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町歩き(前編)

今回は少し短め

 講堂に響く校歌をぼんやりと聞きながら、私は自分の手のひらをそっと見つめました。

 数ヶ月前までは、ただ震えることしかできなかったこの手が、今は不思議と落ち着いています。内側にいる「彼」――ミコトさんの気配が、温かな膜のように私を守ってくれているのがわかるから。

 終業式が終わると、講堂内は一気に喧騒に包まれました。進級の喜び、別れの寂しさ。いろいろな感情が混ざり合う中、レオくんとリリィちゃんが人混みをかき分けて私の元へやってきます。


「クレアちゃん……! 本当に、本当に行っちゃうんだね、高等部」


 リリィちゃんが私の手をぎゅっと握りしめて、今にも泣き出しそうな顔で言いました。掲示板に貼り出されたあの日から覚悟はしていたけれど、いざその日が来ると、心にぽっかりと穴が開いたような気分になります。


「……うん。私も、まだ実感がわかないんだけど。でも、リナ先輩が『待ってる』って言ってたから」

「ふん、あの人のことだ。手ぐすね引いて君を待ち構えているに違いないよ」


 レオくんは、少しだけ寂しそうに視線を逸らして笑いました。彼とは実習以来、なんだか不思議な距離感になりました。以前のような尖った感じが消えて、どこか私を……いえ、私の中にいる「誰か」を尊重してくれているような。


「ボクたちは中等部になるけど、君に置いていかれたままでいるつもりはないからね。春休み中に特訓して、次に見る時は驚かせてやるよ」

「レオ……。あ、そうだ! ねえクレアちゃん、春休み中に一度、みんなで街へ遊びに行かない?」


 リリィちゃんがパッと顔を輝かせて提案しました。


「街へ……?」

「そう! 学園の近くにある城下町。美味しいお菓子屋さんも、素敵な雑貨屋さんもたくさんあるんだから。進級のお祝いも兼ねて、パーッと遊びましょ!」


(……ふむ。街の視察か。確かに、この世界の技術がどの程度のものなのか、一度見ておく必要があるな)


 頭の奥で、ミコトさんの落ち着いた声が響きました。いつもの「デバッグ作業」みたいな言い方だけど、私は知っています。ミコトさんがこう言う時は、私の「やりたいこと」を優先してくれているんだって。


「……いいですよ。私、街へ行くの、楽しみです」

「決まりね! レオ、アンタも絶対来なさいよ!」

「わかってるよ。……君のボディーガード役がいなくて、誰かに絡まれても困るからね」


 そう言って笑い合う二人を見て、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じました。

 高等部は、きっと今までよりもずっと厳しい場所。リナ先輩が言う「異常」な私を、鋭く見抜こうとする人がたくさんいるかもしれません。

 でも、こうして笑い合える友達がいて、一番近くに誰よりも頼もしいミコトさんがいてくれる。


「……よし、準備はいいか、クーリア。休み明けからは、この世界の『核心』を叩き起こしに行くぞ」


 ミコトさんの静かな決意。私は小さく頷いて、春の柔らかな光が差し込む講堂を後にしました。


 学園都市グリランドール。

 その名は、世界中の魔法使いにとっての聖地であり、同時に魔法という技術が最も「日常」に溶け込んだ巨大な実験場でもあります。

 メインストリートに一歩足を踏み出すと、そこはまるでおもちゃ箱をひっくり返したような賑やかさでした。空を飛ぶための最新型の箒を展示した高級店、鈍く光る希少な魔導石を並べた触媒屋、そして生活魔法を補助する小さな日用品を扱う雑貨屋……。

 東西南北から集まった商人たちの呼び声と、どこからか漂ってくる香辛料の香りが、春の風に乗って鼻をくすぐります。


「見て見てクレアちゃん! あのアクセサリー、魔素に反応して色が変わるんだって。可愛い!」

「……本当だ。でも、あっちの店に並んでいる『速読の指輪』も気になるね。実用的だ」


 はしゃぐリリィちゃんと、真面目な顔で魔導具を吟味するレオくん。

 私はといえば、ミコトさんから預かっているお金――金貨80枚ほどが入った袋をぎゅっと抱えながら、ウィンドウショッピングに徹していました。


(所持金は……一般家庭なら数年は遊んで暮らせる額だが、魔法使いが研究や装備のアップデートに手を出せば一瞬で溶ける額だ。クーリア、まずは見るだけで我慢しろ。相場を知るのもデバッグの一環だ)


 頭の中で聞こえるミコトさんの声。厳しいことを言っているけれど、私が珍しい魔法のお菓子に目を輝かせると、彼は黙ってその「仕組み」を解説してくれました。それだけで、なんだか一緒に歩いているみたいで楽しくて、時間はあっという間に過ぎていきました。

 やがてお昼時。私たちは最近オープンしたばかりだという、少しお洒落なレストランに入ることにしました。「東西の融合」を謳ったその店は、魔法使いだけでなく一般の観光客でも賑わっています。


「お腹すいたー! さあ、何を食べようかな……」

 リリィちゃんがテーブルに置かれたメニュー表を広げました。けれど、その中身を見た瞬間、三人の動きがぴたりと止まりました。


「……ねえ、レオ。これ、なんて書いてあるの?」

「……ボクにも読めない。いや、文字は読めるんだけど……意味がわからない」


(……なんだ、この悪趣味な言語ボキャブラリーの崩壊は)


 メニュー表を覗き込んだ瞬間、ミコトさんの声が頭の奥で、氷点下まで冷え込んだツッコミを入れ始めました。


「ね、ねえ。この『黄金の何かを包む茶色い物体に、こんなにも赤い物が』って……金貨でも包んでるの?」

「リリィちゃん、それは流石に食べられないと思うけど……。この『茶色く濁ったアンチクショウ』っていうのも、喧嘩を売られてるみたい……」


 私が困惑している間にも、ミコトさんの解説(という名の毒舌)が止まりません。


(……いいかクーリア、落ち着いて聞け。この『黄金の何か』は恐らく卵だ。茶色はデミグラス、赤いのはケチャップ。つまりはオムライスだ。だが、この表現力は物理法則への冒涜に近い)

(あ、オムライス……。それなら美味しそう……かも?)

(……問題は次だ。『滴り落ちる赤い液体を受け止める、聖杯に盛られた粉雪』。聖杯はただのパフェグラスだろうが、赤い液体はベリーソースか、あるいは調理ミスで生じた別の何かだ。粉雪はかき氷だろう。……だが、不穏すぎる。食欲をそそる気があるのか、この店主は)


 レオくんは眉間にシワを寄せて『暴力的なまでの肉の塊』という項目を指差しています。


「客を絶望させるほどの巨大ハンバーグ、あるいはステーキ……。ボクは騎士の端くれとして、この『絶望』と戦ってみる必要がある気がする」

「レオくん、それはただのやけ食いじゃないかな……」


 そして私が一番気になったのは、飲み物の欄にある『茶色く濁ったアンチクショウ』でした。


(……アンチクショウ……。おい、まさか。この世界に存在するはずのない『カフェイン』か? それとも、ただの泥水か。……クーリア、それを頼め。正体を見極める必要がある)


 ミコトさんの声には、いつになく並々ならぬ執念がこもっていました。お洒落なはずのレストランなのに、まるで爆弾の解体現場にいるような緊張感。


「あ、あの……。すみません、注文をお願いします……っ」


 私は震える手で店員さんを呼びました。このメニューを考えた人が、もしミコトさんのような視点を持っている人だとしたら。……いえ、それよりも今は、この『アンチクショウ』がどんな味なのか、怖くて仕方ありません。


(……おい、ちょっと待て。俺の推論を鮮やかに裏切りやがったな、このメニュー)


 ミコトさんの声が、さらに一段低くなりました。

 運ばれてきたのは、私の想像ともミコトさんの予想とも違う、けれど驚くほど繊細な料理でした。


「わあ……綺麗……っ」


 思わず声が漏れました。

『黄金の何かを包む茶色い物体に、こんなにも赤い物が』。

 運ばれてきたのは、サクッと揚げられたきつね色の衣の中から、とろりと溶け出した濃厚なチーズが顔を出し、それを鮮やかなトマトピューレのソースが彩る一皿――「チーズを包んだハムカツ」でした。

 トマトの酸味、バルサミコのわずかな渋み、そしてバジルの爽やかな香り。スッキリとしたソースが揚げ物特有のしつこさを打ち消して、さっぱりと食べられます。シンプルなのに、まるで魔法の術式を編み込むような精密なバランスで構成された味が口の中に広がります。


(……チーズをハムで巻き、衣を付けて揚げる。そこまではいい。だが、このソースの仕上げ、タマネギの刻み具合と加熱による糖度の制御……。熱力学的な「旨味の抽出」を完璧に理解している奴の仕業だ)


 そして、最後に来たのが例の『茶色く濁ったアンチクショウ』でした。


「……すごーい! クレアちゃん、見て! 泡の上に絵が描いてあるよ!」


 リリィちゃんが身を乗り出して覗き込みます。

 白い泡の上に描かれていたのは、繊細な魔法陣……ではなく、どこか物憂げな表情をした猫のような生き物の、芸術的なラテアートでした。


(なんだ……ただのカフェラテか。いや、圧力抽出に近い手法で絞り出したこだわりの一杯だ。それにこのラテアート、並の腕前じゃない。アンチクショウ……。恐らく、徹夜続きのデバッグ中にこれに救われ、同時にカフェインの奴隷にされた開発者の、恨みと愛着が入り混じった命名なのかもしれない。だが、その執着心にも似た拘りが伺い知れるな)


 ミコトさんは、呆れたように、けれどどこか敬意を滲ませるように呟きました。

 一口飲んでみると、ミルクの甘さの後に、突き抜けるような苦味と深い香りが広がります。


「……美味しい……」

「本当だ。この『肉の塊』も、焼き加減が完璧すぎて別の意味で絶望するよ。肉汁が溢れて止まらない……」


 レオくんも、巨大なハンバーグを前にして、文字通り「敗北」したような顔で頬張っています。

 美味しい料理、賑やかな街の音。

 見た目はこんなにまともで、味も最高なのに、どうしてこうもおどろおどろしい名前がついているんでしょう。このメニューの考案者は、きっと独特の感性と拘りを強く持つ人なんだろうな、なんて思ってしまいます。


(クーリア、そのアンチクショウは少しずつ飲め。……いいか、それは『カフェインという覚醒の薬』だ。高等部という戦場へ向かう前の、最後の休息にはちょうどいい)


 ミコトさんの声が、少しだけ優しく響いたような気がしました。

 私は、ラテアートの猫を崩さないように、大切にカップを傾けました。

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