まだ寒いね
洗顔を済ませて一階へ降りると、まだ少し早い朝の食堂は、独特の静かな熱気に包まれていました。
昨夜の賑やかさとは一転して、観光客の姿はまばら。代わりに、朝食を急いで口に運んだり、持ち運びやすいパンや干し肉を選んで席を立つ冒険者たちの姿が目立ちます。
(……一晩で空気感がスイッチされたな。酒を飲んでいた昨夜とはスレッドが違う。奴ら、ここから先は『戦場』だという顔をしていやがる)
(そうですね。なんだか、皆さんピリピリしていて……見てるこっちまで背筋が伸びちゃいます。昨日のお酒を飲んでいた時とは別人みたい)
昨夜の楽しげな笑い声はどこへやら。装備を点検し、鋭い視線で外の様子を伺う彼らの姿からは、北の境界都市という場所の厳しさが伝わってくるようでした。
「おはようございます。朝食、お願いします」
私が席に着くと、昨夜のおばあさんが、焼き立ての丸パンと温かなスープを運んできてくれました。
「おはよう、お嬢ちゃん。早いねぇ。冒険者さんたちはこれからギルドや、山脈のふもとの調査へ向かうんだよ。お嬢ちゃんも、あんまり危ないところへは行っちゃだめだよ?」
「ありがとうございます。はい、気をつけて行ってきますね」
おばあさんに笑顔で応えながら、私はパンをちぎってスープに浸しました。温かい朝食が喉を通るたびに、少しずつ緊張が解けていく気がします。
(クーリア、周囲の会話ログを拾え。あいつらのピリついた空気からして、最近エルニット山脈の魔素濃度が上がっている可能性がある。……それと、時計塔の開門時間だ)
(はい。……あ、あそこの人たちが言ってます。時計塔の展望台は、太陽が完全に出る定刻からだって。街の平和を祈るための場所だから、入り口には教会の人もいるみたいです)
(教会、か。管理権限を握っているのが自治体ではなく組織なのは面倒だが、一般開放されているなら侵入パスは不要だな。よし、朝食を済ませ次第、その『楔』の正体を拝みに行くぞ)
私は最後の一口を飲み込み、琥珀色の瞳を窓の外へ向けました。
朝の光に照らされた時計塔。その金色の針が、私たちを誘うようにゆっくりと動いています。
食堂を出て、朝の冷たい空気が張り詰める大通りへと踏み出しました。
高くそびえる時計塔を見上げながら、私たちの意識は自然と、40年という時間を遡り始めます。
(さて、俺達の目的はプラネがどういう思想を持っているか、どうして世界のクロッシングゲートを作るのに自らが犠牲になったのか、それを知ることだ)
(プラネさんは、この世界について何を知ってしまったんでしょうね……。こんなに素敵な街が、誰かの犠牲の上に成り立っているなんて……)
私が少しだけ声を落としてそう言うと、ミコトさんの思考に、普段の皮肉っぽさとは違う、鋭く冷徹な響きが混ざりました。
(どこまで知ったのかは分からんが、あの『なにかしら屋』の影が見え隠れしている以上、俺達と同等レベルかもしれん。……あるいは、この世界のソースコードそのものに、もっと深くダイブしてしまった可能性もある)
(私たちと同じレベル……。じゃあ、ミコトさんがいつも言っている、この世界が少し『不自然』だってことも、彼女は分かっていたんでしょうか)
(ああ。そうでなければ、自らを環境維持用の人柱に充てるなんて、非論理的な選択はしないはずだ。……何かを守るためか、それとも何かから逃がすためか。その回答は、あの頂上のコアを見れば分かるのかもしれない)
宿屋での噂通り、時計塔の入り口には、白い法衣を纏った教会の人たちが静かに立っていました。
大きな鉄の扉が開かれる「カチリ」という重厚な音が、街中に響き渡ります。
いよいよ、40年前に打ち込まれた『楔』の中へ。
私は琥珀色の瞳をまっすぐ前へ向け、朝日に光る石造りの階段へと一歩を踏み出しました。
時計塔の入り口の受付。そこに立っていたのは、この国の国教――月天ルナリア教の、ゆったりとした白い法衣に身を包んだ神官様でした。その大きな胸元には、月の満ち欠けを象った銀の聖印が朝日に鈍く光っています。
(わぁ……私と比べると二周りくらい大きいです……)
(……は? どこを見ている?)
(むぅー。私だって、成長してから結構あるんですからね!)
(そうかい、俺にとってはだんだん重くなっていくウェイトのせいで姿勢制御に面倒なんだけどな。て言うか今はもう普通にデカいだろ)
(面倒って何ですかっ!)
(気にするな。それにしても……チッ、国教の介入だと? 迂闊な動きで怪しまれても面倒くさいが、単なる観光資源にしては、警備のレイヤーが厚すぎるな。クーリア、表面上の対応は任せた。俺は星屑の目を展開、周囲の監視と魔素の解析をする)
(むぅ……はい、わかってます)
「あの、すみません……」
私が恐る恐る声をかけると、神官様は穏やかな、けれどどこか透徹した瞳でこちらを見つめました。
「おはようございます、迷える子羊よ。この『静止の塔』に、何か祈りを捧げに来られたのですか?」
「はい。……あの、今日はこちらの展望台に登れると伺って。この街を守ってくれている、大きな時計を近くで拝見したいんです」
私の琥珀色の瞳をじっと見つめていた神官様は、流れるような金髪を揺らしながらおっとりと優しく微笑み、手元の分厚い名簿に羽根ペンを走らせました。
「はい、どうぞ。プラネ様が遺された慈愛の針は、等しくすべての人を照らすものです。……ですが、お嬢様。上層は魔素の密度が少々高くなっております。もし気分が悪くなったら、すぐに降りてくるのですよ」
(……「魔素の密度が高い」だと? 定常状態なら、時計塔の周辺はむしろ浄化されて安定しているはずだ。……やはり、深層部での負荷が漏れ出しているのか?)
(ミコトさん……。やっぱり、プラネさんは苦しんでいるんでしょうか)
(それを確かめに行くんだ。……さあ、手続きは済んだ。ゲートをくぐれ。この街の『心臓』を、直接スキャンしてやる)
そんな私の背後から「待って!」と、呼び声。
(……このタイミングで? クーリア、一度話を聞くぞ。俺が代わる)
(はい、お任せします)
「あなた、その黒髪、琥珀色の目……もしかして、プラネ様の血族なの?」
「……不躾だな。質問の意図が理解できない。会話を続けたいなら、もう少し順序を踏まえた方が良い。じゃあな」
ミコトさんの冷たい声が私の口から漏れた瞬間、後ろで呼び止めた女性――エルゼさんは、まるで氷水を浴びせられたみたいに固まってしまいました。
「あっ! ……ご、ごめんなさい! この辺りで黒髪の人って珍しくて! ……あ、いえ、そうじゃなくて、えと、その……」
必死に言い繕おうとして空回りする彼女を置いて、ミコトさんは容赦なく階段の方へ足を向けます。
(……やっぱりコイツ変人だ。関わらない方が良い。未知の変数を抱えたまま、メインタスクを遅延させるのは非効率だ)
(がっでむ! ミコトさん! いつからそんなに冷たい人になったんですか! せっかく勇気を出して話しかけてくれたのに!)
(……はぁ? どこで覚えた、そんな言葉……。まあ、神やら運命やらを否定するのは吝かじゃないが……。はあ、やれやれ、わかったよ、話くらいは聞いてやる。ただし、時間をロスする訳にはいかん。進みながらだ)
脳内での私の渾身の「がっでむ!」が効いたのか、ミコトさんは少し呆れたように、でも足を止めないまま、肩越しにエルゼさんを促しました。
「……用件を簡潔に。登りながら聞く」
「あ、ありがとう……! ごめんなさい、本当に。私、エルゼっていうの。ただ、あなたの姿があのプラネ様にあまりに似ていたから……」
エルゼさんは息を切らせながら、私たちの横に並んで螺旋階段を登り始めました。石造りの階段には、朝の冷たい空気が澱んでいます。
「40年前にプラネ様がこの街に『楔』を打ち込んだ時、私の父は若い頃に彼女の旅に一度だけ同行したことがあるの。……だから、その面影を忘れるはずがなくて。黒髪に、その琥珀色の瞳……」
(クーリアと同じ特徴、ね。だが、40年……流石に無関係だろう。人間寿命からすれば短くないが、記録が風化するには早すぎる。父が同行者だったなら、一次ソースに近いな。……クーリア、続きをサルベージしろ)
(はいっ!)
「……エルゼさん、お父様からプラネさんのことを何か聞いているんですか?」
私が尋ねると、エルゼさんは少し寂しそうに微笑みました。
「ええ。彼女は……いつも『世界がずれている』って言っていたそうよ。この時計塔も、彼女が無理やりこの街の時間を固定するために作ったんだって。でも……最近、この塔の上がおかしいの。教会は『聖なる魔素が満ちている』なんて言ってるけど、私には、何かが悲鳴を上げているように聞こえて……」
エルゼさんの言葉を聞いた瞬間、私の琥珀色の瞳の奥で、ミコトさんの思考が鋭いノイズを散らしました。
(……『悲鳴』、か。論理的な表現じゃないが、深層部の過負荷を直感的に捉えているようだな。……よし、この女、ただの背景キャラじゃなさそうだ。このまま『心臓部』まで連れて行くぞ)
重苦しい空気が漂う階段を一段登るごとに、ミコトさんが展開する星屑の目が、目に見えない魔素の歪みを次々と検出していきます。
いよいよ時計塔の中枢へと続く最終階層。その踊り場に立ちふさがったのは、祈りとは無縁そうな、欲の塊のような男でした。
宝石の重みで弛んだ司祭服が、彼がこの40年でどれほどの「寄進」を吸い上げてきたかを物語っています。
(……チッ、あからさまに面倒くさい権限持ちの登場か。見るからに冗長なデータを溜め込みやがって。クーリア、表面上の愛想は崩すな。余計な摩擦は時間の無駄だ)
(わかってます。……でも、この人、なんだか嫌な匂いがします。教会の香油の奥に、もっと……古い、埃っぽい匂い。それに、その……見られ方が……)
「……おや、お嬢さん。そこから先は一般開放されておりませんよ。聖なる楔の周辺は、信仰の厚い者のみが入ることを許される聖域なのです」
司祭の言葉は丁寧ですが、その淀んだ瞳は、私の琥珀色の瞳や、体に沿って最適化された『星霜の蒼』の質感を値踏みするように這い回ります。そのねっとりとした視線に、私は思わず自分の肩を抱いて身をすくめてしまいました。
(うう、なんだか気持ち悪いですよう……。ミコトさん、この人、私を人間として見てないみたいです……)
(とてもじゃないが聖職者のする目つきじゃねえな。……だが、こいつを物理的に排除して巨大権力と事を構えるのも得策じゃない。今の俺たちに指名手配は不要だ。……よし、ここはサッサと退散するぞ。システムが安定している今、下手に弄って強制終了させるのも良くないしな)
(えっ!? 帰っちゃうんですか? せっかくここまで来たのに……)
(引き際を誤るやつは二流のデバッグだ)
「……(おい、エルゼ。お前の出番だ。現地住民として、この肥満サーバーの注意を逸らしてログアウトの隙を作れ)」
「……(っ、そうね)し、司祭様、失礼いたしました。この子は私の遠い親戚で、どうしても一度プラネ様を拝みたいと……。ね、クーリア、行きましょう。司祭様のおっしゃる通りだわ」
エルゼさんが機転を利かせて私の腕を掴み、司祭の嫌な視線から隠すようにして階段を戻り始めました。司祭は「ほう、賢明な判断だ。……月天の導きがあらんことを」と、背中に向かって脂ぎった声を投げかけてきます。
階段を数段降りたところで、ミコトさんが脳内で忌々しげに吐き捨てました。
(……逃がしたな。だが、ただで帰るつもりはない。クーリア、すれ違いざまに、あの司祭の懐に星屑の目の断片を潜り込ませておいた。あいつの権限をトレースすれば、夜にでも裏口から入り込める)
(……! さすがミコトさん。……でも、夜にまたここに来るんですか?)
(ああ。公式アクセスがダメなら、不正アクセスで真実を引っこ抜くだけだ。……さあ、一旦外へ出るぞ。あの司祭の胡散臭い匂い……あれ、ただの不衛生じゃないな。封印された古い魔導具の匂いだ)




