久し振りの銀の星屑亭
翌朝。
春休みの澄んだ空気とは対照的に、私の頭の中は昨夜の全属性検証のせいで、泥のように重いままでした。
(……おい、クーリア。いつまでスリープモードしてるんだ。……行くぞ。あの狸の喉元に、昨夜の解析結果をパッチしてやるんだからな)
(ミコトさん、朝から元気ですね……。私はまだ、あの『しびれるね』の文字が目に焼き付いて離れませんよ……)
私は、壁から剥がれ落ちて机の上にちゃっかり鎮座している『依頼書』を、これ以上ないくらい複雑な目で見つめてから部屋を出ました。
静かな廊下を抜け、私たちは再び研究棟へ。
扉の向こうでは、今日も「美少女の皮」を被った狸ジジイが、淹れたての紅茶の香りと共に、私たちの到着を待ち構えているはずです。
(……クーリア、いいか。今日は『猫』を被りつつも、核心を突く。……『魔素生命体』と『娘』。この単語を出した時のあいつの反応速度を逃すな。……少しでも遅延があれば、そこが嘘のつきどころだ)
(……了解です、ミコトさん。……でも、もしエミリオ先生まで『がんばれ』なんて言い出したら、私、今度こそ泣いちゃいますからね?)
私は大きく深呼吸をして、昨日よりも少しだけ「重い」手で、研究室の扉をノックしました。
研究室の扉を開けると、そこには今日も美少女の皮を被ったエミリオ先生が、山のような教科書を前にニコニコと座っていました。
「やあ、おはようクレアハートちゃん。昨夜はよく眠れたかな? さあ、今日も楽しい特等席の始まりだよ」
(チッ。あの狸、昨夜の俺たちの苦労も知らずに、いい気なもんだ。……いいかクーリア、あいつの講義は冗長な記述が一切ない。一言も聞き漏らすな。中等部の基礎を完璧に同期させないと、高等部の授業で恥をかくのは俺たちだからな)
(わかってます。でも、算術に歴史に魔導理論……。これ、本当に一週間で全部終わるんですか!?)
「あはは。そんなに青い顔をしないで。君は天才的な思考能力があるんだから、普通の子の三倍速で理解できるはずだよ。……さあ、まずは魔導流体力学の基礎、中等部第ニ段階の数式からいこうか」
エミリオ先生の授業は、驚くほど正確で合理的でした。
おっとりとした口調ながら、私が躓きそうな部分を先回りして、噛み砕くように説明してくれます。ミコトさんが「狸」と呼んで警戒していなければ、最高の先生だと思えるくらいに。
(……ほう。この公式、現在の主流とは違うが効率がいいな。……おいクーリア、右のページの下に書いてある注釈をメモしろ。そこが実技での最適化の鍵だ)
(はいっ! ……ええと、ここと、ここを繋げて……。……あ、本当だ。魔力の流れがすごくスムーズに見えます!)
ミコトさんが脳内で補足説明を加え、エミリオ先生が表側から新しい知識を流し込む。
私の脳は、まるで二つの外部プロセッサに挟まれているみたいで、お昼休みになる頃には知恵熱が出そうなくらい熱くなっていました。
「……ふふ。やっぱり君は面白いね、クレアハートちゃん。……さて、午前の講義はここまで。午後は歴史、特に『失われた空白の百年』についての講義だ」
エミリオ先生は、ふと悪戯っぽく瞳を細めて、私が持ってきた鞄――その中にある『エミリオの私物資料』に視線を落としました。
「ん? ……どうかな? 私の蔵書は役に立ったかな。何か、面白い収穫は見つかった?」
(来たぞ、クーリア。ここからは質疑応答だ。自然な流れで、昨夜の単語をぶつけてみろ)
「ぁ、はい。あの。……先生の手記の中にあった、『魔素生命体』という言葉が気になって。……あれって、今回の私たちの実習と、何か関係があるんでしょうか?」
私が上目遣いで尋ねると、エミリオ先生は淹れたての
紅茶を一口啜り、ゆっくりと目を閉じました。
「魔素生命体? それは初等部でやって……ないね、そう言えばクレアハートちゃんは途中編入だったから」
(ああ、一応、試験の時にリナがチラッと言ってはいたが、戦闘時だったから、そこまで詳しくは聞いてないんだ。クーリアが寝てた時だな)
(もう、寝てたなんて。ただ、ちょっとトラウマを思い出して引きこもっちゃっただけじゃないですか)
「……それでね、魔素生命体というのは……」
エミリオ先生が、教壇に立つ教師のような顔で解説を続けようとした、その時。
(……おい、クーリア。その話はもういい。リナの時に要約は済んでるし、何より時間の無駄だ。……俺が代わる、話を一気に進めるぞ)
(あ、はい! お願いしますミコトさん!)
私はふっと意識を後ろに下げ、ミコトさんに体をお任せしました。
私の顔から「おしとやかな優等生」の仮面が剥がれ、冷徹な白金の冒険者の視線がエミリオ先生を射抜きます。
「……先生。そのあたりの一般概論はもう結構です。要は、定まった肉体を持たず、システム上のメモリリークが実体化したような、物理的な衝突判定が曖昧な厄介なバグのことでしょう?」
ミコトさんの低い声が部屋に響くと、エミリオ先生は驚いたように目を丸くし、それから「あはは」と愉快そうに笑いました。
「……おや。クレアハートちゃん、今の君はなんだか……とても『合理的』だね。……そうだね、その通り。君たちが例の場所で戦ったガーディアンも、その実体化した魔素の一種だ」
「なら話は早い。あの黒い円筒形が、そのバグを制御、あるいは定義するための心臓部だということも予測はついてるよ。……先生が個人的に持っている『手記』に、これ以上の機密情報がないのなら、この話はここで終了だ」
ミコトさんは、私が借りていた手記をパタンと閉じ、突き返すようにデスクに置きました。
「あはは。手厳しいね。……分かったよ。それじゃあ、春休み明けの予定だけ伝えようか。君には高等部所属として、正式に『地下遺構』の調査チームに加わってもらう。……もちろん、私の助手としてね」
(……結局、その『助手』という名の強制タスクからは逃げられないってわけか。……まあいい、学園の地下へ合法的に潜る権限が手に入るなら安いもんだ)
ミコトさんは内心で毒づきながらも、私の意識を再び表へと戻しました。
「まあ、すぐに動く訳じゃないから、しばらくは座学と実践の授業形式なのはあまり変わらないよ」
「う、そ、そうですか……」
(クーリア、終わったぞ。……さあ、春休みは残り少ない。明日からはあの『娘』の事は一旦置いておく。お前が前から気にしていた『銀の星屑亭』の様子でも見に行くか)
(ふえぇ。やっとですかぁ……あ、はい! ……でもミコトさん、私の今の姿を見たら、店長さんビックリしそうですね)
(まあ、たった数ヶ月で5歳分の成長たったしたんだからな。ああ、そうそう、プラネの変形機能で元のウェイトレス服にするのもいいんじゃないか?)
(わぁ、いいですねそれ! やりましょう!)
研究棟の重い扉が閉まると、春休みの夕暮れ時特有の、どこか寂寥感のある空気が私たちを包みました。
(ミコトさん、いいんですか? あの先生のこと、あんなに警戒してたのに……)
(構わん。あいつの「娘」への執着は、今すぐどうこうなる性質のものじゃない。それよりも、今の俺たちには『リソースの確保』が必要だ。あそこに顔を出して、あの店主の生存確認と……まあ、お前のメンタル・メンテナンスも兼ねてな)
(もう、素直に『自分も行きたい』って言えばいいのに。でも、楽しみです! あのカウンターで飲む温かいミルク、恋しかったんですよ)
私は、自分の足取りが自然と軽くなるのを感じていました。
ミコトさんの言う通り、プラネ――可変式ドレス『星霜の蒼』に念じれば、今の私の体型に合わせた「かつてのバイト服」を再現するのは造作もないことです。
学生服から、あの馴染み深いエプロンドレスへ。
姿形は少し大人びてしまったけれど、胸の奥で高鳴る期待は、あの頃の、ただ必死に生きていただけの私と何も変わりません。
「……ふふ、驚くかな。店長さん」
私は、琥珀色の瞳を夕日に輝かせ、学園の正門へと向かいます。
(……おいクーリア、あまり浮かれるな。……いいか、店に入ったらまず周辺の空間走査だ。……エミリオが店主のカミさんと知り合いだった以上、あの店がただの飲食店だという保証はどこにもないからな)
(もー、ミコトさんは! ……あ、でも、もし変な奴がいたら、私の『生活魔法』でサクッとお掃除しちゃいますからね?)
(……フン。掃除、か。……加減しろよ。店ごと『消失』させたら、お前の大好きなミルクも飲めなくなるからな)
私たちは、夕闇に溶け始めた街並みを抜け、かつて多くの夜を過ごした『銀の星屑亭』の看板を目指しました。
カチリ、と脳内でミコトさんが「戦闘モード」から「隠密(あるいは過保護な保護者)モード」へ切り替わる音がした気がしました。
【銀の星屑亭・入口】
翌朝。
カランカラン、と、ドアベルが懐かしい音を響かせます。
お店はまだ開店前ですが、店長さんとバイトの方が慌ただしく、最後の仕込みや掃除などの開店準備をしています。
「あ、えっといらっしゃいませ! ですが、まだ開店準備中でして……」
バイトの方が申し訳なさそうにお辞儀をしています。
私は、扉を開けた瞬間に鼻腔をくすぐった、使い込まれた木材と微かなコーヒー豆の香りに、思わず胸がいっぱいになりました。
(ミコトさん、ここです。やっぱり、この匂いです!)
(ああ。周辺の空間走査終了。特に不審な魔力反応はなし。だが、あのバイトの少年……。以前より少し手際が良くなっているな。おい、突っ立ってないで声をかけろ)
ミコトさんの冷静な、けれどどこか安堵したような声に背中を押され、私は少しだけ緊張しながら、深く被っていたフードを外しました。
「……あの、お久しぶりです。店長さんは、いらっしゃいますか?」
私がそう告げると、雑巾を持ったままのバイトの青年は、弾かれたように顔を上げました。
そして、私の顔を凝視したまま、まるで時間が止まったかのように固まってしまいました。
「え、あ……ええっ!? も、もしかして……クレアハートちゃん、なの……!?」
彼の驚きも無理はありません。
数ヶ月前、ここで健気に働いていた私は、もっと幼く、どこか消えてしまいそうなほど頼りない少女だったはずです。けれど今の私は、ミコトさんの魂を馴染ませ、背丈も伸び、琥珀色の瞳には「世界の理」を知る者の光が宿っています。
「まあ、驚きますよね。えっと、少しばかり『成長期』が激しくて」
私はふっと意識を切り替え、ミコトさんの少し自信に満ちた口調を借りて微笑みました。
プラネで再現した懐かしのウェイトレス服は、今の私の体型に合わせて完璧に最適化されており、まるで昨日までここで働いていたかのように身体に馴染んでいます。
「な、なんだ、それ……? いや、でもその目は……。店長! 店長、大変です! 幽霊……じゃなくて、クレアハートちゃんが、なんか凄くなって帰ってきました!」
バイトの彼の叫び声が、店の奥にある厨房へと響き渡ります。
(フン、相変わらず騒々しい奴だ。おい、クーリア。店主が来るぞ。……あの狸ジジイの話が本当なら、店主の反応からエミリオとの『コネクション』の深さを読み取るんだ。……いいな?)
(わ、わかってますってば! ……でもまずは、ちゃんと挨拶させてくださいね)
奥から、ドタドタと慌ただしい足音が近づいてきます。
厨房の暖簾を跳ね除けて現れた店長さんは、手に持っていたお玉を落としそうな勢いで足を止めました。
「店長さん、お久しぶりです。……驚かせちゃいましたか?」
私は、琥珀色の瞳を少しだけ細めて、いたずらっぽく微笑んでみました。
店長さんは、何度も目をこすり、私の顔と、プラネが作り上げた完璧なウェイトレス姿を交互に見ています。
「嬢ちゃん……なのか? 本当に?」
震える声。それは、驚きというよりも、何か信じられない奇跡でも目の当たりにしているような、そんな響きでした。
店長さんの視線は、私の顔立ちの中に、今は亡き奥さんである奥さんの面影を無意識に探しているようにも見えました。
(ふむ、動揺しているな。単なる再会の喜びだけじゃない……何か、過去の残像を俺たちに重ねている。……おいクーリア、あまり感傷に流されるなよ。まずはここのカウンターに座らせてもらえ)
(ミコトさん……。でも、店長さんの顔、すごく嬉しそうです。……よかった。またここに来られて)
店長さんは、ようやく止まっていた息を吐き出すと、目尻に滲んだものを手早く拭って、いつもの豪快な笑顔を作りました。
「なんだ……。たった数ヶ月で、そんなに立派なレディになっちまって。……おい、お前ら! 突っ立ってないで仕込みを続けろ! この嬢ちゃんは、俺の大事なゲストだ」
店長さんはカウンターの中へ滑り込むと、まだ熱いままのポットに手をかけました。
「さあ、座ってくれ。これは奢りだ。とびきりのホットミルク、淹れてやるからな」




