溢れる陶酔
――ズズ……。
意識の底、澱のような沈黙を、不快な摩擦音が切り裂く。
火の元を任せるとは言ったものの。正直なところ、現状の彼らへの信頼度はジャンク品以下だ。
俺は川辺に腰を下ろし、拾い上げた「魚(だったものを含む)」の解体作業に着手する。
ゾリ、とナイフで鱗を削ぐ。
意識の三割を背後の二人に割き、残りの五割は、俺の背を執拗に焼くリナの視線を防衛するために費やしていた。
(……ああ、全く。こうも全霊で凝視されては、やりづらいことこの上ない)
リナは相変わらず、付かず離れずの距離で俺をマークしている。
じりじりと、その視線は物理的な熱量を帯び、俺の一挙手一投足を、プロの鑑定眼で値踏みし続けていた。
そんな緊張感を知ってか知らずか。
背後からは案の定、期待を裏切らない破滅の予兆が響き渡った。
「うわあああぁっ?! 待って、火を点けようとしただけなのに!」
ドッ、と空気が膨張する。
振り返るまでもない。レオの放った術式が空間の過剰魔素を喰らい、指向性を持った火炎放射へと変貌したのだ。
「ちょっとレオ、何やってるのよ! 今消すから、――『水刃』!」
(待て、それは消火に使うような物じゃない!)
ビシャアッ!
慌てふためくリリィが叩きつけたのは、消火剤ではなく、さらなる魔素の活性を招く「呼び水」に過ぎなかった。
ボシュウウゥッ、と水蒸気爆発じみた衝撃が走り、霧散した水分が周囲を舐め始める。
(……はぁ。あれほど魔力制御には細心の注意を払えと言ったのに。本当に、一瞬も目を離せないな)
俺は深く、重いため息を肺の奥で噛み殺す。
スウ、と流れるように川面へ指先を浸し、そこから極薄の「真空膜」を延焼範囲へと滑り込ませた。
シュボボッ。
不自然なほど呆気なく、世界を焼き尽くさんとした紅蓮は、その存在を「無かったこと」にデバッグされた。
「……ねぇ、クレアちゃん。今の、見た?」
ゾワリ、と背筋に冷たい何かが走る。リナの声には、もはや隠そうともしない温度の欠落があった。
「……え? あ、……火が消えて、良かったです。……びっくりして、手が、滑っちゃいました」
パチ、パチ。
沈黙した焚き火の跡を、リナは深淵を覗き込むような瞳で凝視している。
だが、確証は掴ませていない。はずだ。
「……そうだね。君がいてくれて、本当に助かるよ。……色んな意味で」
その皮肉を「理解できない少女」として受け流し、俺は再び作業に戻る。
トントントン。
一定のリズムで身を叩き、即席のリカバリを完遂させる。
「さぁ、出来ましたよ。お鍋、食べましょう」
差し出された鍋から立ち上る、芳醇な香りと、物理的に最適化された温度の湯気。
その瞬間、レオとリリィの顔に驚愕と法悦が広がった。
だが――俺の「ターン」は、そこからだった。
「いいですか? 美味しいと感じる現象には、揺るぎない『論理』が存在するんです!
」
カチリ、と脳内のスイッチが切り替わる音が鳴った気がした。
俺の口から、これまでのクレアハートからは想像もつかないような、熱を帯びた「情報の奔流」が溢れ出し始めた。
「夏にスイカ、冬に白菜。これらは単なる情緒ではありません! 植物とは、その環境下で生存し続けるための戦略として、必要な栄養素を合成する化学工場なんです!」
ガタッ、と。
勢いよく立ち上がり、鍋の中の具材を一つずつ指差しながら、一心不乱に「真理」を説き続ける。
「この魚の不飽和脂肪酸、隠し味のアルカロイド。これらが相互作用し、体内での魔素燃焼効率を最大化する。いわば、これは『食べるデバッグ・パッチ』。貴方たちの生体機能を環境に適合させるための、精密な化学反応なんです! 分かりますか? 分かってますか、貴方たち!」
……。
静寂。
パチ、パチ……。
焚き火が爆ぜる音だけが、虚しく響く。
レオとリリィは、あまりの情報の暴力に思考が完全にフリーズしている。
そして。
観察し続けていたリナまでもが、匙を止めたまま「……何、この異物?」と言わんばかりの、戦慄にも似た表情を浮かべていた。
……。
……やりすぎた。
「……あ。……え、えっと。……村の、おじいちゃんの受け売りなんですけど、ね?」
俺は慌てて「頼りない少女」の面を被り直したが。
今の演説の後では、その言葉はあまりにも空虚に、夜の空気に溶けて消えていった。
レオは口を開けたまま固まり、リリィは匙を持った手で空を仰いでいる。彼らにとって、今の演説は魔法の詠唱よりも理解不能な、異世界の概念だったに違いない。
そして何より、リナだ。
彼女は俺の顔と、鍋の中身を交互に見比べた後、こわばった笑みを浮かべてポツリと漏らした。
「……随分と、博識なおじいちゃんだねぇ。……それとも、今の『不飽和……何とか』っていうのは、生活魔法の隠された秘儀かな?」
(……最悪だ。効率化への執着が、隠蔽の論理を上回っちまった。栄養学、という概念は、この世界には存在しないのか?)
内心で、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
複数人の知識を繋ぎ合わせた俺の脳内コンパイルでは、摂取エネルギーと生体反応の関係性は「ただの物理法則」だ。だが、リナのあの困惑と戦慄が混ざったような反応を見る限り、この世界の住人にとって料理とは「味」や「腹を満たすもの」であって、魔力回路を物理的に補完する「パッチ」ではないらしい。
(しまったな。これじゃ、ただの『物知りなお嬢さん』の範疇を大幅にオーバーフローしてる。国立図書館の禁書棚? 冗談じゃない。俺の常識が、この世界の非常識だったわけだ)
俺は慌てて、顔を引きつらせながらも「無知な少女」のスクリプトを走らせた。
「……あ、あの……不飽和? とか、そんな難しい言葉だったかは怪しいんですけど……。とにかく、おじいちゃんが『こうやって食べれば元気が出るんだよ』って、いつも呪文みたいに言ってたので、それをそのまま……。えへへ、変なこと言っちゃいましたよね、私」
頬を赤らめ、頭を掻きながら、できる限り「必死に覚えたことを口走っただけの子供」を演じる。
だが、リナの目は笑っていない。
彼女は魔法剣士として、実戦の中で魔力の「理」を肌で知っている。だからこそ、俺が適当に並べたはずの言葉が、レオたちの魔力回路を劇的に回復させたという「結果」との整合性を、冷徹に計算し始めている。
「……呪文、ねぇ。もしそれが本当にただの言い伝えなら、君のおじいちゃんは伝説の賢者か、あるいは異界の住人だったのかもね」
リナはそれ以上追及せず、ポンと俺の肩を叩いて歩き出した。
だが、その去り際の視線には「面白そうなサンプルを見つけた」という、観測者特有の不気味な熱が灯っている。
(……やれやれ。これ以上ボロを出す前に、さっさと寮に戻ってクーリアを再起動させないと、俺の精神が持たんぞ)
気まずい沈黙を鍋と一緒に飲み込み、俺たちは重い腰を上げた。
レオは相変わらず「不飽和……パッチ……」とブツブツ呟きながら、自分の腹をさすっている。どうやら、物理的に魔力回路のノイズが消えた感覚が、彼を深い思索(あるいは混乱)に叩き落としているらしい。
森の木々が次第にその密度を減らし、頭上の枝葉の隙間から、人工的な魔素の光ではない、本物の陽光に近い輝きが差し込み始めた。
「わぁ……」
リリィが感嘆の声を漏らす。
目の前に広がったのは、鬱蒼とした森の終着点とは思えないほど、穏やかで開けた日向だった。
視界を埋め尽くすのは、季節を無視して咲き乱れる色とりどりの花々。その中心、花畑に囲まれるようにして、古びた、けれど厳かな小さな祠がひっそりと佇んでいた。
三層の「氾濫」という狂騒が嘘のような、静謐な空間。
だが、俺のセンサー……ストラトスの核である『紅い瞳』は、その祠から漏れ出す、これまでとは比較にならないほど濃密で「整った」魔力波動を検知していた。
「ここが、三層の終点。そして、四層へのゲートだよ」
リナが、魔法剣の鞘を軽く叩きながら告げる。
彼女の視線は、まだ俺の横顔を観察するようにねっとりと絡みついていたが、祠を前にして、プロの魔法剣士らしい真剣なものへと切り替わった。
「この祠に、三人の魔力を同時に流し込む。それが四層へ進むための『鍵』になるの。……レオくん、リリィちゃん、クレアちゃん。準備はいい?」
「も、もちろんさ! さっきのクレアハートの……その、栄養パッチ? のおかげで、魔力は満タンだからね!」
レオが長杖を構え、強気な笑みを浮かべる。
俺は一歩下がり、祠の基部へと手を添えた。
(……四層か。ここまでは学園の『想定内』のバグ取りに過ぎなかったが、この先はどうなる)
俺は意識の深層で、未だに昏睡し続けているクーリアの魂に触れる。
彼女が目覚めるまで、俺はこの「クレアハート」という、世界で一番理屈っぽくて不審な少女を演じ切らなければならない。
(クーリア。……次に目を覚ました時、お前が笑っていられる環境を、俺が必ずコンパイルしてやる)
俺はストラトスのリミッターを、リナに悟られない程度に、ほんの数%だけ緩めた。
祠に流し込まれた三人の魔力が混ざり合い、静寂に包まれていた花畑が、白銀の光に呑み込まれていく。
祠から溢れ出した白銀の光が、網膜を白く焼き潰す。
三人の魔力がゲートへと吸い込まれ、空間が強引に折り畳まれる感覚。
その急激な加速に耐える俺の意識の端で、澱んでいた闇が、ふっと光を透かした。
(……ん、……ぅ……。……ミコト、さん……?)
その、震えるような、けれど柔らかな声。
(――クーリア! 目が覚めたか)
(……私、……あ、魔狼が……。……あ、あれ? 祠? 私、今まで何を……?)
混乱する彼女の記憶に、俺はこれまでのログを一瞬で転送する。魔狼を消滅させたこと、三層を突破したこと、そして――俺が彼女の名前を使って「栄養学」という名の爆弾をバラ撒いたことも。
(……ええっ?! ふ、不飽和……パッチ……?! 料理の、ロジック……?! な、なんですかそれ、私、そんなこと知りませんよぉ!)
案の定、脳内で彼女が真っ赤になって悶絶する気配が伝わってくる。
だが、今の俺にそれを宥めている余裕はない。
(いいか、クーリア。ゲートを抜けた先から、表層の意識はお前に戻す。だが、ここは四層だ。何が起きるかわからない。戦闘や魔法の行使は俺が裏で制御するから、お前は……そうだな、なるべく『いつものお前』でいろ)
(は、はい……! わかりました。……ミコトさん、守ってくれて、ありがとうございました)
その素直な言葉が、効率至上主義の俺の思考回路に、妙なノイズを走らせる。
光が収束していく。
視界が開けた先には、三層までの「人工的な回廊」とは明らかに趣の異なる、冷たく静謐な結晶の洞窟が広がっていた。
「……っ。ここが、四層……?」
リリィの震える声。
俺は、意識の主導権をゆっくりとクーリアへと明け渡す。
肉体の主権を取り戻した彼女は、慣れない「自分の体」に戸惑いながらも、不安げに周囲を見渡した。
「……あ、……あの。リナ先輩、ここは……」
その声は、先ほどまでの冷徹な理屈屋とは打って変わって、リナが知る「心細い特待生」のそれに戻っていた。
リナが、じっとこちらを見つめる。
一瞬、その鋭い観察眼が俺とクーリアの「入れ替わり」を見抜いたのではないかと肝を冷やしたが――彼女はふっと表情を和らげ、魔法剣を握り直した。
「……おかえり、クレアちゃん。今の声の方が、ずっとしっくりくるよ」
(……チッ。やはり完全にマークされているな)
俺は深層に潜り、ストラトスのリミッターを戦闘態勢へと引き上げた。
表層で怯える彼女を守りながら、この未知の階層をどうデバッグしていくか。
俺たちの、本当の「共同作業」がここから始まる。




