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星霜のルーツ

 店長さんは、手慣れた動作でミルクを温め始めました。

 シュンシュンと鳴る蒸気の音と、温かな甘い香りが、店内の張り詰めた空気をゆっくりと解かしていきます。


「……で、どうしたんだ。その格好。いや、格好だけじゃねえ。……なんだか、すごく遠いところへ行ってきちまったような、そんな顔をしてるな」


 店長さんはカウンター越しに、私の瞳をじっと見つめました。

 その視線には、かつて駆け出し冒険者として臨時バイトとしてやってきた、少し頼りない儚げな少女を心配していた頃のままの、不器用な優しさが宿っています。


(クーリア、あまり深入りした話はするなよ。エミリオについて少しずつ聞き出すんだ)

(ミコトさん、分かりました)


 私は温かいカップを両手で包み込み、その熱を確かめるように一口啜りました。

 口の中に広がる優しい甘さ。それは、学園での息の詰まるような「全属性検証」や、エミリオとの化かし合いで磨り減った心を、柔らかく包み込んでくれるようでした。


「えぇと……少しだけ、頑張ってみたんです。そしたら、なんだか急に背が伸びちゃって。ところで店長さん、あの、エミリオ先生って知ってますか?」


 私の問いかけに、ミルクを注いでいた店長さんの手が、一瞬だけ止まりました。


(ラグだ。0.5秒。……おい、当たりだぞ。店主の意識の深層に、あの狸の名が刻まれている)

(店長さん、やっぱり何か知ってるの?)


 店長さんは、ふう、と短く息を吐くと、カウンターに肘をついて遠くを見るような目をしました。


「……エミリオ、か。懐かしい名前だ。……あの『若作り』の変態野郎には昔、世話になったんだよ。ああ、俺じゃなくてカミさんがな。嬢ちゃんこそ、どこでソイツを知ったんだ?」


(ミコトさん、どうします?)

(ふむ……図書館で出会った事と、その縁で学園に通うことになったのは伝えてもいいだろう)


「実は、国立図書館で知り合ったんです。その縁があって、今は学園高等部の実習生として、エミリオ先生の授業を受けたりしていて……」


 私は、ホットミルクの湯気の向こう側で、努めて自然に答えました。

 店長さんは「学園」という言葉を聞いて、驚いたように眉を跳ね上げ、それから納得したように深く頷きました。

「学園、か……。あの野郎、まだあんなところで教壇に立ってやがったのか。……道理で、嬢ちゃんの雰囲気が変わるわけだ。あそこの空気は、ただの街娘を立派な魔導師に仕立て上げちまうからな」


(やはり、エミリオが教職にあることは知っていたが、最近の動向までは追っていないようだな。だが、カミさんが『世話になった』というのが引っかかる。……クーリア、もう少し踏み込んでみろ)


 私は心の中だけで頷くと、


「あの、店長さん。エミリオ先生、奥さんの何を手伝ってくれたんですか? その、奥さんも魔法を……?」


 店長さんは、カウンターの隅にある、今は誰も座っていないお気に入りの席に視線を落としました。


「ああ、いやなに、うちのカミさんは元『白金の冒険者』だったんだよ。と言っても、仕事の内容とかは良く知らねえんだけどな。駆け出し冒険者とかだったらまだ分かるが、白金ともなると直接指名依頼が多くなるみたいでな」


(元『白金』だとっ!?)

(わわ、何か急に凄い話ですねえ)

(いや、一応俺達も白金だからな?)

(そうですけど、今の所なにもそれらしいことしてませんからイマイチ実感が……)


「……元『白金』、ですか。店長さんの奥さんが」


 私は、驚きを隠しきれないまま、けれどミコトさんの警戒心を引き継いで、少しだけ声を低くしました。


「へへ、驚くだろ? 俺も最初は信じられなかったんだ。あんなに小柄で、それこそ今の嬢ちゃんより少し背が低いくらいだったんだからな」


 店長さんは、まるで見慣れた光景を思い出すように、懐かしそうに笑いました。


「あいつ、いつもこのカウンターの端っこで、お気に入りのリキュールを舐めながら、あのアホの狸……エミリオと難しい魔法の話をしてやがった。エミリオはとくに優秀だったカミさんに、いつも真っ先に指名依頼を持ってきてたんだよ」


(……白金の冒険者と、そのお得意様(クライアント)ってわけか。おいクーリア、そのカミさんの『仕事内容』、分かる範囲で訊いてみるぞ)

(店長さんは詳しくは知らないんですよね。自分の奥さんが、どんな戦いをしていたのか……。でも、それって、すごく悲しいことな気がします……)


「あの、店長さん、その奥さんが受けてた依頼って、どんな感じでしたか?」


 店長さんは顎に手を当てて思い出す仕草をします。


「あー? ……あー、まあさっきも言った通り詳しくはねぇが……何か一つの依頼を受ける度に、数日から下手すりゃ数ヶ月帰ってこないとかだったな。やれどこぞの遺跡から何か取ってこいだの、やれどこぞの遺跡を調整して来いだので無駄に時間がかかる依頼が多かったみてえだ。割の良い仕事ではあったみてえだが、お陰でエミリオの方は『プラネを独占しすぎだ』なーんて言われて非難を浴びてたりしたらしいぜ」


(プラネ!? まさか、店長の奥さんの名前か!?)

(ええっ!? き、訊いてみましょう!)


「あの、店長さん、プラネ? って、奥さんの名前ですか?」

「ん? あぁ、そう言や、ずっとカミさん呼びしてたから名前教えてなかったな! そう、カミさんは『白金の冒険者』の中でも『永遠の幼女天使』とか言うよく分からん二つ名を持つ、そこそこ有名な冒険者だったんだよ」


 ……えぇぇ。なんですか、その二つ名……。


(俺だったら即却下だな……)

(私も、ちょっと……)

(だが、これで『星霜の蒼』がどうしてアズール・プラネなのか、少しずつ見えてきたな)

(そうですね、私が『蒼のドレス』と『プラネさんの服』が融合する時、見えた姿がもしかしたらプラネさんだったのかもしれません)


「……永遠の幼女天使、ですか」


 私は、そのあまりに独特すぎる二つ名を口の中で繰り返して、なんとも言えない複雑な気分になりました。

 ミコトさんの言う通り、もし私がそんな名前で呼ばれたら、恥ずかしさで世界の理を書き換えて、人々の記憶から消去してしまいたいと思うに違いありません。


(……おいクーリア、呆れている場合じゃないぞ。その二つ名と『十歳並みの幼児体型』というカミさんの特徴、そして『プラネ』という名……。俺には見えなかったが、お前が融合の瞬間に見たあの残像は、間違いなくこの店主の奥さんだ)

(はい。プラネさんが使っていたからなんですね。でも、どうしてプラネさんの名前が、この『星霜の蒼』……蒼の装備(アズール・シリーズ)の名前になっているんでしょう)


 店長さんは、私たちの困惑を「白金の凄さに圧倒されている」と勘違いしたのか、ガハハと豪快に笑いながら、新しいミルクの準備をしています。


「まあ、変な名前だよな。俺も初めて聞いた時は吹き出したよ。……だが、エミリオの野郎だけは違った。あいつ、カミさんが亡くなった後、ひどく落ち込んでよ。……それこそ、自分の魂の半分を失ったみたいに、抜け殻になっちまってたんだ」


 店長さんは少しだけ声を落とし、磨いていたグラスを光にかざしました。


「あいつがプラネ……カミさんの名前を冠した何かを作ろうとしてたのは知ってる。……それが、嬢ちゃんが学園で習ってる魔法に関係あるのかは分からねえが……。あいつにとってプラネは、ただの仕事仲間以上の、救いだったんだろうな」


(……救い、か。エミリオはプラネという個人の再現を試みているのか、あるいは彼女が調整していた『遺跡』のシステムそのものを取り戻そうとしているのか。……いずれにせよ、あの狸が俺たちを『助手』にしたのは、お前の中にプラネの面影、あるいは適合性を見たからに他ならないな)

(店長さん。エミリオ先生、今もその『プラネさん』を探しているのかもしれません)


 私は、カウンター越しに店長さんの手元を見つめました。

 店長さんは、カミさんが「白金」としてどんな依頼をこなし、どんな最期を遂げたのか、その核心は今も知らないまま、ここで彼女の愛した店を守り続けている。


「……店長さん。私、その『プラネさん』に少しでも近づけるように、頑張ってみますね」


 私がそう言うと、店長さんは少しだけ目を見開き、それから優しく微笑んで私の頭を撫でようとして……途中で「は、ろくでもねえや。カミさんはカミさん、嬢ちゃんは嬢ちゃんだろ」と照れくさそうに手を引っ込めました。


「……そうですね。私は私、です。店長さん」


 私は、店長さんのぶっきらぼうな、けれど温かな言葉に、自然と口元が綻ぶのを感じました。

 店長さんは、私に「プラネ」という幻影を重ねて見ているかもしれない。けれど、それ以上に「今ここにいる私」をちゃんと見てくれている。そのことが、今の私には何よりも救いでした。


(……フン。意外とまともなことを言うオヤジだ。……だが、クーリア。このオヤジが知らない『プラネ』の裏の顔……白金の冒険者としての足跡を追えば、自ずとエミリオの真の目的に辿り着くはずだ。プラネが調整していたという遺跡、そして『永遠の幼女天使』というふざけた二つ名の由来。……調べる価値はあるな)

(そうですね。……でもミコトさん。プラネさんが亡くなった後、エミリオ先生が『抜け殻』になったっていうお話……なんだか、胸がキュッとなります)

(感傷は効率を鈍らせるぞ。……さあ、いつまでもここに居座るわけにもいかない。そろそろ開店の時間だ)


 ミコトさんの言葉通り、表の通りからは人の気配がし始め、バイトの彼も看板を出す準備を始めています。

 私は最後の一口、少し冷めかけたけれど最高に美味しいミルクを飲み干しました。


「ごちそうさまでした、店長さん。……あの、また明日からも、時々手伝いに来てもいいですか? エミリオ先生の助手もしなきゃいけないから、毎日は無理かもしれませんけど……」


 私がそう尋ねると、店長さんは豪快に笑いながら、空になったカップを下げました。


「当たり前だろ! 嬢ちゃんがいないと、うちの看板娘枠が空いちまって困るんだよ。……ほら、さっさと行きな。高等部の勉強、しっかり頑張れよ!」


 私はもう一度だけ、馴染み深いカウンターの匂いを吸い込んでから、店の扉へと手をかけました。

 カランカラン、と。

 再び鳴ったドアベルの音は、昨日までの不安を払い落とすような、晴れやかな響きがしていました。

 そんな天気とは裏腹に。


(さて、まずはあの狸に少し強めに詰問してやらんとな。いつもみたいにのらりくらりと答えるつもりなら、此方にも考えがあるぞ)

(え、えぇ……ミコトさん、あんまり物騒な事はぁ……)

(ふん、それは奴次第だ)

(穏便に終わる気がしません……)


「……よし、行くぞ、クーリア。準備はいいな?」


 私は歩きながら、意識の表層をミコトさんに半分ほど預けました。

 学園へと戻る足取りは、店を出た時の晴れやかさとは裏腹に、どこか鋭い刃物のような冷たさを帯び始めています。


(ミコトさん、本当に大丈夫ですか? エミリオ先生、ああ見えてすごく頭が回る人ですし……)

(ああ。だからこそ、搦め手ではなく『事実』を叩きつける。……店主から聞いた『プラネ』の名、そして白金の冒険者としての足跡。これだけの外堀を埋めれば、奴もただの司書を演じ続けるのは不可能だ)


 学園の正門を潜り、私たちは一直線に図書館……あるいは、あの狸が潜んでいるであろう研究室を目指します。

 道行く生徒たちが、高等部の制服を完璧に着こなした私たちの姿に目を奪われていきますが、今のミコトさんの視界には、目標以外の一切が映っていません。


(いいか。エミリオがプラネの再現……あるいは復活を目論んでいるのだとしたら、その中核にあるのは、あの『水槽の少女』だ。……魂の抜けた器に、誰の魂を戻そうとしているのか。それを吐かせる)


(もし、それが本当にプラネさんなんだとしたら。……店長さんは、それを望んでいるんでしょうか)

(さあな。だが、死者を弄ぶのがあいつの『救い』だと言うのなら、俺はそれを『バグ』として処理するまでだ)


 研究室の重厚な扉の前に立ち、私は一度だけ深く息を吐きました。

 琥珀色の瞳の奥、ミコトさんの冷徹な演算が、エミリオという不確定要素を排除するためのシミュレーションを高速で繰り返しています。


 コン、コン。


 あえて遠慮のない、強い音で扉を叩きます。


「エミリオ先生。……入りますよ。少し、答え合わせをしたいことがありまして」


 返事を待たず、私は扉を押し開けました。

 そこには、いつものように優雅に紅茶を嗜んでいるか、あるいは古ぼけた書物に埋もれているであろう、あの『美少女』姿の狸が待ち構えているはずです。

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