10.ジョゼフィーヌは語る
「ジョゼット、報告書はできているか?」
「はい、ロロ。こちらに」
わたくしが差し出した報告書を受け取って、ロロ、つまりロジェ様は大きくうなずきました。
「ああ、問題なさそうだな。……ところでジョゼット、後で一緒に出かけないか? 城下町においしい軽食を出す店があると聞いたんだ」
「ええ、もちろんよ」
今、わたくしたちは外交官としての仕事のために隣国に来ています。正体を隠すために、頑張って口調も変えました。
ロジェ様はラファエル様の、わたくしはニネットの口調をまねているのです。とっても難しいですが。
「それでは、一時間後に中庭の噴水で」
そう言って、ロジェ様は報告書を持って出ていきました。その姿を見送ってから、ふと窓の外に目をやりました。
そこに広がるのは、異国の光景。きっと一生見ることなどないだろうとあきらめていた、見慣れない町並み。わたくしは今外交官の一人として、そんな景色を眺めているのです。
本当に、ニネットにはどれだけ感謝してもしきれません。今のこの幸せは、彼女のおかげなのですから。
かなわぬ夢に少しでも近づきたくて、入学を決めた学び舎。でもそこに入ったことで、わたくしは悩み苦しむようになってしまいました。
子供の頃から胸の内に宿っていたささやかな夢、外交官になりたいという夢が心をかきむしるようになっていたのです。
苦しくて苦しくて、そうしてわたくしは思いました。ロジェ様の婚約者でさえなければ、こんなに苦しまずに済んだのではないかと。
婚約を解消してもらうように頼もうかとも思いました。
けれどロジェ様は、それはそれはわたくしのことを好いておられました。わたくしがそんなことを言ったら、きっと恐ろしく落ち込んでしまわれるでしょう。
だったら、ロジェ様に嫌われてしまえばいい。でも、わたくしもロジェ様のことは好きでした。正面切って彼に嫌われるようなことは、どうしてもできなかったのです。
そうして思いついたのが、わたくしの評判を落とすこと。王太子の婚約者にふさわしくないと、周囲が思うようになればいい。
けれどまだ難関は立ちはだかっていました。具体的に、何をすればいいのか。
うんうんうなって、ふと思い出しました。物語で読んだ、とっても悪い令嬢のお話を。
あの令嬢を見習えばいいのですわ。他の方をいじめればいいのです。ええっと、悪口を言うとかそういうことをすればいいのですわ。
そこまで考えて、はたと動きを止めることになりました。いじめるって、どなたを? わたくしのせいで誰かが傷ついたり、悲しむのは嫌です。
困り果てていたその時、今度はある噂を思い出しました。恐ろしく落ち着き払っていて、とっても強いことから『鉄の女』と呼ばれている方がおられるのだと。
確か、その方の名前はニネット。放課後、よく空き教室で一人本を読んでいる姿が見られるのだとか。
わたくしは、わらにもすがる思いで彼女を訪ねました。夕日に照らされた彼女の横顔が、とても美しかったのを今でも覚えています。
そうして、わたくしの未来は変わりました。ニネットとラファエル様が、わたくしに道を示してくれましたから。
わたくしはロジェ様と共に外交官の採用試験に合格した後、陛下や妃殿下にも協力していただいて、もう一つの名前で、もう一つの人生を歩んでいました。いずれ、自ら外交の場に出向いていく、そんな王と王妃となるために。
悩みも迷いも苦しみも、もうありませんでした。だって、悩んでいる暇があったら前に進めばいいのですから。
とても晴れやかな気分で微笑みながら、わたくしは外出の支度を整えました。
といっても、この国にいる間はずっと外交官の制服を着ることになっていますから、髪を念入りにとかしてお化粧を直しただけですけれど。
そうしてわたくしは、軽やかな足取りで待ち合わせの場所に向かいました。
ロジェ様と二人で歩く異国の町は、とても興味深く美しいものでした。
この国とわたくしたちの国は隣接しているということもあって文化的には似通っているのですが、それでも建物や人々の服装などには様々な違いが見られます。こうして近くでそれを見ていると、とても心が躍ります。
嬉しさに笑いながら歩いていると、ロジェ様がふと立ち止まりました。そうして、内緒話の時のように声をひそめます。
「……そうだ、ラファエルから手紙が来たぞ。といっても私の正体がばれないよう、仕事の書類に見せかけて送ってきていたんだが」
「あら、わざわざ手紙ですか? しかも、そんなに手の込んだことをして? もう半月もすれば、私たちも国に戻りますのに。何か、急な用事でも?」
首をかしげると、ロジェ様はにやりと笑いました。なんだか、ラファエル様を思い起こさせる笑みです。口調だけでなく、表情もちょっと似てきたようにも思えます。
「それが、彼はようやくニネットに求婚できたのだそうだ」
「まああ!! それで、どうなりましたの!?」
ついつい大きな声を上げそうになって、あわててこらえます。それがおかしかったのか、ロジェ様は目を細めて微笑みながら答えてくれました。
「無事に成功したらしい。それでいても立ってもいられなくなって、私に手紙を書いてきたようだな」
「ああ、よかった……あの二人には、私もずいぶんと気をもんできましたから」
「私もだ。はたから見るとこの上なく気が合っているというのに、いつまで経っても仲が進展しなくて……ずいぶんとやきもきしたぞ」
「ニネットはとても頭がいいですが、色恋には疎いようでしたし。……そもそも彼女は、あまり人と関わろうとしない方でしたし」
「そしてラファエルは普段はあんなに人懐っこく、周囲の人間を動かすことに長けているというのに……なぜかニネットに対してだけは、空回りを続けていたようだったからな」
ニネットとラファエル様は、そろってとても頭脳明晰です。そして二人はわたくしたちが舌を巻くほど鮮やかな手際で、この大掛かりな策を、わたくしを外交官とするための策を練り上げてしまいました。
だというのにあの二人ときたら、自分たちのことについてはどうにも抜けていて……どうやら、二人とも、恋のほうはまるで駄目なようでした。
ラファエル様はちょっぴり軽い感じを与える方ですから、ニネットが少々警戒したのかもしれません。それにニネットは、感情よりも理論を優先させがちなところがありますから。
それでもラファエル様は、ニネット相手には真剣になっていましたし、ニネットがラファエル様を見る目はとても優しく、温かいものでした。あれを見ていたら、誰でも二人が両思いだと気づきます。
「しかしまさか、三年もかかるとは……」
「それだけ、彼はニネットのことを大切に思っているのでしょう。だからこそ、軽々しく言い出せなかったのだと思いますよ。それよりも」
ロジェ様の腕に手をかけて、耳元でささやきます。すれ違う人々に、聞こえないように。
「……わたくしたちも、そろそろ元の身分に戻れそうだと、そうニネットから聞いていますわ。そうしたら、ずっと延期になっていた婚礼を挙げるのですよね?」
「ああ、もちろんだ。私はその時を、六歳の時から十四年、ずっと夢に見ていたのだから」
ささやき返してくるロジェ様の声は、くすぐったくなるような熱を帯びていました。わたくしにプロポーズしてきた六歳の時から、この方はずっとこの調子です。
「……その婚礼、二組立て続けというのはどうでしょうか?」
たったそれだけの言葉で、ロジェ様はわたくしの言いたいことを理解してくださったようでした。おかしそうに笑って、さらに声をひそめています。
「それはいい。三年前、私はニネットとラファエルにさんざんに振り回されたからな。ここでお返しをしてやろう。よし、国に戻ったらあの二人の婚礼の準備も進めようか。ただし、あの二人には絶対に気づかれないように」
「……振り回したというなら、わたくしがそもそもの始まりなのですが……」
乗り気になっているロジェ様に、ぼそりと言葉を返しました。気まずいなと思いながら。
「君はいいんだ、ジョゼフィーヌ。こうして君は、私のもとにいてくれるのだから」
そうしてロジェ様は、あれこれと思いつきを口にしていきます。放っておいたら、ニネットとラファエル様の婚礼は、わたくしたちのものと同じくらい豪華で大掛かりなものになってしまいそうでした。
けれど、それもいいなと思ってしまいます。わたくしにとって、そしてロジェ様にとっても恩人であるあの二人の新たな門出を、全力でお祝いしたい。そんな気持ちはわたくしも同じでしたから。
ロジェ様と並んで歩きながら、ふと空を見上げます。
あの二人が驚くところが早く見てみたい。けれど、焦っては駄目です。策を進める時は慎重に、秘密はきちんと守って。それは、あの二人に教わったことでした。
「絶対、素敵な婚礼にしましょうね」
「もちろんだ」
そうしてわたくしたちは見つめ合い、手を取り合って歩き出しました。とっても軽い足取りで。
ここで完結です。お付き合いいただき、ありがとうございました。
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