殴り込みじゃあっ!
研究室の扉を、私はノックもそこそこに押し開けました。
室内には、いつものように淹れたての紅茶の香りと、古書の埃っぽさが混ざり合った、どこか浮世離れした空気が漂っています。
「……おや、今日は早いね。新学期の準備はもう済んだのかな? 私の可愛い助手さん」
窓際の机で、優雅に頁を捲っていたエミリオ――その美少女の皮を被った老狸が、こちらを見て微かに目を細めました。
私はその視線を真っ向から受け止め、隠そうともしない冷徹な、ミコトさんの色を帯びた瞳で彼を射抜きます。
「……エミリオ先生。いえ、エミリオ。芝居はもういい。場合によってはもう、これ以上あんたの助手は続けられないかもしれないからな」
私が一歩踏み出すと、プラネ――『星霜の蒼』が、私の感情に呼応するように、僅かに蒼い燐光を放った気がしました。
「『プラネ』……。店長さんから聞きましたよ。あなたのかつての相棒ともいえる人、そしてこのドレスに刻まれた、その名前の主について」
その瞬間、エミリオの手元で頁を捲る指が、ピタリと止まりました。
いつもの余裕たっぷりな笑みが、仮面が剥がれ落ちるようにスッと消え、その瞳の奥に、司書でも教師でもない、一人の執念深い魔導師の貌が浮かび上がります。
「……ほう。あのごつい店主に会いに行ったのか。余計なことを。……それで? その名前を知って、君たちは私に何を求めにきたんだい?」
(……かかったな。声のトーンが半オクターブ下がった。……おいクーリア、逃がすなよ。こいつが隠している『地下遺構』という名の嘘の裏側……プラネの魂をどう弄ぶつもりなのか、その全貌を吐き出させる)
「先生は初めて会ったとき、『懐かしい匂い』と言いましたね? どうしてその時に何も教えてくれなかったんです?」
私の声は、自分でも驚くほど低く、冷たく響きました。
琥珀色の瞳の奥、ミコトさんの怒りが静かな圧力となって室内の空気を震わせます。
エミリオは、ピリついた空気の中でも動じることなく、ゆっくりと椅子に背を預けました。その表情からは先ほどの険しさが消え、代わりに底の見えない、深い沼のような静寂が広がっています。
「……酷いな。私だって、確信があったわけじゃない。ただ、君がそのドレスに袖を通した瞬間、空気の魔素組成が劇的に書き換わったんだ。それは、かつて私が最もよく知っていた『彼女』の癖、そのものだった」
エミリオは視線を落とし、机の上に置かれた自分の白い指先を見つめました。
「教えなかった……? いや、教えられなかったのさ。君という器に、彼女の残滓がどれほど馴染んでいるのか、それともただの偶然なのか。それを確かめる前に事実を突きつけて、君の魂がプラネに飲み込まれてしまったら、元も子もないだろう?」
(……ふん、もっともらしい言い訳を。クーリア、騙されるな。こいつは『飲み込まれる』ことを危惧したんじゃない。むしろ、お前の魂を侵食させて、プラネを再構築するための最適な同期率を測っていただけだ)
ミコトさんの脳内での呟きは、確信に満ちた軽蔑を帯びていました。
「……『彼女』がどうなったのか、店長さんは知りませんでした。白金の冒険者として、最後はあなたと一緒に、学園のどこかを調べていた……そこまでです。エミリオ先生、あなたが創ったこの『星霜の蒼』は、一体何をさせるための装備なんですか? 『地下遺構』なんて嘘で、本当は何を……」
私が一歩踏み出し、問いを重ねようとしたその時。
エミリオ先生が、ふっと小さく、自嘲気味に笑いました。
「……嘘、か。確かに、想定外を予測出来なかった事実を認めるなら、それは嘘になるかな。実は、あのプラネの服と君のドレスが融合するだなんて、想定外にも程がある結果だったんだよ。言うなれば、そこから先は私にも分からないイレギュラーなんだ」
エミリオ先生は、降参だとでも言うように軽く両手を上げて見せました。その瞳には、嘘をついている時の滑らかさではなく、純粋な魔導師として測りきれない事象に直面した時の、乾いた知的好奇心が混じっています。
(……チッ。想定外、だと? どこまでが計算で、どこからが偶然か……。だがクーリア、こいつの『分からない』という言葉だけは真実味がある。俺たちがこの世界に落ちてきたこと自体が、この世界の理から外れた最大のイレギュラーだからな)
「でも、エミリオ先生。それなら、どうして『プラネ』さんの名前が、このドレスの……星霜の蒼の名前に付いているんですか? 名前を付けたのは、先生ですよね?」
私は、逃げ道を塞ぐように問いを重ねました。
エミリオは視線を窓の外、遠くの空へと向けます。
「いや、正確には私ではないよ。そもそも、蒼の結晶で作られたドレスなんて、それこそ想定外だよ。しかし……」
エミリオ先生の声に少し、熱がこもります。
「君という未知の魂が、彼女の遺した器と融合し、新たな形を成した。……いいかい、クレアハート。私が君を助手に選んだのは、君をプラネにするためじゃない。君の中に生まれたその『新しい理』が、彼女が囚われている場所に届く唯一の鍵になるかもしれない……そう思ったからだ」
研究室の空気が、じわりと重くなります。
ミコトさんは脳内で、エミリオの語った「世界の欠陥」と「魔素の波形」というキーワードを高速で精査していました。
(……なるほどな。プラネを再構築するのが目的ではなく、お前という『最強の演算器』を使って、彼女を飲み込んだシステムそのものをハッキングさせようって腹か。……どこまでも他力本願で、反吐が出るほど合理的な執着だ)
ミコトさんの冷徹な声が、私の意識の奥で鋭く弾けます。
「……それで、先生。その『特異点』とやらは、どこにあるんですか? 地下遺構なんていう適当な名前を付けるくらいの場所に、何があるっていうんですか?」
私の中に、理由が分からないけどとにかく黒い炎が舞い上がり始めました。
「……場所、か。物理的な位置を尋ねるなら、答えは『ここ』だ。この学園そのものが、彼女という犠牲の上に築かれた蓋のようなものだからね」
エミリオは淡々と、けれど残酷な事実をさらりと口にしました。
その瞬間、私の胸の奥で、どろりと熱く、どす黒い感情が渦を巻きました。理由なんて分かりません。でも、目の前で悲しげな顔を作りながら、私たちを利用しようとしているこの男のすべてが、猛烈に癪に障るのです。
(……おい、クーリア。落ち着け。魔力が乱れているぞ。……だが、そうか。この学園自体がプラネを検体にした巨大な魔法回路だというのなら、話は早い。……反吐が出るな。こいつは愛する女を助けたいんじゃない。自分の失敗を上書きするために、お前という『新しい筆致』を欲しがっているだけだ)
ミコトさんの軽蔑に満ちた言葉が、私の黒い炎に油を注ぎます。
私は無意識に拳を握りしめ、エミリオを睨みつけました。
「……身勝手すぎます。店長さんは、今でもあのお店で彼女を待っているのに。あなたは、彼女をシステムの一部として扱い、今度は私をその鍵にしようとしている……。それが、あなたの言う『救い』なんですか?」
私の琥珀色の瞳から、隠しきれない威圧感が漏れ出します。
エミリオは、その熱量に圧倒されたのか、一瞬だけ目を見開きました。
「……感情的だね、クレアハート。だが、その怒りさえも、今の君には莫大なエネルギーになる。……いいかい、私が求めているのは結果だ。プラネをあの閉ざされた時間から引きずり戻せるなら、私は喜んで悪魔にでも、君の奴隷にでもなろう」
「ふざけないでっ!」
私の叫びと共に、室内の書類がバサバサと舞い上がりました。
プラネ――『星霜の蒼』が、私の怒りに呼応して、かつてないほど鋭く、冷たい光を放ち始めます。
(いいぞ、クーリア。そのまま叩きつけてやれ。……エミリオ、貴様の望み通り『鍵』は回してやる。だが、扉を開けた先に待っているのが貴様の望む未来だとは限らない。……俺たちが、その歪んだ未練ごと、この世界のバグを完全消去してやるからな)
エミリオ先生……いえ、エミリオは、悲しげに首を振り、
「いずれこうなると分かっていたら、せめて、君に神聖魔法を教えてからにしたかった……《無慈悲な王は断頭台の前に立つ魔女に告げる――平伏せ》」
その瞬間。
溢れる魔力に満ちていた私の体が、理不尽なプレッシャーに押し潰されて床に叩きつけられました。
(なっ!?)
(えっ!?)
困惑する私達を意に介さず、エミリオは続けます。
「神聖魔法の真髄の一つ、『真言』。これは『限定的絶対確定世界』へのアプローチだね。まあ、私もまだまだ完全には扱えないんだけど、クレアハートちゃんみたいに無防備な相手にならそれ程労せず効果が出ると思うよ? ほら、今だって動けないでしょ?」
「……くっ、あ……っ!」
床に縫い付けられたような重圧。それは物理的な重力ではなく、まるで世界そのものが「お前はここに跪け」と命令しているような、理不尽極まりない強制力でした。
指一本動かすことすらままならず、視界が屈辱で歪みます。
(神聖魔法……っ! 魔導の極致にある『権能』の模倣か! ……野郎、最初からこの手札を隠し持っていやがったな!)
(ミコトさん……体が、凄く重い、です……! 何かに押し付けられてるみたい……!)
ミコトさんの焦燥が伝わってきます。いくら最強の演算能力があろうと、書き換えられた「確定事項」の中に閉じ込められては、逃げ場がありません。
エミリオは、悲しげな少女の貌のまま、ゆっくりと私を見下ろしました。
「本来なら、神聖魔法は信じる神への祈りを通じて確定されるものだけど……。私の場合はもっと実用的だ。観測した事実を、強制的に現実として固定する。……君が今、私の前で『平伏している』。それがこの空間における、唯一の絶対解だ」
エミリオはコツ、コツと音を立てて近づき、動けない私の前に屈み込みました。
「怒るのは勝手だが、せめて私の手のひらの上で踊ってくれないかな。君を失いたくないというのは、本心なんだよ? これでもね」
その白く細い指先が、私の頬に触れようとした、その時。
(……ふざけるな。……誰が、お前の描いた『解』などに、甘んじて従うと言った?)
私の中から、先ほどよりもさらに暗く、深い場所からミコトさんの声が響きました。
それは震える私を叱咤するものではなく、世界のシステムそのものを嘲笑うような、絶対的な強者の響き。
(クーリア、意識をよこせ。……『確定した世界』だと? 笑わせるな。そんなものは、ただの静的な出力に過ぎない。俺たちが、その上から強制的に上書きを当ててやる)
私の琥珀色の瞳の奥で、蒼い光と黒い炎が混ざり合い、不規則な幾何学模様が走り始めました。
(そもそもクレアハートとしての力の根元は、あの白いなにかしら屋のものだ、魔力ですらない。では何か? 理解が及ばない部分はあるが……しかし、より根元、より上位である可能性は高い。……おい、なにかしら屋! 見てるなら少しは手を貸せ!)
ミコトさんが、恐らく無意識にダウンクロックを発動させ、周囲の時間経過がほぼゼロまで遅くなりました。




