせてくれるでしょうか？
「鵼。貴方が生まれた理由は、『空を滅する為』なのです。貴方は大切な人の為なら、『空を滅する鳥の王』になれますか？」
その指先、天空を差す。鷹子の金の眼光は、『王の雛禽』である僕に逃げることを許さなかった。仮初であるはずの彼女も、『戦禍と空』の消失を望む『影の王』なのか。
「今は、息が上手くできないよ。もしも、僕が空を滅せられるなら……鵬美は戻って来ると思う？」
「可能性はございます。【陰ノ鵬】が死していない証に、この戦は続いている。だが何もしなければ、戦禍は終わり無く皆を喰い殺すでしょう。鵼が【陰ノ王禽】と成り、空を制する戦を最小限の犠牲で支配すれば、空を滅する事が出来るとは思いませんか？ 空に捕らわれた鵬美様は、鵼の奉迎をお待ちなのです」
間近で僕を映す金の鷹眼に、呑み込まれそうになる刹那……日向の抱擁が、僕を救う。鏡鶉の右翼だった。
「待って鷹子、貴い決断には重さが必要でしょ？ 思案が力になるのは、鵬美様を敬愛する貴方がよく知っているはず」
「……一理あります。ですが、長くは待てません。【陰ノ王座】は、影が補う空席。駒禽達への虚偽が発覚すれば、歪んだ戦禍が皆を『虚無』へ堕とすでしょう」
俯いた鏡鶉に手を引かれ歩んでも、空虚な僕の内には答えが見えてこない。謁見の間を振り返れば……襖が閉ざされる瞬間まで。金の鷹眼は僕を喰らうかの如く、答えを望んでいた。救いは誰が為にあるべきか。
「正解なんて無いの。鵼が選ぶ、どの『未知』も鏡鶉は肯定するよ」
「……僕の選択に、皆の運命が懸かっているのに？ 」
【陰ノ城】から逃げ出した星空の下、膝を抱えた僕を鏡鶉は右翼で抱擁する。卵の頃に足りなかった温もりを、今に齎すように微笑した。
「それでも。王に成れば、一つの死を賭けねばならない。鵼か、鵬飛様かの御命が懸かっているならば当然でしょ？ 鵼が【陰ノ王禽】に成れば、鵬美様を空から取り戻せる可能性を目指し、鵬飛様と戦う事になる」
「僕は再会した二人に、笑って生きて居てほしいんだ。鵬飛と鵬美が居ないなら、意味は無いよ。何で、理不尽しか選べないの？ 」
「理不尽に抗うのも、鵼の一手。常に最善の選択をすればいい。鵼が飛翔した先に、明ける夜があるかもしれない。……鵼が今、したいことは何？ 」
「ただ、鵬飛に会いたい。夜の【陰ノ城】は怖いんだ。鵬飛と誉鷹が、雛禽を守ってくれる〖陽ノ城〗に帰りたいよ！ 」
「なら、帰ろう？ 私の右翼なら、〖陽ノ城〗に送ってあげられる」
「でも僕は、鏡鶉とも一緒に居たい。別れたくない。鏡鶉も〖陽ノ地〗で暮らそうよ、まだ話したいことが沢山あるんだ」
再来する夜明け。煌めいていく川辺に、小さな白い加密爾列は揺らぐ。立ち上がった少女の、大きな右翼が広がれば絹鳴りがした。白練色が織り込まれた茶斑の翼先へ、黄金の日輪を透かす。僕の我儘に鏡鶉は、少しだけ困ったように黄水晶の瞳を和らげて、はにかんだ。
