北へ。
グリランドールの大きな門を抜けると、外の世界の空気が肺いっぱいに流れ込んできました。
広い街道の先には、まだ見ぬ景色が続いています。私は大きく背伸びをして、私の「中」でじっと外を眺めているミコトさんに語りかけました。
(さて。ここからはチュートリアル抜きの、実戦デバッグだ。準備はいいか、クーリア)
(はい、ミコトさん! ……でも、本当に歩いていかなくてもいいんですか? エミリオ様、あんなに真面目な顔で『同じ視線で歩くのが大事だ』なんて言ってましたけど。せっかくの冒険者デビューなのに)
私の頭の中で、ミコトさんが鼻で笑う気配がしました。あのエミリオ先生の神々しい見送りさえ、ミコトさんの冷徹な演算を通れば、ただの「無駄な演出」に変換されてしまうみたいです。
(なに、いくら40年前とは言え、馬車ぐらいはあっただろう。よっぽど路銀をケチりでもしない限り、そのくらいは使わせてもらうさ)
(もう、ミコトさんは相変わらず効率性ばっかりで可愛くないですね。あんなに素敵な笑顔で見送ってくれたのに)
(……笑顔だけだ。中身はただの厄介なクライアントだろ。それより、あんなボロそうな馬車で本当に北の山まで走れるのか? 途中でバラバラになったりしないだろうな?)
ミコトさんの視界を共有していると、のんびりした街道の景色が、なんだか数字や線の集まりみたいに見えてきます。ミコトさんは街道に並んでいる乗合馬車を品定めするように見つめていました。
(……おい、クーリア。あそこの時計塔の影を見ろ。なんだか歪んでるだろ。視覚情報の同期ズレじゃない。あれは空間の座標系そのものが多層に書き込まれている跡だ。この世界の混濁……複数の理が入り混じり、あちこちで空間の不整合を起こしてやがる)
(こん……だく? よく分かりませんけど、なんだか世界が風邪を引いてて、熱っぽくなってるみたいで、ちょっと嫌な感じですね)
(……風邪か。言い得て妙だな。まさか、俺が巻き込まれたという宇宙の新陳代謝とやらも、この歪みを無理やり初期化するための強引な工程の一部なのか……?)
ふいに、ミコトさんの声が低く、震えたように聞こえました。
この世界が混ざり合って、おかしなことになっている。その「不具合」と、ミコトさんがこの世界にやってきた理由が繋がっている……そんな怖いことを、ミコトさんは一人で解析しようとしています。
(ミコトさん……? 大丈夫ですよ。世界がバグり散らかしてるっていうなら、ミコトさんが直してあげればいいんです。……よね?)
(当たり前だ。勝手に仕様不備り散らかしているというなら、俺がこの手で、一から最適化してやるだけだ。……行くぞ。まずはあの移動手段を確保する。目標地点まで、一気に距離を稼ぐぞ)
(了解です、ミコトさん! ……あ、でも、馬車の中で食べるおやつだけは、私の自由で選ばせてもらいますね!)
(好きにしろ。ただし、栄養素の構成は後で俺がチェックするぞ)
呆れたような、でもどこか安心したようなミコトさんの声。
私は、難しい顔でロジカルな計算を続けているミコトさんを連れて、香ばしいパンの匂いが漂う馬車乗り場へと足を踏み出しました。
ガタゴトと揺れる馬車の座席に身を任せて、私たちは窓の外を眺めていました。
おやつに買った焼きたてのパンを頬張る幸せな感覚と、脳の奥でチリチリと燃えるような解析の熱。今の私には、そのどちらもが「自分」のこととして伝わってきます。
(……ふむ。エミリオの野郎、とんでもない仕様書を寄越しやがったな)
思考の海に、エミリオ様から託された記録が流れ込んできます。
プラネさんという女の人。凄腕の冒険者で、あの『銀の星屑亭』の店主さんの奥さんだった人。記録では「亡くなった」ことになっているけれど、その実態は少し違っていました。
(……自ら管理システムの一部となり、世界の安定を担保する人柱か。なるほど、この世界の『平和』とやらは、随分と非効率な犠牲の上に構築されているらしい)
窓の外を流れる長閑な田園風景が、今の「私たち」には少しだけ悲しく見えます。
この綺麗な景色を維持するための裏側で、プラネさんは40年もの間、たった一人で自由を奪われて、世界を動かすパーツになり続けている……。
(一流の攻撃者なら3分で解く難問を、俺なら3秒で突破する。だが、その『3秒』のために、彼女は40年もの間、防壁の構成部品にされ続けているわけだ。……胸糞悪い設計思想だな)
胸の奥が、ぎゅっと熱くなりました。
普段はあんなに意地悪な言い方をするミコトさんだけど、誰かが理不尽に縛られているのを見ると、自分のことみたいに怒ってくれる。その温度が、私自身の体温みたいに伝わってきます。
(ミコトさん、怒ってるんですね……。でも、大丈夫。この世界の解像度が上がったのは、私たちがこれを見つけるためだったんですよ)
(……フン。見えなくていいノイズが鼻につくようになっただけだ。気にするな、クーリア。お前は次の街で何を食うかでも考えていろ)
(えへへ、それならもう決めてます! 『北の玄関口』って言われる街ですから、きっと美味しいあったか料理があるはずですよ!)
私が考えた美味しい料理のイメージが、そのままミコトさんの意識にも流れ込んで、少しだけトゲトゲした空気が和らぎました。
私たちのやるべきことは決まっています。エミリオ様の未練をデバッグして、プラネさんをシステムの呪縛から解き放つこと。それが、なにかしら屋の兎さんから貰った「自由」の使い道。
(……よし、最初の目標地点が見えてきたな。まずはプラネがシステムに接続を試みた最初の遺構……そこにあるはずの40年越しのフリーズしたバグを、俺のやり方で強制終了してやる)
馬車の速度がゆっくりと落ちて、石畳を踏む乾いた音が響き始めました。
北へ続く街道の、最初の中継都市。
ここから、私たちの本当の修正作業が始まります。
馬車の車輪が、それまでの土の道から少しひび割れた石畳を叩く音に変わりました。
北の冷たい風が隙間から入り込んで、私は思わず肩をすくめます。
馬車から降りると、ツンと鼻を突くような冷たい風が吹いてきました。
寒さで思わず身をすくめようとしたその瞬間、私の体を包む『星霜の蒼』が、ミコトさんの意志に応えるように淡い光を帯びて波打ちました。
(……チッ、予想以上の低気温だな。クーリア、環境耐性プロトコルに切り替えるぞ。リソースを割いて熱効率を最適化しろ)
(あ……。すごいです、ミコトさん。あったかい……)
さっきまでの薄手の生地が、瞬く間にふんわりとした厚みのある質感へと変わっていきました。首元や袖口には真っ白なファーが現れ、冷たい風を完璧にシャットアウトしてくれます。蒼い色はそのままに、今の私にぴったりの、冬の旅人さんのような姿に。
ミコトさんが調整してくれたこの服は、どこにいても私を一番いい状態に守ってくれる。そのことが、なんだかとても誇らしい気持ちになりました。
(……よし! これならどれだけ雪が降っても大丈夫ですね)
足取りも軽く石畳に降り立つと、冷たい空気の中に、お腹の底を掴むような甘くて香ばしい匂いが漂ってきました。広場のあちこちで湯気を上げている、大きなお鍋。
(ようやく到着したか。インデックス通りの境界都市だ。名前の通り、ここから先はエルニット山脈……傲慢な『翼人族』どものテリトリーだな)
(わあ……ミコトさん、見てください! あそこの大きな街灯の下で、お鍋が湯気を上げてますよ。シチュー……ですね、あれ!)
私は人混みの向こう、広場に置かれた大きな鍋に目を輝かせました。お肉と野菜がとろとろになるまで煮込まれた白いシチューは、見ているだけで幸せな気持ちになります。
街の人たちはみんな穏やかな顔で笑っていて、プラネさんが長い間、自分を犠牲にしてまで守り続けてきた平穏が、この街には溢れていました。
ふと見上げると、広場の中央には透き通った球形の時計塔がそびえ立っています。
全方位、どこから見てもキラキラした金色の針が見える、不思議で綺麗な時計。でも、それを見つめていると、私の胸の奥にいるミコトさんの感情が、チリチリとした熱を持って伝わってきました。
(全方位監視型か。一見、合理的な設計に見えるが……。クーリア、あれがプラネの署名が刻まれた最初の遺構だ。あそこで彼女は、世界の混濁を食い止めるための『楔』を打ち込んだ)
(……あれが。すごく綺麗な時計ですね。でも、なんだか……ずっと呼吸を止めて、背伸びをしているみたいに、一生懸命な感じがします)
(……ああ。表面上は正常に動作しているように見えるが、深層部では膨大な負荷がかかってる。彼女が無理やり整合性を保たせているおかげで、この街の住人はバグに気づかずに済んでいるわけだ。……だが、それももう限界に近い)
ミコトさんの言葉は難しいけれど、その声はどこか悲しそうで、そしてとても怒っていました。
プラネさんがたった一人で背負い続けてきた40年間の重荷を、ミコトさんは自分のことみたいに感じているんだと思います。
(ミコトさん、まずは温かいシチューを食べて、それから考えませんか? ……プラネさんが守ってきたこの街の平和を壊さないまま、プラネさんを自由にしてあげられる方法、ミコトさんならきっと見つけられます。……ね?)
(当たり前だ。最適化こそが俺の本領だ。プラネという旧世代のパッチを外しても、この街がクラッシュしないようにシステムを書き換えてやる。……まずは、そのための燃料補給だ。あそこの一番デカい鍋のやつ、一杯もらうぞ)
(はい! 二人で一緒に、お腹いっぱいになりましょうね)
私は、脳の奥で腕をまくっているミコトさんの気配を感じながら、シチューのいい匂いがする屋台へと足を踏み出しました。
あつあつの白いシチューを前に、私たちは広場の片隅にあるベンチに腰を下ろしました。
木彫りの器から立ち上る湯気が、冷えた鼻先を優しく撫でてくれます。私はスプーンですくった大きなジャガイモを「はふはふ」と口に運びました。
(……ほう。この熱量構成、侮れんな)
私がその素朴な甘さにうっとりしていると、脳の奥でミコトさんの解析が止まらなくなりました。
(ベースは牛脂と小麦粉のルウだが、隠し味にこの地方特有の発酵乳を実装しているな。それによって乳脂肪分の重たさを酸味で相殺している。……さらに、この肉。ただの煮込みじゃない。あらかじめ低温調理に近い工程でタンパク質の変性を最小限に抑え、旨味成分の流出を防いでやがる。この屋台の親父、なかなかいいコードを書いてやがるな)
(……ミコトさん。せっかく美味しいんですから、そんなに数字や理屈で食べなくてもいいじゃないですか。ほら、このお肉、とっても柔らかくて幸せな味がしますよ?)
(味覚センサーの反応は認める。だが、効率的なエネルギー補給には構造の理解が不可欠だ。……待て、この香辛料の配合は……)
異様なほど細かくシチューを「解剖」するミコトさんに、私は少しだけ引きながらも、負けじとお肉を頬張ります。
でも、そうやって二人で騒がしく頭の中で笑い合っていた、その時でした。
ふと、少し離れた卓に座っている一人の女性と目が合った……気がしたんです。
使い込まれた革鎧に、落ち着いた色のマントを羽織った冒険者風の人。彼女は手元の器を置くでもなく、じっとこちら――正確には、私の姿を借りてシチューを分析している「私たち」を観察しているようでした。
(……ミコトさん。あそこの人、なんだかこっちを見てるみたいです)
(……ああ。光学迷彩を張っているつもりはないが、ただの町娘を見る目じゃないな。俺たちの出力を測っているのか、それとも『星霜の蒼』の異常な質感に気づいたか……)
ミコトさんの声が、一瞬でシチューの品定めから警戒モードへと切り替わりました。
女性はすぐに視線を逸らし、何事もなかったかのように自分の食事に戻りましたが、その横顔には、この街の穏やかな空気とは少し違う、鋭い影が差しているように見えました。
(……厄介な割り込み処理じゃなきゃいいんだがな。クーリア、残りの燃料を急いで流し込め。時計塔のデバッグを前倒しするぞ)
(ええっ、もう少し味わって食べさせてくださいよぉ……!)
私は最後の一口を名残惜しく飲み込みながら、もう一度だけ、その女性のいた卓の方をそっと盗み見ました。




