逆天都市
その老人は、微動だにせず雲海を見つめていた。
驚くべきことに、彼の背中には翼人族の象徴であるはずの「羽」が片方しか存在しない。残された右の翼も、まるで石化したかのように灰色に褪せ、機能を失っているように見えた。
だが、その周囲を漂う魔素の密度は異常だ。
老人の体からは無数の半透明な糸が伸び、それが公邸の床や壁、さらには天井へと接続されている。まるで彼自身が、この街を宙に繋ぎ止める中央演算装置の一部であるかのように。
「ふむ、片翼は珍しいかね? 客人よ」
その痛々しい姿とは裏腹に、老人は悪戯が成功した子供のように破顔した。
「ああ、白金の冒険者をしてる、クレアハートだ。この街には調べ物をしに来た」
「これはこれは、ご丁寧にどうも、お嬢さん。この見た目はまあ、驚くのも無理もない。だが、これは別に負傷した訳ではない。『置いてきた』のだよ」
「置いてきた? 一体どこに?」
老人は視線を上空へと向けて言う。
「この街の遙か彼方、そこにはこの街をまるで鏡合わせのように逆さまにした街がある。天に向かって落ち、地に向かって浮かび上がる逆天都市。そこでは地上の物の理を嘲笑うかのような現象が起きるものだ」
(天に向かって落ち、地に向かって浮かび上がる、か。重力反転、あるいは空間位相の捻じれ。……道理で、この街の浮力制御が俺の計算式と微妙に食い違っていたわけだ。対となる負の質量が、上空で均衡を保っているというのか)
俺は、老人の背中に残された片翼と、街のシステムを繋ぐ魔導回路の脈動を再計算する。
「あそこに……もう一つの街があるんですか? 逆さまの街……」
クーリアが、目も眩むような高み――青を通り越して黒ずんで見える成層圏の境界付近を見上げる。琥珀色の瞳には、薄い雲の層の向こう側にあるはずの逆天都市の残像が映っているようだった。
「左様。かの地は翼人族でさえそう易々と辿り付ける場所ではない。この空と、あちらの空。二つの空を繋ぎ留めるには、自らの身を分断し、両方に座標を置く必要があったのだよ」
老人は静かに、だが誇らしげに語った。その半透明な糸が、彼の言葉に合わせて脈打つように淡く発光する。
「なるほどな。お前は自分自身を物理的なブリッジとして、この不安定な二重構造のシステムを維持しているわけか。しかし、どうしてそんな事をする必要がある?」
老人はやや目を細めて遠くを見つめる。
「この街の浮遊岩、どの様にして浮かんでいると思う?」
(謎かけか? 恐らくだが、逆天都市の物質が混ざって、ちょうど釣り合いが取れる場所に固定されてるのだろう)
「……えっと、お空の街と引っ張り合ってるのかなあ、なんて……」
俺の推測をクーリアなりに解釈して答えると、老人は如何にも楽しそうに笑った。
「概ね正解じゃ。遙か太古の昔より、この地には互いの物の理が調和しておったのじゃ」
だが、その笑みにふと影が差す。
「ある日、空から石が降ってきた。何て事のない、小さな小石じゃ。……しかし、明らかな『異変』なんじゃよ。この街で空から物が降ってくるというのはな」
「それは、上の街の質量がこちら側に漏洩し始めているということですか?」
俺は、クーリアの口を借りて問う。老人は、濁った瞳をさらに細め、深く頷いた。
「その通りじゃ。均衡が崩れ、二つの世界が混ざり合おうとしておる。このままでは、いずれどちらかが、あるいは両方が……物理的衝突を引き起こし、塵に還るじゃろう、そんな時にやって来たのがお主の言う白金の冒険者じゃ。あの方は、その原因を突き止め、出来ればそれを止めるためにと、あちら側へと向かったのじゃ」
(……なるほどな。原因を突き止めただけでも大したものだが、結局は根本的な解決には至らず、こんな不完全な手動操作で進行を止めるのが精一杯だったというわけか)
俺は、老人の神経系を蝕む膨大な演算負荷を再確認し、内心で舌打ちする。
この街の均衡を保っているのは、理論に基づいた恒久的なシステムではなく、一人の老人が命を削って出力し続ける場当たり的な修正に過ぎない。
かつてプラネがこの地で行ったことも、時計塔や世界観の交差門の時と同じだ。
迫りくる破綻を先送りにするための時間稼ぎ。彼女もまた、この世界の理を解析しながら、不完全な現状を繋ぎ止めるための旅を続けていたのかもしれない。
(……ま、その続きは、俺たちが引き継いでやるよ)
とは言え、まずは実地を検分しないことには始まらない。
(行くぞ、クーリア。……それにしても、だ。今回のタスクもまた、一銭にもならんボランティアか。俺の演算リソースが、またしても考古学という名の非生産的な沼に吸い込まれていく……)
(えへへ、でもミコトさん。世界を救うのって、なんだか『特別報酬』がある気がしませんか? ほら、この景色とか!)
(……ふん。情緒的価値で俺の論理回路が納得すると思うなよ。……まあいい。今は実利よりも、この物理的バグを修正することに全リソースを割く)
俺の論理的憤りをよそに、高度は一気に臨界点へと達する。
空の色が濃紺から宇宙の闇を予感させる黒へと塗り潰され、足元から吹き上げていた風が止まった。
(ここが無重力、こちらとあちらの空の境界だ)
(何もしてないのに、フワフワしますね。でも、両方から引っ張られてるみたいなのに、引き裂かれる感じとかは無いんですねえ)
(実際に頭と脚を引っ張ってると言うよりは、もっと大きなマクロの物理現象だからな)
地球の重力と遠心力で擬似的な無重力を作るようなもの、或いは自由落下中に感じる浮遊感に近いだろう。
(ああ。重力と斥力が完全に均衡しているポイントだ。物理学的に言えば、二つの巨大質量の間に生じた、擬似的なラグランジュ点というわけだな)
静寂。
風の音さえ消え、ただ自分たちの心臓の鼓動だけが、共有された意識回路を通じて響いている。
ボアコートの裾が上下左右の概念を失い、まるで水中の海藻のようにゆらゆらと漂っていた。
まさしくここは『成層圏』だろう。
俺は『蒼の憧憬』の先端を、頭上に広がる(今や「下」となった)【逆天都市・インバース】へと向けた。
わずかな慣性を上書きするように、俺は重力定数の極性を反転させる。
(あ……落ちます! 空に向かって、真っ逆さまです!)
(ああ、今度は『落ちる』ぞ。姿勢制御を見失うなよ)
浮遊感が消え、猛烈な加速が再開される。
今度は、先ほどまで見上げていた逆天都市が、恐ろしい速度で迫ってきた。
雲を「下」に突き抜け、空を「下」に滑走する。
(ひええ、お空に大地があるように見えて目が回ります……)
(確かにこれは、地上の物理では分かり得ない感覚だな……)
俺たちは今、空という名の深淵を垂直落下している。
先ほどまで足元にあった雲海が、今は頭上で巨大な蓋のように遠ざかり、代わりに「天」にあった逆天都市の幾何学的な街並みが、猛烈な勢いで解像度を上げている。
やがて見えてくる『地表』。それはかつての古代文明の遺構だったのだろう。現代とは異なる意匠の建造物が所狭しと建っていた。
(クーリア、『地表』には触れるな。何がどう影響するか分からん。このまま浮遊を続けて調査するぞ)
俺達は逆さに浮いたまま周囲を探索する。
とは言え。
行けども行けども、目に映るのは朽ちた建造物ばかり。
(太古の古代文明である事を思えば、まるまる形が残っているだけマシか……。ここにある物を持ち帰って詳しく調べ上げてみたいが、迂闊な事をするとバランスが崩れかねん)
(今回ばかりはミコトさんでも火事場泥棒は出来ないんですね)
(人聞きの悪い事を言うな。どうせ誰も使わないリソースならば、俺が少しでも役立てた方が建設的じゃないか)
軽口を叩き合いながらも、俺は『蒼の憧憬』を通じて、周囲の空間密度をミリ単位で走査し続ける。
この逆天都市の幾何学的構造は、確かに地上とは対極の論理で成立している。
(……そうか、古代文明とは、どうやら俺が思っている以上に発達した技術だったんだな。魔法なんてのは、現代に残る一端に過ぎないほどの整然とした理論に基づく文明……。熱力学を無視した奇跡ではなく、エネルギーの指向性を極限まで洗練させた超科学の成れの果てか)
俺の脳内で、この逆天都市の構造式が次々と解読されていく。
ここにあるのは「神秘」などではない。ただ、あまりに高度に記述されたがゆえに、後世の人間には理解不能になっただけの物理学だ。
(だとすれば、プラネがやっていたことも「祈り」ではなく「保守」だったわけだ。……だが、その保守作業も、もはや限界を超えている)
建造物を一つ一つ調べ、まだ完全ではないが読める文字が増えてきた古代文字を読み解いていく。
プラネの前世はどの程度の文明だったのだろう。そして、この世界の古代文明とはどれ程のものだったのだろう。
(恐らくだが、この街は溢れ出す人口を受け入れる為の、スペースコロニーのようなものだ。しかし、この一帯にしか無いところを見ると、恐らくテストケース、それも失敗したのだろう)
この逆天都市と天銀の門……二つの街が引き合い、均衡を保つことで居住可能な閉鎖系を構築しようとした。だが、物理的整合性が維持できず、結果として重力の歪みという負の遺産を残すことになった。
(文明の行き着く先が、この危うい綱渡りか。皮肉なものだな)
やがて俺たちは都市の心臓部へと滑り込む。
そこは、周囲の朽ちた街並み同様に、しかし僅かに文明の名残を強く残す空間だった。
「ミコトさん、見て……! 柱に何か、文字が書いてあります」
クーリアが指差した先。
中心に鎮座する制御端末の表面に、現代の魔法文字とは明らかに異なる、だが俺にとっては見慣れた記述形式の言葉が「刻まれて」いた。
それは魔力による自動書記ではなく、何らかの工具で直接、物理的に削り出された個人的な走り書きだった。
『もしもこの地に訪れる後継者が居るならば。この世界の『不条理な優しさ』――祈りや想いが物理を捻じ曲げてしまう仕様に、あなたもさぞかし頭を抱えていることでしょう。私にはこんな組み方しか出来なかった。あなたならどう直す?
……それとも、あなたも私のように、『現状維持』という名の時間稼ぎで満足? それならそれで、世界はまだ、そこにあるでしょう。どんな選択をしていても、私に責める権利はないわ』
俺はクーリアの指差す先、その個人的な走り書きを、俺自身の論理回路に直接読み込ませる。
(……プラネ。お前、やっぱりそういう奴だったんだな)
その文面から滲み出すのは、万能の神の言葉ではない。限られた演算資源と、この世界の「想いが物理を歪める」という致命的な不条理に直面し、それでも諦めきれなかった一人の設計者としての苦悩だ。
(ミコトさん……。プラネさん、すごく一生懸命だったんですね。でも、自分だけじゃ足りないって、わかってたみたいで……)
(ああ。彼女は一人でこの巨大な欠陥住宅を支えようとして、結局、時間稼ぎを当てるのが精一杯だった。……だが、今は俺がここにいる。そして、お前もな)
俺一人ではプラネとは逆に、こんな誰も住んでいない街なんて切り捨ててしまえばいい、そう判断しただろう。
だが、俺の意識のすぐ隣には、この景色を「綺麗だ」と笑い、片翼を失ってまで街を繋ぎ止めた老人の「悲しい音」を聴き取る少女がいる。
読み終わると同時に、コンソールの隅に隠されていた小さな隔壁が静かに開いた。
(……ん? ミコトさん、何か出てきましたよ。……これ、時計?)
それは、この幾何学的で冷徹な古代遺構には似つかわしくない、使い古された銀時計だった。
魔導回路も、重力制御のパーツも組み込まれていない。ただ、カチカチと規則正しく時を刻むだけの、地上でもどこにでもあるような、それでいてこの世界にはあり得ないほど精巧な機械式の時計だ。
(……決めた。俺はこの街に『何もしない』)
(え、それじゃあ|翼人族は……)
(ああ。いずれ長老の死と共に、システムの維持は途絶え、この街は飛べなくなるだろう。地へと降り、彼らが忌み嫌った地這いと同じ土を踏むことになる)
俺は、制御端末に伸ばしかけた指を、静かに引き戻した。
クーリアが不安そうに俺の意識の深淵を覗き込んでくるが、俺の判断基準は揺るがない。
(いいか、クーリア。プラネが残したのは『どう直す?』という問いであって、『現状維持』の強要じゃない。あいつは……この不自然な二重構造が、もう限界だって分かってたんだ。長老の自己犠牲という名の無理な運用で、死に体の街を浮かせておくのが本当に『優しさ』だと思うか?)
(それは……)
(いつか、「同じ時間」を刻める誰かへ。……プラネがこの時計を遺したのは、時計の針を無理やり止めるためじゃない。狂った計時を捨て、新しい時間を歩み始めさせるためだ。この街には、墜落という名の再起動が必要なんだよ)
俺は、プラネの銀時計をクーリアのポケットに深く沈めた。
この街を浮かせるために誰かの命を部品にする、そんな非人道的な最適化を俺は認めない。
(俺たちが去り、長老の寿命が尽きた時、この街はゆっくりと地上へ降りる。翼を失う恐怖と引き換えに、彼らは|「誰かの犠牲の上に浮く」《バグ》という呪いから解放される。……それが、俺が出した最適解だ)
(……ミコトさんがそう言うなら、きっとそれが一番なんですね。おじいさんも、やっとゆっくり眠れるのかも……)
(ああ。……さあ、行くぞ。ここに長居しても、非生産的な感傷が増えるだけだ。……エルゼが痺れを切らして、ギルドの塔を物理的に破壊し始めてるかもしれんからな)
俺たちは、逆さまの都市に別れを告げ、再び重力の境界線を越えて「下」へと――未来へと落下し始めた。




