船酔いってしんどいよね
翌朝、ガルドさんたちに連れられて街の外れに出た私とミコトさんは、目の前に広がる光景に言葉を失いました。
(……これが、川? 海ではなくて?)
(ああ。対岸が見えないどころか、水平線まで拝めるとはな。この世界の水系規模は、俺の常識を遥かに超越している)
視界を埋め尽くすのは、滔々と流れるあまりに巨大な水塊。
水上には多くの商船が行き交い、活発な物流の鼓動を感じさせます。そして、視線を少し遠くに巡らせれば、水面を切り裂くように伸びる、白亜の長大な架け橋が陽光を反射して輝いていました。
「あの橋は、街道から対岸の街までを繋ぐ予定の重要拠点だ。魚人族の連中の協力がなきゃ、この深い川底に柱を立てるなんて芸当、人間には逆立ちしたってできねえよ」
ガルドさんが誇らしげに鼻を鳴らしました。
あの橋さえ完成すれば、魔物の脅威にさらされる水上輸送に頼らずとも、安全で迅速な交流が可能になる。それはこの地域にとって、まさに希望の架け橋となるはずでした。
(……ですが、ミコトさん。あの橋を渡ることが、私たちの目的ではありませんわね)
(ああ。俺たちの目的地は、この大河の源流――『ツェルスバニア湖』だ。そして、その行く手を阻む不純物の掃除。……それだけだ)
希望の象徴である橋とは対照的に、私たちの視線は川上……澱んだ陰謀の気配が漂う、険しい源流の方向へと向けられていました。
昨夜、自室で純化させたあの静かな怒りは、今も私の胸の奥で、白銀の刃となって研ぎ澄まされています。
チェリルさんのような誇り高き人々の未来を、あるいはあの橋がもたらすはずの平和を、食い荒らそうとする「黒鮫団」。
「行きましょう、皆様。……その湖に巣食う不純物を、一分子残らず殲滅しに」
私の静かすぎる声に、ガルドさんたちが一瞬だけ、ゾクッとしたように肩を震わせたのを、私は気づかないふりで歩き出しました。
(……なるほど。流石にこの規模は想定外だな。『星屑の目』を全機展開したところで、この大河の全域をカバーするのは物理的に不可能だ)
私の視界を共有しながら、ミコトさんは脳内で淡々と計算結果を弾き出しました。
ですが、彼の声には落胆の色など微塵もありません。むしろ、新しい術式の試運転を前にした、技術者特有の静かな高揚が混じっていました。
(ならば、これを使うしかないな。……秘匿開発中の『蒼月の目』、試験運用ついでにここで実戦投入といこう)
ミコトさんの意志と共に、私の魔力が空へと吸い上げられていきます。
それは従来の浮遊魔導器のように周囲を舞うのではなく、成層圏に近い高高度へと一気に射出され、広大な地上を冷たく見下ろす「瞳」となりました。
(ピンポイントの詳細までは判別できんが、この大河全域の動体反応をリアルタイムで網羅できる。……豪語するだけの価値はあるはずだぞ?)
脳内に投影された仮想地図には、米粒のような無数の光点が規則正しく動いていました。物流を担う商船の群れです。
しかし、その整然とした流れの中に、一つだけ異物が混じっていました。
「……見つけましたわ」
私の瞳が、銀色の光を帯びて鋭くなります。
多くの船が決められた航路をなぞる中、明らかに不自然な軌道を描き、一隻の商船へと背後から音もなく忍び寄る影。
「ガルドさん。あちらをご覧くださいな。……通常の航路から大きく外れ、獲物を狙うように接近している不審な船がありますわ」
私が指し示したのは、肉眼では辛うじて帆の形が見えるかどうかの距離。
ガルドさんは驚いたように目を細め、腰の剣に手をかけました。
「な……ッ!? よくあの距離で見えたな。……おい野郎ども、クレアハートちゃんの言う通りだ! ありゃあ、まともな商売人の動きじゃねえ。……『黒鮫団』の襲撃だぞ!」
穏やかだった船上の空気が、一瞬にして戦場のそれに塗り替えられました。
私の胸の奥では、昨夜純化させた冷徹な殺意が、静かにその出力を上げ始めていました。
「船長! あの船に着けてくれ。どうも動きが怪しい……いや、間違いねえ、獲物を狙ってやがる!」
ガルドさんの鋭い指示が飛ぶと、舵を握っていた初老の船長が、ニヤリと岩のような顔を歪ませました。
「合点だ! ……野郎ども、ついにこの『韋駄天』の本気を見せる時が来たぞ! しっかり掴まってな、振り落とされんなよォッ!!」
その瞬間、私たちの乗る船が、まるで生き物のように身震いしました。
見た目こそ古びた商船に偽装していますが、その実は自警団が秘密裏に所有する最新鋭の追跡用高速艇。船底に仕込まれた魔導機関が咆哮を上げ、最大船速は通常の三倍という、文字通り常識外れの速度で加速を開始しました。
「ちょ、ちょっと!? 船長、速すぎ……ひゃんっ!?」
急激な加速に、私は思わず近くの手すりにしがみつきました。
視界の両脇を流れる水飛沫が、まるで白銀の壁のように背後へと消えていきます。
(……ほう。この世界の造船技術も捨てたものではないな。船体の強度を流体操作で補強しつつ、強制的に推進力を生み出しているのか)
(ミコトさん、感心している場合ではありませんわ! これ、お嬢様の立ち振る舞いを維持するだけで精一杯ですわよ!?)
凄まじい風圧と振動。けれど、一番テンションが上がっているのは、舵を握る船長本人でした。
「はーっはっは! 見ろ、あんな鈍重な連中、あっという間に追い抜いてやるぜ! 風になれッ! 俺たちは風になるんだぁぁッ!!」
「おい船長! 落ち着け! あくまでも名目は『調査』だからな!? そんな威圧感たっぷりに突っ込んだら、調査もクソもねえだろ!」
ガルドさんが必死に船長を鎮めようと叫んでいますが、爆音と風の音にかき消され、当の船長は完全に子供のような笑顔で爆走を続けています。
ぐんぐんと縮まる、不審な船との距離。
その距離がゼロになる時、私の内側で静かに研ぎ澄まされた「お掃除」の時間が始まろうとしていました。
瞬く間に距離を詰め、もはや衝突は免れない――そう確信し、私が思わず目を見開いたその瞬間でした。
「おらぁッ! ここが腕の見せ所だぜぇッ!!」
船長の叫びと共に、船体が大きく軋みを上げました。
それはまるで、地上を走る馬車が急旋回を決める「ドリフト」そのもの。猛烈な横Gに抗いながら、私たちの船は不審な船のすぐ真横へと、物理法則を無視したような軌道でピタリと滑り込みました。
――ザッパァァァァァァンッ!!
急停止の余波で、巨大な壁のような水飛沫が巻き起こります。
それはもはや「しぶき」などという生温いものではなく、局所的津波となって不審な船の甲板へと容赦なく降り注ぎました。
「な、なんだ!?」「敵襲か!? 水死するかと思ったぞ!!」
泡を食って甲板に飛び出してきた相手側の船員たちは、ずぶ濡れのまま目を白黒させて立ち尽くしています。
さあ、今こそ正義の鉄槌を下す時。ガルドさんが接舷と同時に乗り込みの合図を送ろうと、力強く拳を突き上げましたが……。
「……お、おい。行け……野郎ども……うぷっ」
……沈黙。
振り返れば、そこには手すりにしがみつき、顔を真っ青にして「リバース」の危機と戦う自警団の精鋭たちの姿がありました。
「あ、アニキ……無茶言わないでくだせえ……あの揺れは……死ぬ……」
「三倍の速度は……内臓が、置いていかれる……」
……なんという、いたたまれない沈黙。
ずぶ濡れで呆然とする「黒鮫団」疑惑の連中と、酔いで突撃どころではないこちらの船員たち。
大河の真ん中で、ただ波の音だけが虚しく響き渡る、地獄のような「お見合い」の時間が流れていました。
(……ミコトさん。この状況、どうにかできませんの? 私、お嬢様としてどういう顔をすればいいか分かりませんわ)
(……知るか。俺の計算では、乗員の三半規管の限界値までは算出していなかった。……非常に、非論理的な結末だな)
脳内で頭を抱えるミコトさんの気配を感じながら、私はこの気まずすぎる空気をどう打破すべきか、引きつった笑みのまま固まるしかありませんでした。
地獄のようなお見合い状態が数秒続いた後。
青ざめていた自警団の団長が、突如として天を仰ぎ、悲痛な叫びと共に杖を振り上げました。
「……ぉぉぉおおおッ! 治癒ッ!!」
淡い光が団長や船員たちを包み込むと、先ほどまでの死にそうな顔色が嘘のように血色を取り戻し、彼らはシャキッと背筋を伸ばしました。どうやら、回復魔法で強引に船酔いの症状をねじ伏せたようです。
(……おい。回復魔法の使い方、それで合っているのか? 強引に三半規管の異常状態を初期化したようだが……)
ミコトさんが脳内で極めて的確なツッコミを入れていましたが、当然ながら周囲の誰一人として気付く様子はありません。
完全に体調(と威厳)を取り戻した団長は、ウォッホン! と大仰に咳払いを一つして、不審船に向かって堂々たる立ち入り調査の口上を述べました。
「えー、怪しい船よ! 我々は自警団である! 貴船の極めて不自然な航行軌道を認め、これより積荷と船内の立ち入り調査を要求する!」
ガルドさんたちも剣の柄に手をかけ、いつでも斬り込めるように臨戦態勢をとります。
私も、昨夜純化させた冷徹な殺意を指先に込め、いつでもお掃除を開始できるよう魔力を練り上げました。
さあ、言い訳か、それとも実力行使か――張り詰めた空気が流れた、その時。
「ははぁっ、自警団の皆様方! こんな大河の真ん中まで、日々の警邏ご苦労様でございます!」
ずぶ濡れのまま甲板に出てきた不審船の船長とおぼしき男は、抵抗するどころか、揉み手でもしそうなほどの愛想笑いを浮かべて深く頭を下げたのです。
「調査でございますね? ええ、ええ、勿論でございますとも! 我々はしがない商人でして、やましいことなど一つもございません! どうぞどうぞ、隅から隅まで、気の済むまでご覧になってくださいませ!」
……えっ。
予想外すぎる全面降伏、というより「完全なる協力態勢」に、今にも飛び掛かろうとしていたガルドさんも、魔法をぶっ放す寸前だった私も、見事にズコーッと肩透かしを食らってしまいました。
(……ミコトさん。あの船長、ものすごく協力的ですけれど)
(ああ。……逆に怪しすぎるな。何か、決定的な『裏』があるはずだ)
船長の案内で連れられた、薄暗い貨物室の扉を蹴り開けると、そこには予想通り、山積みになった食料品の木箱や、酒類と思しき大樽が所狭しと並んでいました。
……しかし、問題はその後ろです。
樽の影で身を寄せ合うようにして震えていたのは、みすぼらしい服装をした、十数人の小さな子供たちだったのです。
「……てめぇらっ!! なんて外道なマネをッ!!」
その瞬間、ガルドさんの怒髪天が文字通り天を突き破らんばかりに爆発しました。
大剣を頭上高く振りかぶり、首筋に血管を何本も浮かび上がらせた彼の目には、完全に「人買いのクズ共を今すぐ挽肉にしてやる」という凶悪な光が宿っています。自警団の面々も「生かして帰すな!」と一気に殺気立ち、貨物室の温度が氷点下まで下がったかのように錯覚するほどのプレッシャーが充満しました。
(ミコトさんッ!! 対象を人身売買の現行犯と断定! 出番ですわ! 塵一つ残さず、原子の果てまで消去しますわよ!!)
(了解だクーリア。殲滅プロトコル起動。大河ごと蒸発させてやる……!)
私の瞳は完全に白銀に染まり上がり、両手には超高密度の爆裂魔法が、今にも臨界点を突破しそうな勢いでバチバチと火花を散らしています。
もはや問答無用。この邪悪なる不純物たちに、一切の慈悲は――。
「やめてええええええええッ!!」
私たちが一斉に処刑を実行しようとした、まさにその時。
ボロボロの服を着た子供たちが、泣き叫びながら樽の影から飛び出し、小さな両手をいっぱいに広げて、船長を庇うように立ち塞がったのです。
「船長のおっちゃんは悪くない!!」
「おっちゃんをいじめないでぇぇっ!!」
……ピタッ。
ガルドさんの大剣が空中でピタリと止まり、私の手の中で荒れ狂っていた爆裂魔法も、しゅぅぅ……と情けない音を立てて霧散していきました。
「……はい?」
「……えっ?」
殺気MAXで乗り込んできた屈強な大人たちが、子供たちの涙ながらの懇願を前に、全員揃ってポカーンと口を半開きにするという、極めてマヌケな空間がそこに誕生しました。
「ひぃぃぃぃっ! ち、ちちち違うんでございます皆様方ぁぁっ!!」
子供たちの背後で、腰を抜かしてガクガクと震え上がっていた船長が、涙と鼻水を撒き散らしながら必死に弁明を始めました。
「こ、この子たちは決して売り物などではございません! ひどい保護者の元から逃げ出してきたのを見かねて私が匿って、安全な対岸の街までこっそり逃がしてやろうとしていただけなのですぅぅ! 信じてくださぁぁい!!」
(……)
(……クーリア。完全に空回りだったな)
振り上げた拳(と致死量の魔法)の行き場を完全に失い、私たちはお互いの顔を見合わせながら、ただただ気まずい沈黙に包まれるのでした。
「……とはいえ、自警団の皆様方。理由はどうあれ、法を破って密航を手引きしたという事実に変わりはございません。私はいかような咎めも受ける覚悟でございます」
船長は子供たちを背に庇ったまま、自らの罪を静かに認め、深く頭を下げました。その毅然とした態度に、背後の子供たちが「おっちゃん……!」と縋り付くように泣きそうな声を上げます。
しかし、自警団の団長はわざとらしく大きな溜め息を吐くと、ボリボリと頭を掻きむしりながら周囲を見渡しました。
「……咎め? 何の話だ? 俺たちがこの貨物室で確認したのは、ただの木箱や樽の山と……この船で一生懸命に働いている『幼い船員たち』だけだったが。なあ、お前らもそうだろう?」
団長が背後の団員たちやガルドさんに向けて大声で同意を求めると、屈強な男たちは一瞬だけ顔を見合わせ、直後にニヤリと人の悪い笑みを浮かべました。
「違いねえ。こんなチビッ子たちが立派に船乗りやってるなんて、感心なこってす」
「ああ。不審な密航者なんて、この船のどこにも見当たらなかったな」
その粋な計らいに、船長はハッと顔を上げ、ボロボロと大粒の涙を溢れさせました。
(……ふむ。法規則を厳格に適用するより、現場の裁量で保護という有益な結果を優先したか。治安維持組織としては評価が分かれる判断だが、嫌いではないな)
(ミコトさんったら、素直に『格好いい』って言えばいいのに。……でも、本当に素敵な方たちですわね)
私は脳内のミコトさんの不器用な賛辞にクスリと微笑みつつ、彼らの温かなやり取りを見守りました。
「感謝します……! 本当に、何とお礼を言えば……!」
床に額を擦りつける勢いで何度も頭を下げる船長に対し、団長はふと声のトーンを落とし、真剣な眼差しを向けました。
「礼なら要らねえよ。だが、そうだな……最後に一つだけ聞かせてくれ。……あんた、この川の源流に巣食ってる『黒鮫団』について、何か知らねえか?」
その問いが発せられた瞬間、少しだけ温かさを取り戻していた貨物室の空気が、再びピリッと冷たく張り詰めました。
「……あくまで、私たち船乗りの間で囁かれている噂程度でしかないのですが」
船長は周囲を気にするように声を潜め、重い口を開きました。
「街の連中が噂しているような、ただの野盗や海賊の類ではありません。あいつらは、水流の動きや商船の急所を完全に把握しているんです。……実は私たちが今回、あんな大外回りの不自然な航路を取ったのも、正規ルートの近辺で『黒いヒレを見た』という仲間の目撃情報があったからでして」
「なんだと……!?」
ガルドさんが思わず声を荒らげました。
子供たちを乗せている以上、万が一にも危険に晒すわけにはいかない。だからこそ、船長は捕まるリスクを承知で、遠回りで不自然なルートを選んだのです。
「ってことは、逆に考えりゃあ、本来の正規ルート上……あるいはそのすぐ近辺に、『黒鮫団』が潜伏している可能性が極めて高いってことじゃねえか!」
自警団の団長も、顎に手を当てて険しい顔つきになりました。
しかし、すぐにその表情は驚愕から、強い憤りへと変わりました。
「……いや、でも、おかしいだろ。船乗りの間でそれだけ実害に近い噂が出回ってて、なんで冒険者ギルドや俺たち自警団に、その情報が一切上がってきてねえんだ!? ギルドの連中、目は節穴かよッ!」
ガルドさんが壁の木箱をドンッと殴りつけ、苛立ちを露わにします。
(……クーリア。ガルドの言う通りだ。これだけの規模の水上輸送網を脅かす情報が、公的機関で目詰まりを起こしている。これは単なる末端の怠慢や、情報収集能力の不足ではないな)
(ええ、ミコトさん。……これは意図的な情報統制。ギルドの中枢、あるいはさらにその上の組織に、黒鮫団と繋がっている内通者がいると考えた方が自然ですわね)
私たちの脳内で組み上がっていく論理は、この事件が単なる賊の討伐などではないことを明確に示していました。
子供たちを食い物にする新興貴族の影。そして、ギルドの目を誤魔化し、大河を裏から支配しようとする黒鮫団。
「……船長さん、貴重な情報をありがとうございます。おかげで、私たちがお掃除すべき対象の輪郭が、とてもはっきりと見えてきましたわ」
私は、冷たく静かな怒りを微笑みの裏に隠し、優雅に一礼しました。
水面下で繋がる腐敗の根。それがどれほど深く、広範囲に及んでいようとも、すべてを純正化するという私の決意は、もはや揺るぐことはありませんでした。




