白金の機密
あつあつのシチューで胃袋も心も少しだけ落ち着いた私たちは、ベンチから腰を上げました。
(ミコトさん、さっきの人、まだ気にしていますか?)
(未知のプロセスは常に監視対象だが、優先順位を上げすぎるのも非効率だ。それよりクーリア、日が落ちる前にセーブポイントを確保するぞ。夜間の環境負荷に備えて、安全なオフライン環境が必要だ)
(そうですね。夜になるともっと寒くなりそうですし、早めに探しちゃいましょう)
私は、長い黒髪を揺らしながら、新しくなった『星霜の蒼』のふかふかのファーに顔を埋めました。冬仕様になったこの服は、冷たい風を心地よい温もりに変えてくれます。
ノースゲートの街並みは、どこもレンガ造りのしっかりした建物が並んでいて、窓からは夕飯の準備をする温かな光が漏れ始めています。プラネさんが守っているこの穏やかな時間を、夜の闇に邪魔させたくない……そんな気持ちが、ミコトさんと重なる私の足取りを少しだけ強くさせました。
(おい、あそこの看板だ。『木靴の休憩所』。構造計算も堅実だし、防音性能も悪くなさそうだ。あそこを今夜のベースキャンプに指定する)
(わあ、可愛い名前! ミコトさんの選ぶところなら、きっとお布団もふかふかですね)
(……ふん。布団の弾性係数までは保証外だが、少なくとも不審なバックドアがないことは俺が保証してやる)
カランカラン、と乾いた鈴の音に迎えられて中に入ると、カウンターの奥から白髪の優しそうなおじいさんと、丸い眼鏡をかけたおばあさんが顔を出しました。
「おや、いらっしゃい。可愛らしい旅のお客さんだね。今夜のお宿をお探しかな?」
「はい! 一晩、お願いしたいんですけど……」
おじいさんの柔らかな笑顔に、私の琥珀色の瞳も自然と和みます。けれど、私の頭の中ではミコトさんが真面目な顔で「検分」を続けていました。
(……クーリア、正面の管理者の目を見ろ。認証プロセスはクリーンだ。背後のサブシステムも、こちらを孫を見るような甘い判定で見てやがる。ここならノイズに悩まされる心配はなさそうだな)
「うふふ、ゆっくりしていっておくれ。北の冬は冷えるからね、お部屋にはもう暖炉を入れてあるよ。あ、それから、お嬢ちゃん。その綺麗な蒼い服、とってもよく似合ってるねぇ」
「ありがとうございます! 自慢の服なんです!」
おばあさんに褒められて私がえへへと笑うと、ミコトさんはどこか誇らしげに鼻を鳴らしました。
(……視覚情報の評価は妥当だな。俺が最適化したコードに間違いはない。よし、記帳を済ませろ。トランザクションを完了させるぞ)
私たちは無事に鍵を受け取り、二階の角部屋へ向かいました。荷物を置いて一息つくと、ミコトさんが私の意識をシャキッと引き締めます。
(よし、リスポーン地点は確保した。完全に日が落ちるまで、まだ処理時間があるな。クーリア、この街の中央サーバーへ向かうぞ。プラネの足跡を辿るには、当時の稼働ログが必要だ)
(はい! ギルドに行けば、さっきの女の人のことも何かわかるかもしれませんね)
私は琥珀色の瞳を輝かせ、宿の扉を開けました。西の空はまだ橙色。
活気に満ちた夕暮れの街を、今度は「冒険者」としての第一歩を踏みしめながら、私たちはギルドへと向かいました。
夕闇が迫る中、私たちは急ぎ足で冒険者ギルドの重厚な扉を押し開けました。
ムワッとした熱気とともに、安いエールの匂いと、一仕事終えた冒険者たちの喧騒が押し寄せてきます。
(……チッ、予想通りの高負荷状態だな。S/N比が最悪だ。クーリア、脇目も振らずカウンターへ直行しろ。無駄なパケット通信は不要だ)
(はい、わかってます。……でも、皆さん楽しそうですね)
ミコトさんの指示通り、私は酔っ払った冒険者たちの隙間を縫って、一番奥の受付カウンターへと向かいました。
受付のお兄さんは、積み上がった書類の山と格闘していましたが、私が声をかけると少し驚いたように顔を上げました。
「すみません、少しお聞きしたいことがあるんですけど……」
「はいはい、依頼の報告かい? それとも……おや、見ない顔だね」
「あの……40年ほど前に、この街に滞在していた『プラネ』という冒険者の方の記録を探しているんです。ランクは……白金だったと聞いています」
私がそう切り出した瞬間、受付のお兄さんの手がピタリと止まりました。
周囲の喧騒が一瞬だけ遠のいたような、奇妙な空白。
「……40年前の白金ランク? お嬢ちゃん、悪いけどそりゃ無理な相談だ。白金級の個人の活動記録は、ギルド本部直轄の機密事項扱いだよ。たとえ親族だろうが、開示するには相当な手続きと信用ランクが必要になる」
予想通りの、素っ気ない拒絶。
でも、私の頭の中で腕を組んでいるミコトさんは、まるでそれを待っていたかのように鼻を鳴らしました。
(……ふん、想定通りのアクセス拒否だ。だが、今の反応で十分だ。「記録がない」とは言わなかった。つまり、この支部のデータベースには、確かに40年前のプラネのログが物理的に保存されているということだ)
(えっ? 見せてもらえなくても、それでいいんですか?)
(ああ。今はファイルの存在確認が通ればそれでいい。中身の解析は、俺たちが実地で掘り起こせばいいだけの話だ。……それに、白金級のデータが凍結されているということは、それだけ「世界にとって重大なバグ」に関わっていた証拠でもある)
「そうですか……。無理を言ってすみません。ありがとうございました」
私は丁寧に頭を下げると、少し残念そうな顔を作って(これはミコトさんの指示じゃなく、私の演技です!)カウンターを離れました。
受付のお兄さんは、去り際の私の背中――正確には、この冬仕様の蒼い服を、何かを思い出すような目でじっと見ていた気がします。
(……よし、撤収だ。日が暮れる。夜間モードに切り替わる前に、宿に戻って今日の成果を整理するぞ)
(はい! 結局、何も見せてもらえませんでしたけど……ミコトさんが満足ならよかったです!)
ギルドを出ると、空はもうすっかり深い藍色に染まっていました。
門番のように立ち尽くす時計塔の針が、夜の始まりを告げるように、カチリと音を立てた気がしました。
早めのお風呂で体の芯まで温まった私は、ほかほかの湯上がり気分で食堂へ降りました。
すでに何組かの宿泊客が楽しそうに食事をしていて、食堂は賑やかながらも落ち着いた雰囲気です。
案内された席に着くと、運ばれてきた料理に思わず目が輝いてしまいました。
シャキシャキしてそうな色とりどりのサラダに、皮がパリッと焼けたチキンソテー。
籠に盛られた丸くて可愛らしいパンからは小麦のいい香りがして、透き通ったコンソメスープは、スプーンですくうのがもったいないくらいキラキラしています。
(……ふむ。タンパク質とビタミン群のバランスは完璧だな。特にこのスープ、不純物の除去率が素晴らしい。透過度が高いのは、丁寧にフィルタリングされた証拠だ。この宿の調理プロセスは信頼できる)
(もう、ミコトさんったら。せっかくの美味しいご飯なんだから、分析ばっかりしないで一緒に楽しみましょうよ。ほら、このパン、ふわふわですよ!)
私は焼きたてのパンを一つ手に取り、ちぎって口に運びました。素朴な甘みが口いっぱいに広がって、お風呂上がりの体に染み渡るようです。
(……悪くない。糖分補給完了。次はメインの熱源だ。ナイフの角度を45度に保て、肉汁の流出を防げ)
(はいはい、わかってますよぉ)
心の中でうるさい教官に苦笑いしながら、私はチキンにナイフを入れました。
皮はパリッ、中はジューシー。溢れ出した肉汁をパンに吸わせて食べると、もう言葉にならないくらい幸せな味がします。
周りのテーブルからは、旅人たちの笑い声や、明日の予定を話す楽しげな声が聞こえてきます。
平和で、温かくて、美味しい夕食。
でも、ふとスプーンを口に運ぶ手を止めた時、視界の端に映った影に、ミコトさんの警戒レベルが一瞬だけ跳ね上がりました。
(……クーリア、3時の方角だ。……また会ったな、正体不明の個体だ)
食堂の入り口近く、暖炉の陰になる席に、昼間見かけたあの冒険者風の女性が一人、静かにスープを飲んでいたのです。
私は、お肉を咀嚼しながら、彼女の様子をそれとなく琥珀色の瞳に映しました。
彼女はスプーンを持ったまま、目の前のスープを見つめて動かなくなっています。湯気が消えかけているのに、一口も運ぶ様子がありません。
(でも、なんか様子がおかしいですね。上の空というか、何か考え事してるみたいです。……あんなに美味しそうなご飯なのに、悲しそうな顔をしてます)
(ふん……まあ、俺達には関係ない事だ。外部の個人感情までデバッグしていたら、処理リソースがいくらあっても足りん。それよりクーリア、サラダの食物繊維を先に処理しろ。血糖値の急上昇を抑えるのが、夜間の持続的な演算の鍵だ)
(もう、ミコトさんは相変わらず冷たいんだから……。でも、確かに今は時計塔のことが先決ですよね)
私は最後の一口のサラダを飲み込み、澄んだコンソメスープをゆっくりと味わいました。温かい液体が喉を通るたびに、体の中に新しいエネルギーがチャージされていくのがわかります。
ふと、遠くでカラン、と小さな音がしました。
あの女性が、ようやくスプーンを置いた音。彼女は結局、食事を半分以上残したまま席を立ち、俯き加減に食堂の奥へと消えていきました。
(……ミコトさん、彼女もこの宿に泊まっているみたいですよ)
(……同一ノードか。物理的な距離が近すぎるのは少し不気味だが、向こうからアクセスしてこない限りは放置でいい。……食事完了だな? 部屋に戻るぞ。夜の闇に浮かび上がる時計塔の発光パターンを、本格的に読み取る時間だ)
「はい。ごちそうさまでした!」
私は宿の老夫婦に元気よく挨拶をすると、お風呂上がりの温もりが消えないうちに、自分たちの部屋へと階段を上がりました。
部屋に入ると、閉め切った窓越しでも外の賑やかさがかすかに聞こえてきます。凍てつくような夜風の中でも、広場ではまだシチューの湯気が上がり、人々が笑い合っている。その逞しさに、ミコトさんは呆れたような、感心したような声を漏らしました。
(クソ寒い中、逞しいもんだ。少し北に寄っただけなのに、春でもこの地域ではこんな真冬みたいな光景は普通なのか?)
(本当ですね……。でも、あのシチューがあれば、みんな元気に過ごせるのかもしれませんよ)
私は、窓の外の夜景を少しだけ眺めてから、せっかく温まった体が冷えないうちに、厚手の毛布が用意されたベッドへと潜り込みました。
シーツから伝わるかすかな石鹸の香りと、ミコトさんが保証してくれた「ふかふか」の感触が、旅の疲れを優しく解きほぐしてくれます。
(明日は時計塔に登るぞ。どうやら一般開放されてるようだ。まあ、40年も特に何もないなら真新しい発見は望み薄だがな)
(一般解放……誰でも入れるんですね。それだけ街に溶け込んでるってことなのかな)
(ああ。日常の風景として定着させることで、異常を異常と感じさせない。……巧妙な隠蔽工作とも言えるがな。だが、俺たちの目で見れば、表層のデータに隠された物理的な摩耗や、プラネが残したコメントアウトが見つかるはずだ)
ミコトさんの冷静な分析を聞きながら、私は毛布を鼻先まで引き上げました。
目を閉じると、暗闇の中にあの球形の時計塔が、静かに時を刻んでいる姿が浮かびます。40年前、プラネさんは何を想って、あの場所に自分の一部を預けたのでしょうか。
(……おやすみなさい、ミコトさん。明日は、プラネさんの声を聴きに行きましょうね)
(……ああ。スリープモードだ。明日のリソースをしっかり蓄えておけ。おやすみ、クーリア)
脳の奥で、ミコトさんの声が柔らかい低電力モードに落ちるのを感じながら、私は心地よい眠りへと誘われていきました。




